
(函館、札幌、小樽編)
2001年8月撮影
函館
石川啄木は、1886(明治19)年2月20日、岩手県に生まれた。父は、曹洞宗の寺の住職であった。幼少時は神童と言われるほど学業優秀であったが、盛岡中学校入学後、文学、特に短歌に傾倒するうちに学業を疎かにし始め、結局、退学。文学を志して、1902(明治35)年11月に上京した。が、病気により、わずか4ヶ月で帰郷。その後、『明星』に長詩や短歌を発表し、1905(明治38)年には処女詩集『あこがれ』を出版して注目を浴びはしたが、経済的には苦しい生活が続いた。同じ年、父が、宗費滞納を理由に住職を罷免させられた。結婚もし、妻、両親、妹の4人を養わねばならなくなった啄木は、この頃から、職を求めて漂泊の人生を