樋口一葉の日記から
其の参のロ

『全集 樋口一葉B 日記編』(小学館 1996年)より
     注:繰り返し記号は、ウェブページの都合上、適宜、平仮名漢字に変えています。      

※ このページは、1893(明治26)年7月以降の日記について掲載

7月       7月1日    7月5日    7月7日     7月11日    7月12日   7月15日
7月17日    7月20日   7月23日   7月27日   7月28日
8月6日    8月9日    8月10日   8月11〜16日         
8月18日   8月19日   8月20日   8月21日   8月25日
9月1日    9月4日    9月15日   10月25日  11月15日   11月19日   11月23、24日
12月1日    12月2日   12月28〜31日


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7月    (『につ記』)
日記本文  人つねの産なければ常のこゝろなし。手をふところにして月花にあくがれぬとも、塩噌なくして天寿を終らるべきものならず。かつや文学は糊口の為になすべき物ならず。おもひの馳するまゝ、こゝろの趣くまゝにこそ筆は取らめ。いでや、是れより糊口的文学の道をかへて、うきよを十露盤の玉の汗に商ひといふ事はじめばや。もとより桜かざしてあそびたる大宮人のまどゐなどは、昨日のはるの夢とわすれて、志賀の都のふりにし事を言はず、さゞなみならぬ波銭小銭、厘が毛なる利をもとめんとす。 (略) 唯、読者の好みにしたがひて、「此度は心中ものを作り給はれ、 (略) 歴史のあるものがよし、政治の肩書あるがよし、探てい小説すこぶるよし、此中にて」などゝ、欲気なき本屋の作者にせまるよし。身にまだ覚え少なけれど、うるさゝはこれにとゞめをさすべし。さる範囲の外にのがれて、せめては文字の上にだけでも義務少なき身とならばやとてなむ。 (略) されどうき世はたなのだるま様、ねるもおきるも我が手にはあらず。「造化の伯父様どうなとし給へ」とて、
    とにかくにこえてをみまし空せみの
         よわたる橋や夢のうきはし   
「塩噌なくして」は「えんそなくして」で、「塩酢、つまり食べることを等閑にして」。
「糊口的文学」は「生活のため、収入を得るために著作する文学」。「造化の伯父様」は「創造の神様」という呼びかけの言葉。
 一葉の生きた7月。
 この月は、一葉の短い生涯の中でも特に注目すべき時期である。小説家になって母妹を養おうとしていた彼女にとって、その道のりは予想以上に険しかった。父の遺した多額の借金にも追われ、明日の米どころか今日の米さえもない暮らしにあえいでいた。借金も尽く断られ、万策尽きた一家は、商売を始めることを6月29日に決めた。そして一葉は、これを機に、ここに至るまでの「日記」を6月30日で終え、新たに別の冊子に書き始めたのである。上記は、その新しい日記の巻頭言と言えるもので、過去の何ものかと決別し、新しい境涯に進んでいこうとする決意が綴られている。
 「糊口的文学」云々の言葉は、上記全集の脚注によれば、奥泰資の「文学と糊口と」という論文から影響を受けたものとのこと。前年の12月末の「よもぎふ日記」に、年の瀬も迫ったというのに一銭の入金の当てもない中、原稿依頼の話が舞い込んで喜ぶ家族の様を記し、「『早稲田文学』に「文学と糊口と」といふ一欄ありしを思ひ出れば、面あからむ業也」と書いていたのである。
 家族を養うために始めた小説家としての生活であったが、それは想像以上に厳しく悲惨なものであった。その上、読者に迎合しなければならない売文生活を省み、彼女は、「文字の上にだけでも義務少なき身とならばや」と思い立ったのである。生活は生活、文学は文学として、純粋に自らの求めるものを究めようとしたのであろうか。だがそれが何なのか、彼女の求める文学とは何か、おそらくこの時点ではまだ明確ではなかったように思う。「とにかくにこえてをみまし」の和歌も、背水の陣で迎える商人生活への覚悟の弁と言えるが、半ば自棄的な、しかしそれでいてどこか自己を冷めた目で眺めているような調子が感じられなくもない。この自分、いったいどこへ行くのか、でもどうなろうと最後まで見極めてやろう。そんな開き直ったようなニュアンスが、私には窺える。
7月1日    (『につ記』)
日記本文 七月一日 晴れ。母君、かぢ町より金十五円受とりきたる。芦沢、「かまくらより帰京なしたり」とて来たりしかば、商業はじむべきものがたりして、山梨より金五拾円かりくるゝ様頼む。速座に手紙をかく。小づかひ二十銭渡す。残り二円二十銭也。此よ、小石川より神田辺散歩。
 一葉の生きた7月1日。
 「かぢ町」は、一葉の母がその資金調達のために赴いたところである。そして、一家は7月20日に下谷龍泉寺町の二軒長屋へ越していった。あの、『たけくらべ』の舞台となった新吉原に近接する場所であった。付近一帯、廓者や貧民の吹きだまりのようなところで、そこで、一家は雑貨駄菓子屋を開いたのである。結局は、一年も経たないうちに閉店してしまうことになるのだが、そこで見聞した社会の底辺に生きる人々の姿が、のちの一葉文学を生み出すことになったのである。
7月5日    (『につ記』)
日記本文 五日 薄ぐもり。めづらかに涼し。奈良わたりのひでりにて水論しきりに起り、雨乞などの風説聞くさへ哀也。
 四、五日此方、横浜銀貨相場おびたゞしき乱高下にて、中には店をとぢたるも有よし。独り奇利をたくましくなしたるは、正金銀行なりとか聞えし。小林君より返書来る。金子調達なりがたし。
    此ごろかしましきもの
 教育宗教衝突事件。新聞に雑誌に議論かなへの沸く様也。
    にくきものは
 密りょう船のはびこり。伊豆七島などにも出没するよ。
    公使二人の上
 大鳥と大石といかならんとすらん。支那も朝鮮もかゝはる処ちかければ。
 千島かんもまだ裁判終らざるこそ心もとなけれ。反訴とかや、にくき事をぞいふめる。わが判官べんごしに、明らけくさとき人ありて、ときふせたらむには、いかに嬉しかるべきにや。
 執達吏こそにくき役なれ。名のみ聞けば、其人さへおにおにしく、情なからむとおもふに、又相しりたる人などのそれに成りて、さしもにくげなくなどさへあるぞ、をかしきや。
 ( 略 )  
【注】「奈良わたり」は「奈良の辺り」。「金子」は「きんす」。
「かなへ」は「鼎」のことか。つまり、「鼎に入れた湯がぐらぐら煮えたぎるように議論がわき起こっている」という意味か。
「明らけくさとき人」は「賢明で聡明な人」。「日本側の弁護士に聡明な人がいて、相手側を説き伏せたら、どんなにか嬉しいだろう」。
「千島かん」は「千島艦」。「執達吏」は「しったつり」で、執行官の旧称。
 一葉の生きた7月5日。
 「小林君」は「小林好愛(こばやしこうあい)」。亡き父則義が東京府庁に勤めていた頃の上司で、則義没後も親しく交際し、一葉達に金銭的な援助もしていた。この前日の4日も、母たきが家にあった書画類まで持っていき、商売の元手を借りようとしたのであった。だがこの日、断りの返事が来た。困った一家は、2日後の7日、別人宅(田部井)に衣類や骨董を持参して泣きつくことになる。
 この後の記述は、一葉の社会事象への興味関心が垣間見られるものである。彼女は、決して詳しいというわけではないが、興味を持った社会問題や事件・事故の話題を日記によく書きとめている。
 「教育宗教衝突事件」は、前年の11月、井上哲次郎がキリスト教を教育勅語の精神に反するとして批判し、これにキリスト教側から反駁が起こったというもの。「大鳥と大石」は、清国全権公使大鳥圭介と朝鮮弁理公使大石正巳のこと。この年は日清戦争の前年で、朝鮮国内の政争と日清両国の利害が絡み合い、緊張が続いていた頃である。ただ、一葉が、この情勢にどこまで詳しくどの程度の関心を抱いていたかは分からない。「千島かん」の話は、この年5月、日本の軍艦千島が伊予灘沖でイギリス貨物船と衝突して沈没した事故のことである。この損害賠償をめぐって日本政府とイギリスの会社が対立していたらしい。
 「執達吏」云々の中の「相しりたる人」は、筑摩書房版の「樋口一葉全集」の脚注によれば、渋谷三郎のこと。一葉の許嫁であったが、父則義の死後に破談を申し入れてきた人である。彼の祖父は真下専之丞という人で、一葉の両親と同じく甲斐の国の農民であった。が、志を抱いて江戸へ出奔し、やがては洋書調所調役組頭に出世した。実は、一葉の両親もこの人を頼って江戸へ上ったのである。そのような繋がりから、一葉と三郎とは幼なじみであった。それで則義は、自分の死の間際に娘のことを三郎に託したのである。が、三郎は、則義の死後に破約を言ってきた。理由は、樋口家の財政事情を知ったためらしい。勿論、一葉は、心に癒しようのない深手を負った。後に書く『やみ夜』の波崎、『十三夜』の原田造型には、この体験を通して形成された彼女の人間観、男性観が反映されていると言われている。
 ところで、この三郎はやがて検事となり、昭和6年に65歳で没するまで、判事、早大教授、早大法学部長、秋田県知事、山梨県知事、早大学長、会社社長等々、いわゆる出世街道を歩き続けたのである。
7月7日    (『につ記』)
日記本文 七日 母君、田部井のもとに衣類売却の事たのみに参り給ふ。「 (略) 敷島の歌のあらす田あれにける様を見しりけるより、すべてのよのあさましさ、はかなさまでおもひたどられて、何か又さらに花々敷むしろにつらなり、おこめかしくひゝらぎ居ぬべき心地もせず。万憂をすてゝ市井のちりにまじはらむとおもひたちける身に、花紅葉何のうるはしき衣かきるべき。よしこれにて十金也とも、十五金也とも、得しほどをもてもと手とせむ。これをうしなはゞかれにつくべきのみ」とて成けり。
 一葉の生きた7月7日。
 商売を始めることにした一葉の一家は、その元手を作るため、更に借金を重ねざるを得なかった。従って、この時期の日記は、金策の苦労話がほとんどである。
 「田部井」は、古着などの仲買業をしていた人。省略した部分には、亡き父の愛した書画は売るまいと決心したことが記してある。そして、わずかに残していた絹や縮緬の着物の話へ移っている。
 これらの着物は、歌塾萩の舎での会合の時に着ようと残しておいたのだが、今は、そんなことを言っている場合ではない。萩の舎の腐敗した実態を知るにつけても、そんな中に自分も加わってもっともらしいことを言う気にはなれない。市井に入っていく決心をした身に、美服は不要……と、萩の舎への決別の意思も込めながら語っている。
 一見、潔い決意の弁のようであるが、これらの勝ち気な言葉の背後には、かつてはこれで世に出ようとした「敷島の歌」、つまり和歌という「花々敷むしろ」の世界から、塵の中へ転落していかざるを得ない激しい無念さが渦巻いていたのである。
7月11日    (『につ記』)
日記本文 十一日 明日父君祥月命日なれば、たい夜として茶めしたき、汁たてなどして、まねくといふほどならねど上野君を呼ぶ。午前より五時頃まで遊ぶ。(略)兄君来る。此度の計画をもの語るに、「何事の可否もなし。もとより我がおもふにたがひたるはらからが、如何様の事なさんとも、そは関する処ならず。されども見給へ、末終になしとげらるゝ物には非らじ。まこと浮よのむづかしきを知り、たてたる心のをるゝ時あらば、我も又よそに見んとはいはず。かしらを下げて来る事あらば、母をも其方らをもやしなひては取らすべし。夫までの事は勝手たるべし」とて、いとひやゝか也。深くかたる事もなくてふしぬ。暑さはげしく、更るまで寝がたし。(略)
【注】「たい夜」は逮夜で、命日の前夜のこと。「はらから」は兄弟姉妹。「夫まで」はそれまで。
 一葉の生きた7月11日。
 7月12日が一葉の父樋口則義の祥月命日であるため、樋口家では前日のこの日、茶飯を炊いて供養をした。
 「上野君」は上野兵蔵のことで、則義の幼友達でもあり、共に菊池家に仕えた同僚でもある。日記には「伯父君」としてよく出てくるが、血のつながりはない。則義が武士の身分を得るために準備した偽りの親族書に、自分の兄として書き入れた人である。
 「兄君」とは、これまでに何度も触れてきた虎之助のことで、詳細は1892(明治25)年9月5日を参照されたい。彼は、彼女らと同居していた時期もあったが、母たきとの折り合いが悪く、この時は別居していた。上記の「此度の計画」は商売を始める計画だが、彼は、一葉の記述によれば、この話に冷淡だったらしい。「かしらを下げて来る事」があったら、お前達を養ってやろう、しかしそれまでは「勝手」にしろ……。横柄な感もある言葉である。だが、それは、女性たちが自らの力で生きることが困難であった時代の、もっともな弁であった。この、「いとひやゝか」な彼の言葉の先には、「ひやゝか」な世間の言葉が厳然としてあった。一葉は、おそらく、それをも感じ取ったであろう。寝苦しい夜に、「深くかたる事もなくてふし」た彼等のそれぞれの感慨が思いやられる。
7月12日    (『につ記』)
日記本文 (略)
 十八といふとし父におくれけるより、なぎさの小舟波にたゞよひ初て、覚束なきよをうみ渡ること四とせあまりに成ぬ。いたりがたき心のはかなさは、なべてのよの中道を経がたくして、やうやう大方の人にことなりゆく。(略)おもふ事おもふに違い、世と時と我にひとしからず。孝ならむとする身はかへりて不孝に成行く。げにかゝるこそ浮よ成けれと、昨日今日ぞやうやうおもひしらるゝ。是非のめじるしあらざらむ世に、猶たゞよふ身ぞかし。寄せかへる波は高し、我身はかよはし。折々には巻きさられんとするこそかなしけれ。(略)
 一葉の生きた7月12日。
 生活を建て直そうとして商売を思い立ったのだが、そのため更に、方々に借金して回らねばならない日々。そんな中で、この7月12日、樋口家は亡き父の祥月命日を迎えた。一葉は兄妹3人で築地本願寺に参ったが、帰宅後は、裁縫の仕事が控えており、母は金策に出かけねばならなかった。この日の記述は、このような、父亡き後の苦難の道のりを改めて振り返ったものである。
 「十八といふとし父におくれける」とあるのは、一葉が数え年18歳の時に父が亡くなったことをふまえている。「なぎさの小舟波にたゞよひ初て、覚束なきよをうみ渡る」という言葉は、「漂う舟」をイメージしており、彼女の筆名に通じるものである。さまよい、また、行く手を阻まれて進むことができない自分の境涯を、彼女は一葉という筆名に込めていたのである。
 なお、ついでに記しておくと、この筆名には達磨のイメージも加わっている。達磨は、一枚(一葉)の芦舟に乗って揚子江を渡ったという。その達磨に、文壇という過酷な大海原に頼りない身でこぎ出した自らをなぞらえたのである。そして、その達磨には足がない、貧乏な自分には「おあし」、つまりお金がない、という軽い洒落も込めて。 
7月15日    (『塵之中』)
日記本文 十五日より家さがしに出づ。朝日のかげまだ見え初ぬほどより、和泉丁、二長町、浅草にかけても鳥越より柳原、蔵前あたりまで行く。 (略) 家にかへりて猶さまざまに相談なす。「幾そ度おもへども、下町に住まむ事うれしからず。午後より更に山の手を尋ねばや」といふ。庭のほしければなり。駒込、巣鴨、小石川辺は、いづれも土地がら静かによき処なれど、何がしくれがしの別荘など多く、我が様なるいやしき商ひしたりとて、買ふ人あるまじと覚ゆ。さては詮なし。牛込ならば神楽坂あたりこそと覚ゆれど、知る人ちかゝらむも侘しく、かれこれさだまらずしてかへる。飯田ばしより御茶の水通りを来れば、今日は川開きとて、此わたりに小舟うかべて客を引くよ。おかには、馬車きしらせていそがするもあり、かちなるも美事によそほひ立てゝ、其さまほこらしげなり。かへり見れば、邦子のつかれにつかれけるあしを引きて、しとゞ汗に成てしたがひ来る。あはれ、此人もふびん也。いといとけなきに父兄におくれて、浮よめかしき遊びをもしらず、万はかなくて送るほどに、やうやう浮よのかはりものに成りて、春の花のゝどかなるをのみ見てうれしともおもはぬほどに成ぬる。さてやこれよりの境界のあさましきをおもへば、此人の為もかなしさは胸にみちて、すゝむべき方もおぼえず、さりとて退ぞきて行かたもなし。心ぼそしとはかゝる時をこそ。
【注】「かちなるも」は「徒歩の人も」。「父兄におくれて」は「父や兄に先立たれて」。「万」は」は「よろず」。
 一葉の生きた7月15日。
 これは、「十五日より」という書き出しから考えると、何日か後にまとめ書きしたものと思われる。
 商いを始めることにした樋口家は、店の持てる家を探し始めた。この15日は、一葉と妹邦子とで下町に出向いた。勿論、「店つきの立派なるも願はず、場処のすぐれたるをものぞまず」という気持ちで探し歩いたのだが、「門格子はかならずあり、庭には木立あり、家には床(とこ)あるもの」と思っていた一葉には、下町の家々の「天井といはゞ、くろくすゝけて仰ぐも憂く、柱ゆがみ、ゆかひくゝ、軒は軒につゞき、勝手もとは勝手元に並びぬ。さるが上に、大方は畳もなく、ふすまもなく、唯家といふ名計(なばかり)をかす成けり」というさまに、初めは尻込みしたらしい。それでも、佐久間町界隈の長屋に適当なのを見つけ、昼前に帰った。だが、誇り高い母たきは、その家に納得できなかったようだ。
 上記は、再び家を求め、夏の昼下がり、東京の町を歩き回るさまを記したところである。
 山の手の静かな町並み、賑やかな川開き、着飾って歩く人々の誇らしげな様子。それらとは対照的な自分らの現状を、一葉は、妹邦子に託して語っている。「浮よめかしき遊びをもしらず、万はかなくて送るほどに、やうやう浮よのかはりものに成りて」とは、まさに一葉自身のことでもあった。そして、今またさらに「あさましき」境涯に陥っていこうとしている。言いようのない無念さと不安感が彼女をとらえていたことだろう。だが、「さりとて退ぞきて行かたもなし」。汗を拭き足を引きずりながらも自分についてくる妹の姿に、一葉は思ったに違いない。「心細くても、私は、母とこの妹を何とか支えていかねばならないのだ」と。
 一葉が多くのものを学び始める龍泉寺時代は、この5日後から始まる。
7月17日    (『塵之中』)
日記本文 十七日 晴れ。家を下谷辺に尋ぬ。国子のしきりにつかれて行ことをいなめば、母君と二人にて也。坂本通りにも二軒計見たれど、気に入けるもなし。行々て龍泉寺丁と呼ぶ処に、間口二間、奥行六間計なる家あり。左隣りは酒屋なりければ、其処に行きて諸事を聞く。雑作はなけれど、店は六畳にて、五畳と三畳の座敷あり。向きも南と北にして、都合わるからず見ゆ。「三円の敷金にて、月壱円五十銭」といふに、いさゝかなれども庭もあり。其家のにはあらねど、うらに木立どものいと多かるもよし。「さらば国子にかたりて、三人ともに『よし』とならばこゝに定めん」とて其酒屋にたのみてかへる。邦子も「違存なし」といふより、夕かけて又ゆく。少し行ちがひありて、余人の手に落ちん景色なれば、さまざまに尽力す。
【注】「龍泉寺丁」は「龍泉寺町」のこと。
「国子」、「邦子」は一葉の妹で同一人物。このように漢字を変えて書くのは珍しいことではない。
 一葉の生きた7月17日。
 商売を始めるための家探しを15日から始めていた一家は、この日、龍泉寺町で適当な家を見つけた。脚注によれば、龍泉寺町は、「三島神社から新吉原揚屋町の裏手へ通う通りを中心に、遊郭の裏側に広がった町」だ。見つけた貸家は、新吉原揚屋町の裏手非常門に通う往来に面した一棟二戸建の長屋だった。以前紹介した15日20日の記録を参照すると、前後の状況がよく分かる。「左隣りは酒屋なりければ、其処に行きて諸事を聞く」とあるから、ここの住民の多くが遊郭に何らかの繋がりを持って生活していること、隣家は気の荒い人力車夫の詰め所であること等は、充分分かっていた。その上で、ここを選んだのである。家賃は彼女らにとっては高かったようだが、庭や裏隣の家の木立が気に入って決めたらしい。
 老いた母と若い娘の3人家族、昔はそれなりに裕福だったが、落ちぶれて遊郭に隣接する貧民街に移り住む………今更言うまでもないのだが、ドラマ仕立てにお誂え向きの設定を地でいったような一葉の体験ではある。3日後の日記に彼女はこう書いている。「唯かく落はふれ行ての末に、うかぶ瀬なくして朽も終らば、つひのよに斯の君に面を合はする時もなく、忘られて、忘られはてゝ、我が恋は行雲のうはの空に消ゆべし」。落ちぶれてこんな所に流れついてこのまま朽ち果ててしまったら、恋しい桃水の君に会わせる顔はなく、いずれは忘れられ果て、私の恋は空を行く雲のように消えていってしまうのでしょう、と。生活に困窮しているというのは、一葉における紛れもない事実だ。が、彼女は、この落魄の意識を日記という文字空間に解き放ち、そこにもう一人の自分を創り出そうとしている。日記の全てがそうだというわけではない。が、そのような傾向もあながち否定はできないという気がする。
7月20日    (『塵之中』)
日記本文 廿日 薄曇り。家は十時といふに引払ひぬ。此ほどのこと、すべて書つゞくべきにあらず。
 此家は下谷よりよし原がよひの只一筋道にて、夕がたよりとゞろく車の音、飛ちがふ燈火の光り、たとへんに詞なし。行く車は午前一時までも絶えず、かへる車は三時よりひゞきはじめぬ。もの深き本郷の静かなる宿より移りて、こゝにはじめて寝ぬる夜の心地、まだ生れ出でゝ覚えなかりき。家は長屋だてなれば、壁一重には人力ひくおとこども住むめり。「商ひをはじめての後はいかならむ。其ものどももお客なれば、気げんにさからはじとつとむるにこそ。『くるわ近く人気あしき処』と人々語りきかせたるが、男気なき家の、いかにあなづられてくやしき事ども多からむ。何事もわれ一人はよし。母は老ひたり、邦子はいまだ世間をしらず、そがおもひわずらふ気色を見るも哀也。さてあきなひはいかにして始むべき」など、千々にこゝろのくだけぬ。(略)
 一葉の生きた7月20日。
 一葉一家は、この日、本郷区菊坂町の家から、下谷区龍泉寺町に引っ越した。ここは新吉原に隣接しており、遊郭通いの客がひっきりなしに通っていたらしい。新しい家は二軒長屋で、隣は人力車夫の詰め所だった。気性の荒い男達に、若い娘の一葉が不安がるのは無理もない。それでも自分は気丈に構え、母と妹邦子を守ろうとしている。
 省略した部分には、落魄の身の言いようのない悲しさ、そして、小説の師桃水への思いが綴られている。「唯かく落はふれ行ての末に、うかぶ瀬なくして朽も終らば、つひのよに斯の君に面を合はする時もなく、忘られて、忘られはてゝ、我が恋は行雲のうはの空に消ゆべし」。
 このような無念さを胸に、それでも開店準備にいそしみ、8月6日、一家はささやかな菓子荒物店を開いたのである。ただ、一葉は、主として仕入れを担当し、その後は小説執筆を心がけていたようである。図書館にも通っている。したがって、「うかぶ瀬なくして朽も終らば」どころか、もしかしたら、決してこのままで終わるものかぐらいの気持ちがあったのかもしれない。
 結局、店は1年ももたなかった。が、後に書いた『たけくらべ』は、この町での苦しい経験があってこそ生まれた名作である。悲哀に満ちた言葉を日記には記しながらも、彼女は、したたかにそして逞しく我が身の修練を行っていたのではあるまいか。
7月23日    (『塵之中』)
日記本文 廿三日 晴れ。朝より伊せ利きたる。店につりなどして午前をすぐ。午後、かへるさながら問屋にかけ合ひくれんといふ。「誰にまれ諸共に」とあるに、「さらば我を伴ひ給へ」とて共にゆく。門跡前に中村屋忠七とよべるが、伊せりの昔し馴染なるよしにて、此処へ周旋す。「五円計の品とゝのへくれよ」といふ。手つけとして一円渡す。明日、荷はもち込むべき約束。伊せ利は、「明後朝、かざりつけに来たらむ」といふ。諸事し終へてかへる。此五円の金も、今は手もとになし。かねて伊三郎の、「夫ほどはかならず調へん」といひけるをあてになしけるなれば、母君直に三間丁に趣く。おもふまゝならぬこそ浮よ成けりな。伊三が妻、昨夜より急病にて、旅の空といひ、持てる金も多からざる上、さる人にあづけたる金の返らざるなどにて、右左むくよしもなき処へ、故さとに残したる妻も俄のわづらひにて、留守の騒ぎ大方ならざるよし。 (略)
【注】「かへるさながら」は「帰る時、(途中で)」。「誰にまれ」は「誰でも(いいから)」。
「夫ほどは」は「それほどは」。「浮よ」は「浮世」。「俄の」は「にわかの」で、「急な」
 一葉の生きた7月23日。
 20日の引っ越し後、いよいよ開店の準備を始めた。しかし、元手がない状態での出発である。難儀な資金繰りのさまが記されている。
 「伊せ利」は石井利兵衛(いしいりへえ)のことで、一葉の父が生きていた頃、樋口家に月賦返済の借金をしていたらしい。おそらくはその縁で、このように樋口家の世話をしているのだろう。この日は棚を取り付けてくれたり、問屋へ仕入れ品を周旋してくれたりした。
 「伊三郎」は広瀬伊三郎で、一葉の母方の従兄に当たる。「商業の目的」を立てて上京し、以来、樋口家の経済的援助者の1人となった。この頃はまだ上京したばかりであったが、樋口家に出店の資金を用立てると約束してくれていた。この時も、彼女らが仕入れの金として用意していたものが家賃や生活費に消えてしまったので、母が大急ぎで「三間丁」(浅草区三間町)の彼の住まいに借りに行ったのだ。だが、行ってみると、都合が悪くなったと言われた。文中、彼の妻に関する記述がややこしいが、伊三郎は、故郷の山梨に妻を残して上京しているらしい。そして、東京にも内縁の妻がおり、この時、彼女も故郷の妻も同時に病気になったという。だから郷里に帰る必要もあり、金が融通できなくなったというのである。仕入れ品を注文しておきながら、そんなわけで、支払いの目途が立たなくなった。前途多難の船出である。ただ、もともと、無理に無理を重ね、当てにならない金を当てにしてここまで来たのだ。子供相手のとは言え、店というものはこんな状態でも出せるものなのかと首を傾げたくなるが、そうしなければならないほどに彼女らは追いつめられていたのであろう。だが、見方を変えれば、あまりにも大胆、いや図太いとも言える。
 なお、資料によれば、伊三郎には郷里に妻はおらず、養母との2人暮らしだったとのこと。ならば、なぜ一葉は「故さとに残したる妻」などと書いているのか。彼女もしくは母の思い違いか、伊三郎の虚言か……。
7月27日    (『塵之中』)
日記本文 廿七日 晴れなれどもすゞし。すゞしといはんよりは冷やかなる方也。廿四日の寒暖計正午時九十三、四度とありしに、其夜より下りに下りて、廿五日は七十度より八十度、夜に入ては六十度にさへ成ぬ。昨日も今日も七十度代成り。午後、区役処より呼出し来る。戸籍の事につきて也。母君、地主に印もらひに行く。西村来る。金子、たのみやりたるほど、とゝのひ難しとて、三円持参。
 (略)
 一葉の生きた7月27日。
 寒暖計93、4度。一瞬びっくりしてしまう数字だが、当時の一般的な寒暖計には華氏温度が使われていた。『樋口一葉全集 第三巻(上)』(筑摩書房)脚注によれば、華氏93.4度は摂氏33.4度に相当するらしい。また、華氏80度は摂氏26.7度、70度は21.1度、60度は15.6度とのこと。真夏にしては、これも異常な寒さだったと言えよう。
 21世紀になった日本の夏は、まるで熱帯のような暑さに襲われているが、108年前の日本の東京、下谷、そして樋口家の夏はどうだったのだろう。店を始めるとは言え、細民相手の零細な事業。そして、その資金さえままならなかった。方々から借金を断られ、問屋に頼んだ品物も入手できない有様だったのである。落魄の思いに打ちひしがれた一家にとって、この夏は、実際の暑さや涼しさを感じるどころか、懐の寒さ、心の寒さに泣く夏であったに違いない。
 「西村」は、西村釧之助のこと。彼の父西村信夫は、一葉の母たきが奉公していた旗本稲葉家の家侍であった。その縁でか、維新後も、西村家と樋口家は親類のような親しい付き合いを続けていた。子の釧之助も、一時、樋口家に寄寓していたらしい。そして彼は、明治24年頃、小石川に紙や文具類を商う店「礫川堂(れきせんどう)」を開いた。一葉はそこによく立ち寄り、また釧之助の方も、樋口家をよく訪れて何かと面倒を見ていた。
 この日記の3日前の24日、釧之助は、母たきが頼んだ借金を断っている。理由は不明だが、断られたたきや一葉の口振りは、彼に対して批判的である。だが、釧之助の方も、工面できない理由があったのかもしれない。だからこそ、3円を工面できたこの日、わざわざ持ってきたのだろう。
 実は、この前、彼は一葉の妹邦子に求婚したことがあったのだが、樋口家は断っていた(この話の詳細は、後日に)。一葉は、どうやら、そのしこりが残っているために釧之助が冷たいのだと勘ぐっているようなのである。そのような事情もあってか、一葉の日記では、彼のことが悪し様に書かれているところもあるが、彼はこれ以後も献身的に樋口家を援助し続けた。そして、一葉の死後、邦子の結婚の世話をし、自分の店を邦子夫婦に譲ったのである。
 
7月28日    (『塵之中』)
日記本文 廿八日 晴れ。寒暖計八十度なり。午前、区役処に趣く。戸籍の上に少し違ひたる処ありて、本郷の区役処に照会するなど、今日中にはまだとゝのひ難し。(略)
【注】「趣く」は「赴く」。
 一葉の生きた7月28日。
 「寒暖計」については、前日27日の項で触れた。
 区役所云々は、現代で言えば転居手続きに関わる話である。本郷区から下谷区に転居したため戸籍を移そうとしたのだが、この時、母たきの生年月日の記載に誤りがあったことが判明した。彼女の生年月日は5月15日の項でも述べたが、1834(天保5)年5月14日である。ところが4年遅い1838年、天保9年生まれと誤って登記されていたのである。それで、下谷区役所に呼び出されたかどうかで出かけたのであろう。この日の段階ではまだ何も解決しなかったようだが、やがて、以前芝区に転居した際に誤記されてそのままであったことがわかり、「今更改むること面倒なれバ天保九年生れとなす」と、8月8日の日記に記すことになる。
 現代の常識で考えたらとんでもないことだが、当時のこのような話はよく聞く。役所の手続きの誤りに従って、自分の名前を変えたという話も。昔の人は、それほどに寛容であったのか。いや、お役所側に抗議できず、泣き寝入りするしかなかったのだろう。理不尽と思っても、煩瑣な手続きに躊躇してしまうことも多かったのではないか。一葉達も「面倒」だから、そのままにしておいたと書いている。
 ………この日記を読んでいて、ふと、今問題になっている「住基ネット」のことを思い出してしまった。明治の大昔に比べたら、時代は遙かに進んでいる。でも、お役所の姿勢は、いったいどれだけ変わっただろうか……。 
 

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8月6日    (『塵之中』)
日記本文 六日 晴れ。店を開く。向ひの家にて直に買ひ来るも中々にをかしき物也。母君は、「例之奥田に利金払ひ、田部井に箱をあがなはん」とて家を出づ。(略)
 夕刻より着類三つよつもちて、本郷の伊せ屋がもとにゆく。四円五拾銭かり来る。菊池君のもとに紙類少し仕入る。二円ちかく成けり。今宵はじめて荷をせをふ。中々に重きものなり。家に帰りしは十時ちかく成りき。持参の紙類、明日の朝店に出すべき様、今宵のうちに下ごしらへをなす。十一時床に入る。
【注】「あがなはん」は「買おう」
 一葉の生きた8月6日。
 6月末に商売を始めようと決意してから1ヶ月余り。一葉一家は、この日、やっと開店に漕ぎつけた。と言っても、「二間の間口に五円の荷」を入れただけの淋しい淋しいものであったらしい。商品は、糊や磨き粉、箸、楊子、石鹸、たわし、マッチなど。「奥田」については、この年の12月28日から31日の項を、「田部井」は7月7日の項を参照されたい。「箱」とは商品ケースのことで、それに入れることで少しでも華やかにしようとしたのである。「伊せ屋」も5月2日のところで触れた。
 「今宵はじめて荷をせをふ」。売り物の紙類を仕入れ、背負って帰ってきたのである。この姿は、染織工芸画家滝沢徳雄の描いた「仕入れ帰りの一葉」という絵から偲ぶことができる。背中に担いだ大風呂敷の結び目を右手でしっかりと握り、口を真一文字に結んで、まっすぐに前方の一点を見つめている。その鋭い眉と視線が、私は好きだ。菊花の派手な半襟が不釣り合いな気もするが、若い女戸主の懸命な生き様が窺える。一葉の肖像は多くの画家に描かれ、鏑木清方の絵などは最も有名だが、私はこの風呂敷姿の絵に最も惹かれている。こういう生活の中から、一葉の文学は生まれたのだ。
 そういえば、新五千円札の肖像が一葉に決まったとか(2002年夏)。彼女を学ぶ者としては喜ばしいが、1円2円の金の苦労から一時たりとも解放されなかったその後半生を思うと、複雑でもある。知人友人親戚恩師を渡り歩き、質屋に通い、あやしい宗教家にまで近付き、そこまでして彼女は母と妹を支えて生きた。求婚する男性はおり、そうすれば金銭の苦労からは抜けだすことができたかもしれない。だが、彼女はそういう生き方を選ばなかった。そして、自らの望む方向と糊口の文学との狭間で悩みながら、病に倒れて一生を終えたのだ。そんな自分の姿が、百数年後に五千円紙幣になるとは……。あの世の一葉はいったいどう思っているだろうか。聞けるものなら聞いてみたい。
8月9日    (『塵之中』)
日記本文 九日 晴れ。早朝、二人あきなひあり。物馴れぬほどのをかしさは、五厘の客に一銭のものをうり、一銭の客に八厘のものを出すなど、跡にてしらぶればあきれたる事をのみなすものぞかし。此まゝにてをしゆかば、中々に利を見ることの出来得べきにもあらねど、其うちには又其うちの利口生ずべし」など語り合ふ。伊せ久のお千代どの買ものに来らる。二十銭計商ひあり。(略)
 一葉の生きた8月9日。
 下谷龍泉寺町に店を出して4日目。一葉はこの間、早朝から問屋を巡って商品を仕入れたり、区役所に行って菓子小売りの鑑札を受けたり等、多忙な日々を送っていた。20歳をひとつ過ぎたばかりの若い女性だから、世間への不安はあっただろうが、日記の記述は淡々としている。馴れない商売のミスも、どこか楽観視しているような口調である。以前、8月6日の項で、仕入れ荷を背負った一葉の肖像画について述べたが、その、女性戸主としての毅然とした姿を重ねて読んでみると、当時の彼女の内心が伝わってくるような気がしてくる。
 昨年来、新五千円札の肖像に選ばれた件で、樋口一葉に関心を持つ人が増えたらしい。喜ばしいことだが、できれば、「どんな人?」という関心だけに終わらず、その小説や日記を自分で読み、文学の面白さや奥深さに触れていただきたい。
 なお、「伊せ久」は吉原の引手茶屋で、一葉の母たきが、ここから仕立物の仕事をもらっていた。
8月10日    (『塵之中』)
日記本文 (略)
 七つといふとしより草々紙といふものを好みて、手まり、やり羽子をなげうちてよみけるが、其中にも一と好みけるは、英雄豪傑の伝、仁侠義人の行為などのそゞろ身にしむ様に覚えて、凡て勇ましく花やかなるが嬉しかりき。かくて九つ計の時よりは、我身の一生の、世の常にて終らむことなげかはしく、「あはれ、くれ竹の一ふしぬけ出でしがな」とぞあけくれに願ひける。 (略) 十二といふとし学校をやめけるが、そは母君の意見にて、「女子にながく学問をさせなんは、行々の為よろしからず。針仕事にても学ばせ、家事の見ならひなどさせん」とて成き。父君は、「しかるべからず、猶今しばし」と争ひ給へり。「汝が思ふ処は如何に」と問ひ給ひしものから、猶生れ得てこゝろ弱き身にて、いづ方にもいづ方にも定かなることいひ難く、死ぬ計悲しかりしかど、学校は止になりけり。それより十五まで、家事の手伝ひ、裁縫の稽古、とかく年月を送りぬ。(略)
 一葉の生きた8月10日。
 一葉の一家3人は、7月20日に本郷区菊坂町から下谷区龍泉寺町に引っ越し、8月6日に小さな駄菓子・荒物店を開いた。経済的にどん詰まりの状況にあった樋口家を立て直し、また自らの人生をも見つめ直そうという思いが、一葉にはあったのである。
 この日記は、開店して5日目に書いたもので、自伝的な文章である。自分の今後の指針を探るためにまとめようとしたのであろうか。明治19年の8月に歌塾萩の舎に入門するところまでを書いている。なお、年齢は、数え年である。
 「七つといふとし」の頃、樋口家は本郷六丁目、法真寺という寺の隣に住んでいた。まだ豊かで、一葉にとっては最も自由で幸福な時代であった。彼女はこの家の土蔵で『南総里見八犬伝』、『北雪美談時代加賀見』、『白縫譚』などを読み耽ったのである。そして、1883(明治16)年12月、私立青海学校小学高等科第4級を首席で修了し、さらに上へ進むことを望んだ。が、母たきの反対によって断念せざるを得ず、翌年から、父の知人松永政愛の妻に裁縫を習いに行き始めたのである。勿論、母が一葉に対して無理解だったと言い切ることはできない。当時(だけではないが……)、女性は、裁縫と一家の経理ができれば無学でよいという考えが一般的だったからである。しかし、一葉の向学心の強さを察した父の奔走により、1886(明治19)年、彼女は中島歌子の歌塾萩の舎に入門できたのである。だが、樋口家を襲う不幸が、歌塾の中で才能を開花させ始めた彼女の行く手をまたもや阻んでしまった。
 貧に窮し、下町の長屋で小さな商売を始めるに至った一葉の胸には、「あはれ、くれ竹の一ふしぬけ出でしがな」と願い、「天下くみしやすきのみ、我事成就なし安きのみ」と思っていられた本郷での幼い頃が、一体どのように思い出されたのであろうか。
8月11日〜16日    (『塵中日記』)
日記本文 十一日 晴天。朝まだきに家を出づ。北川君のもとへ着けるが漸く五時半頃なりけん。藤兵衛老人の周旋にて、菓子并びに手遊ものなどのかひ出しをなす。まだ生れ出てよりかゝる処の景況を知らざる身には、そゞろ恐ろしきまでものはげし。正午少し前、家に帰る。かざりつくるも遅しと計、かひに来たる子供あり。万ものなれずして、間違ひのみ多きもをかし。
十二日 はれ。母君は小石川、本郷、あのあたりに礼参りに行き給ふ。今日のいそがしさは又無類成き。さて売上の金はと問へば、二十八、九銭成しなるべし。
十三日 はれ。かひ出しに多丁へゆく。今日のうりあげは卅三銭。
十四日 晴れ。又多丁にゆく。帰路はくるま。今日のうりあげ三十九銭。
十五日 晴れ。今日も相応にうれたり。
十六日 雨。家のふしんをなす。商ひを始めざりし頃は、さのみにも思はざりし店つきの、兎角に都合よからねば、これを直さんとて也。一日にして事終る。今夜、野々宮君、大久保君来訪。
【注】「朝まだき」は「まだ夜が明けきらない頃」。「計」は「ばかり」。
「多丁」は神田の「田町」のこと。「家のふしん」は「家の普請」
 一葉の生きた8月11日〜16日。
 店を始めて数日。仕入れにも販売にもおっかなびっくりでやっているようだが、それでもどこかいそいそと励んでいるような雰囲気が漂っている。武家の商法の例に漏れず、やがては10ヶ月足らずで店じまいすることになるのだが、開店当初のこの時期だけは、まだかろうじて余裕があった。ミスに苦笑し、少ない売り上げを喜んでいちいち書き留め、商売のために家を直す等、わずかな記述ではあるが、一葉たちの悲喜こもごもの有様が目に浮かぶようである。
 「北川君」及び「藤兵衛老人」は、一葉の妹邦子の友人北川秀子とその父北川藤兵衛のこと。藤兵衛は菓子卸売業者で、一葉らが店を開く際に菓子小売りの手続きを教え、更に神田の田町に買い出しに行くように周旋してくれた人である。
 ところで、この年の8月から11月までの仕入れ帳が現存し、その一部を東京の一葉記念館で見ることが出来る。私も随分以前に見たことがある。どの時期のものであったか記憶が定かでないが、小説家一葉とは全く別の顔を見せられたような気がして不思議な感動をおぼえた。「拾弐銭 小ふのり三十枚」「六銭 はたき 十本」等々。和歌を書いていた筆で、一銭二銭の日用雑貨や菓子をひとつひとつ綴っていく一葉。細かく記された品物、数、そして値段の行間にはどんな思いが込められていたのだろうか。この仕入れ帳の現物を再び見る機会が出来たら、そんなことにも思いを馳せてみたい。なお、仕入れ帳については、荒木慶胤氏の『塵の中の一葉』(講談社 1993年)に詳しい。また、『改訂増補 商人としての樋口一葉』(後藤積著 千秋社 1987年)も参考になる。
8月18日    (『塵中日記』)
日記本文 十八日 朝来あれもやうにて、風ものすさまじ。帰宅後、更に大音寺前にせんべいをあつらへ、駒形に蝋燭の注文をなし、門跡前にしぶ団扇をあがなひ来る。今日下駄をもとむ。跡歯の白木にて、さらさ形の革鼻緒成しが、代金二十銭成し。夕刻より雨に成る。風力さらに加りて、ほとんど嵐に似たり。戸を明け置く事あたはざれば、はやくおろしてふしたり。
【注】「朝来」は「あさより」と読む。「あつらへ」は「注文して作らせ」。「大音寺前(だいおんじまえ)」「駒形(こまがた)」「門跡前(もんぜきまえ)」は、いずれも一葉が商品を仕入れた店があった町の名。「あがなひ来る」は「買ってくる」。「あたはざれば」は「できないので」。
 一葉の生きた8月18日。
 龍泉寺町に店を出して以来、一葉は、ほとんど毎日のように商品の仕入れに出かけていた。この日はおそらく台風のような天気であったのだろうが、それでも出かけ、その後もさらに、書いているように3軒回っている。零細ではあったが、商売に懸命なこの時期の彼女の姿が窺える。下駄は、確かではないが、このようにして日々出歩かねばならなかった自分のために買ったのではないだろうか。
 「大音寺前」は、現在も台東区にある大音寺の門前一帯を称した地名である。この寺は、『たけくらべ』中の龍華寺のモデルであると言われている。また、「「大音寺前と名は仏くさけれど、さりとは陽気の町」と住みたる人の申しき。/ 三島神社の角をまがりてより、これぞと見ゆる大廈(いゑ)もなく、かたぶく軒端の十軒長屋二十軒長や、商ひはかつふつ利かぬ処とて」云々と、『たけくらべ』では書かれている。当時は、新吉原に隣接し、中心部を除いてはバラックのような長屋が続き、廓者や貧民の住む街であったらしい。
 こうした環境の中で店を開き、樋口家の女性たちは生活の再建を図ったのであった。この界隈の人々に対する一葉の言葉は、「乞食」(1895(明治28)年10月15日〜31日)、「悪処のかすに舌つゞみ打つ人々」(1896(明治29)年1月)等、冷淡冷酷でさえあったが、彼らの生身の姿に触れた商人としての10ヶ月の体験は、その後の一葉の文学に、いやそれ以上の精神生活に大きな影響を与えたのであった。
8月19日    (『塵中日記』)
日記本文 十九日 晴れ。風あらし。(略)
 明日は鎮守なる千束神社の大祭なり。今歳は殊ににぎはしく、山車などをも引出るとて、人々さわぐ。隣りなる酒屋にて、両日間うり出しをなすとて、かざり樽など積たつるさま勇ましきに、思へば、我家にても店つきのあまりに淋しからむは、時に取りて策の得たる物にあらじ。さりとて、もとでを出して品をふやさん事は、出来うべきにもあらず。よし出来たりとて、さる当てもなき事に空しく金をつひやすべきにあらず。「いでや、中村やに行きて、かざり箱少しあがなひ来ん」とて、夜に入りてより家を出づ。今宵即座に間に合はざりしかば、明日のあさ持参すべき約束にさだめて、まつち五十銭計をあがなひぬ。そは、金がさ少なくして、見場のよければなり。今夜は更るまで大多忙。
 一葉の生きた8月19日。
 龍泉寺町に引っ越して約1ヶ月、店を開いて約2週間。一葉は、商品の買い出しに精を出していた。そして、おそらく多忙だったのであろう、日記には売り上げ額を記しただけの日もあった。
 「千束神社」は千束稲荷神社のことで、龍泉寺町の氏神である。現在の例祭日は5月になっているらしいが、一葉が生きていた当時は8月20、21日だった。日記は、その前日の町の様子と、そのにぎわいに引けを取るまいとする一葉らの苦労を記している。「かざり箱」は商品ケースのようなものだが、『全集 樋口一葉B 日記編』の注釈によれば、彼女はこれを45個も仕入れたらしい。いったい、どういうものだったのか。
 ところで、この「千束神社」の夏祭りは、あの『たけくらべ』でも重要な意味を持っている。『たけくらべ』では、この祭りの夜、普段から対立している子供たちの表町組と横町組が大げんかをし、三五郎が殴られ、美登利が長吉に泥草履を投げつけられるのだ。彼女はこの時、長吉の背後に信如がいると聞かされる。信如をひそかに慕っていた彼女はショックを受け、信如を恨むようになってしまう。…… 「千束神社」の夏祭り、「大鳥神社」の酉の市を舞台にして展開するこの名作は、一葉がこの下町で子供相手の商売をし、また社会の底辺に生きる人々の生き様を見つめることができて、はじめて生まれたものであった。
8月20日    (『塵中日記』)
日記本文 廿日 早起。雨もやう也。「多丁にかひだしに行かむも如何」など、しばしたゆたひけるが、「兎も角も」とてゆく。帰りしは十時頃なりし。夫より門跡前にゆき、かざり箱并びに、みがき砂の類かひ来る。一日大多忙。商ひは壱円計ありき。日暮れてより雨に成る。
【注】「多丁」は「田町」。「たゆたひけるが」は「ためらったが」。
「夫より」は「それから」。「壱円計」は「一円ばかり」。
 一葉の生きた8月20日。
 当時の8月20、21日は、龍泉寺町の氏神千束稲荷神社の宵祭、大祭だった。これについては、以前コメントした8月19日8月21日を参照されたい。連日の買い出しや馴れない接客に疲れたのか、それとも今朝の雨模様にうんざりしたのか、一瞬買い出しをためらったようだが、それでも押して出かけていった。祭りという格好の書き入れ時である。まだ商売に前向きであったこの時期の一葉は雨にも負けず買い出しに出かけ、見場のいい陳列ケースの「かざり箱」を45個も買い、頑張ろうとしたのである。その甲斐あってか、この日の売り上げは多かったようだ。
 『塵の中の一葉』(荒木慶胤著 講談社 1993年)によれば、「開店当初は、主として雑貨類の一日の売り上げが四十銭から六十銭で、月に十五円ぐらい、それに要した仕入れ金額は、九月が十一円、十月が売り上げも伸びて十五円ぐらいであった。十一月になると仕入れ金額が増えて十七円、売り上げはこれに三割程度のマージンを上乗せした金額と想像される」らしい。ただし荒木氏も記しているが、具体的な記録は無く、現存する仕入れ帳と日記からの推測である。また同資料によれば、「当時は、一般職人の一日の手間賃が三十銭ぐらい。米一俵六円六十銭、袷一枚の仕立て賃二十銭から三十銭、二〜三人家族の最低生活費は月十円ぐらいであった。一葉の店(略)の家賃は一円五十銭であった」という。樋口家のこの家賃の高さは多くの研究者が指摘しているところで、これが生活費に響いていただろうことは容易に推測できる。また、売り上げが好調だろうとひとつひとつの単価は低く、客の多さの割には売れたという実感が伴わない……勿論、この時期はまだそんな疑問を生じさせてはいない。が、やがて秋風に吹かれ、木枯らしに晒されるようになっていくと、一葉は商売に身が入らなくなっていくのである。文学への渇望、生活への焦り、宿痾の頭痛、商売敵の出現等々……、そのようなものが、一葉を他の方向へ駆り立てていくことになる。 
8月21日    (『塵中日記』)
日記本文 廿一日 山車、神輿の渡御など、いとにぎはし。されども、商ひは多からず。然るは子供達の大道商人に引とられてなり。
【注】「山車」は「だし」、「神輿」は「みこし。「渡御」は「とぎょ」で、「おでまし」の意。
 一葉の生きた8月21日。
 この日は、一葉の住む龍泉寺町の氏神、千束稲荷神社の祭りであった。この神社については19日の日記の項でも触れた。20日が宵祭り、21日が大祭だったらしい。娯楽の少なかった時代だ。大人も子供も、祭りとなれば晴れ着に身を包んで繰り出し、屋台を巡ったり大道芸に足を止めたりして、つかの間のひとときを楽しんだのである。一葉の店でも、20日は「一日大多忙」だったらしいが、さすがにこの日は祭りに客を取られたらしい。
 『たけくらべ』でも、「八月廿日は千束神社のまつりとて、山車屋台に町々の見得をはりて、土手をのぼりて廓内(なか)までも入込まんづ勢ひ、若者が気組み思ひやるべし。」(二)、「打つや鼓のしらべ、三味の音色に事かゝぬ場処も、祭りは別物、酉の市を除けては一年一度の賑ひぞかし。」(四)と描かれ、この祭りが、遊郭に寄生して暮らす貧しい庶民の非日常的な催しになっていたことが窺える。
 同じく『たけくらべ』の(三)では、祭りに「心いっぱい面白い事」をしようと子供達が相談し、「筆やの店」で「幻燈(げんとう)」をすることに決める。この「筆や」は文房具屋だが、玩具の類も売っていて子供達のたまり場になっており、物語の中では重要な場所である。樋口家の女たちが開いた店も日用雑貨以外に駄菓子や玩具類を並べていて、主な客は子供であった。「筆や」にたむろする子供らの様子は、もしかしたら、一葉の店に来る子供達への観察から生まれたのかもしれない。
8月25日    (『塵中日記』)
日記本文 廿五日 晴。早朝、芳山来る。広瀬の事につきて也。今日も一日雨にくらしつ。
 一葉の生きた8月25日。
 「芳山(よしやま)」は芳山保定で、広瀬伊三郎の留守中、彼の家屋の保管を依頼されていた人物。伊三郎については、この年の7月23日の項を参照されたい。そこで記したような事情や秋蚕のはきたてのため、彼は故郷の山梨に帰っていた。だが、その留守の8月9日早朝、東京に残していた内縁の妻のお若が「逃亡」してしまった。「広瀬の事」とは、これに関わる話ではないかと思われる。ただし、確かなことは分からない。
 ところで、この日の天気を「晴」と書きながら、「今日も一日雨にくらしつ」というのは矛盾しているように思える。そもそも、誰のことを言っているのか。自分のことか、「広瀬の事」に関わることか。さらに別の何かか。
 実は、前日の日記には「各県大暴風雨の報あり」と書いている。8月18日、愛知、静岡、岐阜、和歌山の各県を中心に台風が襲い、かなりの被害があったらしいのだ。とすると、「雨にくらしつ」とは、そのような各地の模様をふまえてのことか。いや、それは考えすぎかもしれない。「広瀬の事」も、一葉は、お若が「逃亡」したという情報と山梨の伊三郎に手紙を出したという事実以外は一言も書いていない。だから、それ以上の関心が彼女にあったかどうかは不明である。
 では、「雨にくらしつ」とはどういうことだろうか。25日のこの記載の後、一葉は9月に入るまで日々の記録を残していない。そして、その空白部に「此処四、五日、事のせわしさ、なみならざるが上に、脳のなやみつよくして、寝たる日もあり。すべて日記を怠りぬ。」と書き、また次ページには、新聞で読んだと思われる事件等を簡単にメモしている。つまりこの時期は、店の仕事の多忙や肉体的な苦痛によって、精神的にも全く余裕がなかったのである。特に、彼女は仕入れの為に早朝から出かけることが多かった。世間の天災や身内の不幸も気にならないことはないだろうが、何よりも、健康への不安を抱えながら家族を支えていかねばならない精神的な負担、志を持ちながらそれがままならないという焦燥が、「雨」に打たれているような状況を思わせたのではないだろうか。
9月1日    (『塵中日記』)
日記本文   此処四、五日、事のせわしさ、なみならざるが上に、脳のなやみつよくして、寝たる日もあり。すべて日記を怠たりぬ。
九月一日 早朝より例之脳病起りて、しばしもたつことあたはず、終日ふしたり。午後より雷雨おびたゞし。
 一葉の生きた9月1日。
 この年の8月末から九月の日記は中断が多い。彼女自身が弁明しているように、それは、買い出しや店番で忙しかったこと、また、頭痛が激しかったことによるものらしい。妹の邦子によれば、一葉の頭痛は前年の秋から始まったようだ。そしてこの年の夏以降は特にひどく、小説執筆にも支障を来たしていた。これ以降の日記にも、頭痛のことはよく登場してくる。ただ、これが死の病につながっていくとは、彼女もこの時は思っていなかったのだ。
9月4日    (『塵中日記』)
日記本文 四日 早朝より多丁へかひ出しにゆく。前雇人吉太郎が八百屋に成たるに逢ふ。飯田丁に芦沢が為替うけ取る。此日、狂風砂塵を巻きて、御成道、広少路あたりは、面を向くる方もなし。車にてかへる。広瀬伊三郎帰京。参り居りしかど、脳痛はげしく、しばしも起居る事かなはねば、其まゝ打ふす。
  此一日二日、脳痛はげしく、大方打ふしぎり也しかば、日記も物せず。
 一葉の生きた9月4日。
 「多丁」、「飯田丁」は、多町(田町)、飯田町。店の商品の買い出しに出かけたのである。
 「吉太郎」は、一葉の父が荷車請負業を計画した時の使用人であった。父はこの事業に失敗し、借財を抱えて病死したのであった。その主人の娘であった一葉は、今、自ら買い出しの大風呂敷を背負って歩いている……かつての使用人を前にして、どのような思いを抱いたであろうか。
 「芦沢」とは、一葉の従兄弟で芦沢芳太郎のこと。一葉の母たきの弟の息子で、この頃は上京して近衛歩兵隊に所属していた。樋口家は、東京における彼の保護者的役割を担っていたらしく、一葉は、彼の父から金を預かり、小遣いとして芳太郎に渡していた。為替はその金のことである。
 1日と同様、頭痛のことも記している。自らの両肩に掛かった樋口家の将来、母や妹、商売のこと、小説のこと……我が身のあれこれ……文字にしがたいものが、一葉の胸の底には渦巻いていたに違いない。
9月15日    (『塵中日記』)
日記本文 十五日 廓内俄はじまる。母君、切符を人にもらひて、検査場に勢ぞろひ見にゆく。
 一葉の生きた9月15日。
 「廓内俄」は、「くるわうちにわか」または「なかにわか」と読む。引用した小学館の全集の注には、「真崎神社の奉納のために、芸妓の手踊りと幇間の茶番狂言が行なわれるもので、予定の番組に従い、妓楼もしくは遊客の注文に応じて、即興で演じられる。九月中旬から十五日間行なわれる。」と記してある。4月の夜桜、7月から8月にかけての玉菊燈籠、そしてこの俄(または仁和賀)は吉原三大行事と言われ、多くの人で賑わったらしい。「検査場」とは吉原の病院のことで、遊女達の梅毒検査を行っていた所である。検黴制度は1874年から始まり、この頃は週に1回行われていた。日記によれば、この検査場に、俄の舞台が作られたということであろうか。遊女達への非人間的扱いが最も凝縮された場が、俄、つまり祭りという晴れの舞台に様変わりしたのだ。今更ながら、複雑な思いにかられる。
 『たけくらべ』には、この俄や三大行事に関する言葉が幾度も出てくる。例えば、「春は桜の賑ひよりかけて、なき玉菊が燈籠の頃、つゞいて秋の新仁和賀には十分間に車の飛ぶ事、この通りのみにて七十五両と数へしも」、等。これらの行事で賑わう頃は、吉原へ通ってくる車も10分間に75台を数えるほどであった……と。ただし、勿論、一葉の眼差しは、そんな賑わいや華やかさの裏に注がれていた。深奥の言葉にしがたいものを、一葉はひたすら見つめていたのである。 
10月25日    (『塵中日記 今是集』)
日記本文 二十五日 晴れ。午前、神田にかひ出しをなす。午後、平田禿木子来訪。「来月の『文学界』にかならず寄書なすべき」よしを約す。七月以来はじめて文海の客にあふ、いとうれし。旅宿は日ぐらしのさと、花見寺の隣家にて、妙隆寺とかいへるよし。此夜、田辺査官来訪。貧民救助之事につきてはなしあり。縁談のこと申来る。
【注】「寄書」は「きしょ」で、原稿を寄せること。「七月以来」とは、一葉の一家が龍泉寺に移り住んで以来ということ。
「文海の客」は、文学の世界の人。
「ひぐらしのさと、花見寺」とは日暮里の青雲寺のことで、桜の名所として知られ、花見寺と言われていた。
 一葉の生きた10月25日。
 龍泉寺町に引っ越して約3ヶ月が過ぎた。駄菓子荒物店を開いてから2ヶ月余り。一葉は「かひ出し」つまり仕入れ、妹の邦子は店番と針仕事、母のたきが台所、というように自ずと分担が決まり、細々ながら一応の暮らしは成り立ってきた。少し前の10月9日の日記には、「我家にうりまけて店をとぢけるが二軒ある」という記述も見える。商売敵が消えて、売り上げが伸び忙しくもなった。ほんのわずかな時期ではあるが、今日の糧に困窮するような生活からは解放された日々であった。そこで、店番を邦子に任せた一葉はこの月初めから図書館通いを再開し、執筆への意欲を抱き始めていたのだ。そんな折りの禿木の来訪である。「塵の中」に埋もれて3ヶ月、久々に目にする「文海の客」に、一葉は「いとうれし」と素直に喜びを記し、『文学界』への寄稿を約束したのである。
 田辺巡査についての詳細は不明である。和田芳恵著『一葉の日記』(福武文庫 1986年3月)の補注には「下谷警察署の派出所の巡査」とあり、本文には、「戸別調査などにきて、一葉の父が警視庁につとめていることなどを知ってから、一葉達に好意をもつようになったのだろう」と書いてある。当時、一葉一家が住んでいた地域には貧民街が多かったし、遊郭も隣接していた。こうして底辺に身を置く人々の姿を間近にすることで、一葉自身も社会矛盾に関心を向け始めていたのだ。それがどのように開花していったかは、その後の彼女の作品に明らかである。ただ、彼女は文学よりももっと別の形で社会に関わりたかったのではないかという見方も出来なくはない。が、今はこれ以上は言及しないでおく。
 ところで、「縁談のこと申来る」とあるのが気になるが、一葉か邦子に求婚したのか、それとも誰かを紹介してほしいと言ってきたのか、不明だ。しかも、彼についての記載はこの日だけである。和田芳恵は前者に解釈しているが、これだけでは断定できない。 
11月15日     (『塵中日記』
日記本文 (略)
橡に出て見れば、黄白のきくにほひこまやかに、露にぬれたるけしきもなつかし。我も昔しは、こゝに朝夕をたちならして、一度はこゝの娘と呼ばるゝ計、はては此庭も、まがきも、我がしめゆひぬべきゆかりもありしを、今はた小家がちのむさむさしき町に、かたゐ、乞食など様の人を友として、厘をあらそひ毛を論じて、はてもなき日を過すらんよ。家にありてはさりともおぼえざりし惑の、此処の気色にもよふされてにや、何故とはしらず涙さへさしぐまるゝよ。さて何故の涙なるらむ。かくあやにしきのよを経んとならば、あながちにくるしみもだへずして過されぬべき一生を、我から落て流れゆきし今日、満足の笑みに物おもひあらざるべきを。あなものぐるほしや、我れにこゝろ二つあるか、もしはこゝろに真偽あるか、こゝろにむかひて、こゝろの偽をいふか。こゝろにいつはりなし。はた又、こゝろはうごくものにあらず。うごくものは情なり。此涙も、此笑みも、心の底より出しものならで、情に動かされて情のかたち也。
(略) 
【注】「橡」は「えん」、「計」は「ばかり」、「厘」「毛」は「りん」「もう」で昔のお金の単位
 一葉の生きた11月15日。
 龍泉寺町に住み、子供相手の商売と小説の勉強に多忙な日を送っていた頃の日記で、歌の師中島歌子に、4ヶ月ぶりに会った感慨を綴っている。
 歌子には、龍泉寺町に移る前日7月19日に挨拶に行ったが、以来、全く足が遠のいていた。多忙でもあり、小説の勉強に勤しんでいた一葉には、歌塾にまで通う余裕はなかったのである。また、歌子の人間性に対する反発もあった。が、何よりも、龍泉寺界隈の貧民達の中にいる自分の現実と、上流婦人達が集う歌塾萩の舎はあまりにもギャップがありすぎたのである。
 久々に訪れた萩の舎の贅を尽くした有様を眺めながら、一葉は「一度はこゝの娘と呼ばるゝ計、はては此庭も、まがきも、我がしめゆひぬべきゆかりもありし」と、過去を思い出している。優れた弟子であった彼女は師からかわいがられ、養女にとほのめかされたこともあった。そして、内弟子としてこの萩の舎に寝起きしたことも。だが、内弟子とは名ばかりの女中同様の扱いに失望し、樋口家内の事情もあったため、短期間で家に戻ってしまった。そして、今はさらに零落の身……。「家にありてはさりともおぼえざりし惑の、此処の気色にもよふされてにや、何故とはしらず涙さへさしぐまるゝよ」。小説の道も、商売も、貧民街の暮らしも、みな自ら選び取ったものでありながら、ふと、揺れ動く。「我れにこゝろ二つあるか、もしはこゝろに真偽あるか」。そう自らに問い、叱咤し、翌日は雨を冒して図書館に向かったのである。
 
11月19日    (『塵中日記』)
日記本文 十九日  はれ。神田にかひ出しす。明日は二の酉なれば、店之用いそがはし。
  『文学界』に出すべきものもいまだまとまらざる上に、昨日今日は商用いとせわしく、わづらはしさたえ難し。
 二の酉のにぎはひは、此近年おぼえぬ景気といへり。熊手、かねもち、大がしらをはじめ、延喜物うる家の、大方うれ切れにならざるもなく、十二時過る頃には、出店さへ少なく成ぬとぞ。廓内のにぎはひをしてしるべし。
     よの中に人のなさけのなかりせば
         ものゝあはれはしらざらましを
 一葉の生きた11月19日。
 一葉はこの年7月、母妹と共に下谷竜泉寺町へ移り、荒物・駄菓子店を開いた。洗い張りや質屋通いだけでは生活していけないため、思い切って商売に踏み切ったのである。場所は、遊里新吉原のすぐそばであった。 「かひ出し」とは商品の仕入れのことで、彼女がそれを担当し、妹の邦子が店番をした。商売はまずまずであったが、客は殆どが子どもでたいした売り上げにはならず、またライバル店も出てきたため、結局一年もたたないうちに閉店、この町を去った。
 この日の記述は、そばの「鷲神社」の酉の市が開かれ、その忙しさで執筆がはかどらない苦しみを訴えている。歌は、業平の「世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」をもじったもの。商売の煩わしさと、作品がうまくいかない焦りから、憂さ晴らしにこんなものを詠んだのであろうか。
 この町での生活は失敗に終わったが、一葉は、社会の底辺に生きる人々の生活を共に体験し、以後の文学活動への貴重な糧を得た。あの名作『たけくらべ』は、この新吉原が舞台である。厘毛の日銭を目当てに頑張った日常の中から、美登利や正太郎、三五郎、長吉らが生まれた。そしてまた、「大音寺前」の強かでいきいきした、それでいてもの悲しい庶民の活写も、この体験があってこそである。
11月23日、24日    (『塵中日記』)
日記本文 二十三日  星野子より「文学界」の投稿うながし来る。いまだまとまらずして、今宵は夜すがら起居たり。
二十四日  終日つとめて猶ならず、又夜と共にす。女子の脳はいとよはきもの哉。二日二夜がほど露ねぶらざりけるに、まなこはいともさえて、気はいよいよ澄行ものから、筆とりて何事をかゝん、おもふことはたゞ雲の中を分くる様に、あやしうひとつ処をのみ行かへるよ。「いかで、明るまでにつゞり終らばや。これならずんば死すともやめじ」と、只案じに案ず。かくて二更のかねの声も聞えぬ。気はいよいよ澄ゆきぬ。さし入る月のかげは、霜にけぶりてもうもう朧々たるけしき、誠に深夜の風情身にせまりて、まなこはいとゞさえゆきぬ。かくても文辞は筆にのぼらず、とかくして、一番どりの声もきこえぬ。大路ゆく車の音きこえ初ぬ。こゝろはいよいよせはしく成て、あれよりこれに移り、これよりあれにうつり、筆はさらに動かんともせず。かくて明けゆく夜半もしるく、向ひなる家、となりなどにて、戸あくる音、水くむなどきこえ初るまゝに、唯雲の中に引入るゝ如く成て、ねるともなくしばしふしたり。
 一葉の生きた11月23日、24日。
 一葉は、1896(明治29)年11月23日に亡くなった。現在では、一葉を偲んでこの日を「一葉忌」と呼んでいる。
 上記の日記は、亡くなる3年前のもの。「星野子(ほしのし)」は星野天知のことで、『文学界』の編集と経営を担当していた人である。有名な『大つごもり』や『たけくらべ』も、彼の薦めによって書かれ、『文学界』誌上で発表された。
 この日、一葉は『琴の音』という作品を執筆していた。が、筆が思うように進まず苦しんでいるさまが窺える。一葉の書いたものを繰っていくと(といっても、まだそんなにたくさんのものを読んでいるわけではないが)、彼女にとって、夜という時間は特別の時間であったように思えてくる。狭い家で女3人が肩を寄せ合って暮らしていたのだから、彼女が静かに自己と向き合える時間と空間は、深夜の文机の前でしかなかっただろう。商売をしていたこの時期は尚更である。昼間にも書き物をしていた記述はあるが、このように執筆で苦しんだり何かの思いにとらわれたりした時、彼女は文机に寄り、夜のしじまの中で神経を研ぎ澄ましていった。しかも、それは決して安らかなものではなかった。女戸主として毎日の「生」に追われていた彼女は、夜の闇の中でも、「生きること」の重たさにため息をついていたのではないだろうか。
  
12月1日    (『塵中日記』)
日記本文 (略)
 孤蝶子が「さかわ川」、無声が「哀縁」など、をかしき物なり。「哀縁」はおきて、「さかわ川」はいん文といふべき物にもあらず、五七の調にてうたふべき様にもあり、浄るりに似て散文躰にもあり、今一息と見えたり。
 いひふるしたるみじか歌の、月花をはなれて、今のよの開けゆく文物にともなひ難きあまり、新体などいふも出くめり。もとよりざえかしこく、学ひろき人々がものすのなめれど、猶わかう人が手になれるは、好みにかたより、すきにへんして、あやしうこと様のものになれるもあり、ふる人の指さしわらふもげにと覚ゆることなきにしもあらず。さりとて、みそひと文字の古体にしたがひて、汽車汽船の便あるよに、ひとりうしぐるまゆるゆるとのみあるべきにあらず。いかで天地の自然をもとゝして、変化の理にしたがひ、風雲のとらへがたき、人事のさまざまなる、三寸の筆の上に呼出してしがな。さはいへ、かくおもふは我人共の願ひなるべけれど、そは天才といふ人の世に出ざるかぎり、成りたつまじきものなるにや。俗中に風流あり、風流のうちに大俗あり。新たい詩歌の俗の様に覚えて、かのみぢか歌のみやびやかに聞ゆるは、ならはしのみのしかるにあらず、人の心に入て人の誠をうたひ、しかも開けゆくよの観念にともなはざれば也。詞はひたすら俗をまねびたりとも、気いん高からば、おのづから調たかく聞えぬべし。さても学び易くしてうたひがたきは、猶この道の奥にぞある。
 ( 略)
【注】「いん文」は「韻文」。
「みじか歌」は「短歌」。ただし、「この場合は「新体詩」と対する和歌の意で、現在の短歌とは意味が異なる。」(小学館の脚注より)。
「新体」は「新体詩」。
「ざえかしこく、学ひろき人々がものすのなめれど」は「才能があり、学識のある人々が作るものと思われるが」。
「わかう人が手になれるは、好みにかたより、すきにへんして」は「若い人の作ったものは、自分の好みに偏って」。
「気いん」は「気韻」で、気品高く趣があること。
 一葉の生きた12月1日。
 商売、図書館通い、執筆に追われていた頃である。勿論、生活は相変わらず貧のどん底であった。
 この日の記述の殆どは、雑誌『文学界』11号を読んでの感想である。省略したが、はじめには、三宅花圃(龍子)の文章への好意的な感想が述べてある。「文辞いたく老成になりて、こゝ疵とみゆる処もなく、とゝのひゆきぬ」と。
 そして、上記の言葉が続いている。「孤蝶子」は馬場孤蝶、「無声」は島崎藤村である。藤村は、この頃は古藤庵無声と名乗っていた。
 一葉のこの感想は、孤蝶の「酒匂川」についてが中心である。私は残念ながら読んでいないが、筑摩の全集の脚注には、「七五七五七五七五を一聯として百聯あまりから成る叙事詩。酒匂川に身を投げた少女と、そのあと追って岸辺で自分の命を絶った旅人との悲恋を描いた作品。」とある。これを一葉は、「いん文といふべき物にもあらず、五七の調にてうたふべき様にもあり、浄るりに似て散文躰にもあり、今一息と見えたり」と評した。「わかう人が手になれるは、好みにかたより、すきにへんして、あやしうこと様のものになれるもあり」も、彼の新体詩を念頭に置いた感想である。「みそひと文字」を学んでその才を認められてきた一葉だから、韻文における見識はそれ相当のものがあった。「俗中に風流あり、風流のうちに大俗あり」、「詞はひたすら俗をまねびたりとも、気いん高からば、おのづから調たかく聞えぬべし」。確かなことは言えないが、やがては、下層社会や不遇な人々の生の中に人間の深淵を見ようとしていった一葉の文学観が垣間見られる言葉ではないだろうか。
 孤蝶や藤村と一葉との関わりについては、また後の機会に。
 
12月2日    (『塵中日記』)
日記本文 二日 晴れ。議会紛々擾々。私行のあばき合ひ、隠事の摘発、さも大人げなきことよ。
 半夜眼をとぢて静かに当世の有さまをおもへば、あはれいかさまに成りていかさまに成らんとすらん。かひなき女子の何事をおもひたりとも、猶蟻みゝずの天を論ずるにもにて、「我れをしらざるの甚し」と、人しらばいはんなれど、さてもおなじ天をいたゞけば、風雨、雷電、いづれか身の上にかゝらざらんや。 (略) いでよしや、物好きの名にたちて、のちの人のあざけりをうくるとも、かゝる世にうまれ合せたる身の、する事なしに終らむやは。なすべき道を尋ねて、なすべき道を行はんのみ。さても恥かしきは女子の身なれど、
   吹きかへす秋のゝ風にをみなへし
       ひとりはもれぬのべにぞ有ける
【注】「紛々擾々」は「ふんぷんぜうぜう」
 一葉の生きた12月2日。
 一葉の気骨が窺える文章である。彼女は、下谷龍泉寺町での零細な商人生活を経験して以来、社会意識に目覚めていった。自家の生活の不如意や下層社会の状況を通して、明治20年代の閉塞感を自らのものとして受けとめていったのだ。そして、やがて晩年には横山源之助とも交わり、何かの社会活動への興味を示していたとも言われている。だが、これについての詳細は明らかではない。
 「議会」は、当時の第5議会で、議長が収賄や職権乱用等で糾弾されていた。現代の国会の黎明期であるこの当時。一葉が「紛々擾々」と記しているのを見る限りでは、今日の状況と大差ないようにも思える。「さも大人げなきことよ」 
 
12月28日から31日    (『塵中日記』)
日記本文 二十八日  母君寺参り。伊せ利より通運便にて金子五円五拾銭来る。奥田の元金并びに利金なり。天知子よりもひとしく金壱円半送り来る。『文学界』十二号に出したる「ことのね」の原稿料なり。平田君より状来る。「今日より大宮の方にゆく」よし。「新年また逢はん」などあり。
二十九日  奥田に金持参。神田にかひ出しをなし、小石川師君に歳暮の進物持参。くら子どのにあふ。はなし多し。こゝは別天地なり。
三十日  もちをつく。金壱円。上野君父子歳暮に来る。議会解散。
三十一日  あきなひ多し。二時まで起居る。
 一葉の生きた12月28日から31日。
 相変わらず金銭に関わる記載が多い。「伊せ利」は、石井利兵衛のこと。一葉の父存命中から樋口家と付き合いがあり、一葉たちが竜泉寺町に店を出すときには仕入れの店を周旋するなどの世話もしてもいた。また、一葉の父からであろうが、樋口家に月賦返済の借金をしてもいたらしい。ただ、この日の記載は、その返済金というよりも、一葉が「奥田」への返済のために送ってもらったもののようである。
 「奥田」は、奥田栄という未亡人で、樋口家の債権者。父の時代から親しく付き合っていたらしいが金銭には厳しく、後(明治29年7月)には、債務履行請求のために一葉宅に弁護士をよこしたりもした。
 借金返済と年越しの出費で、一葉一家にゆったりとした暮れはなく、大晦日にも子ども相手の厘毛の商売に明け暮れねばならなかった。そういう中だからこそ、小石川の歌塾萩の舎は、一葉にとっては「別天地」だったのであろう。 
 

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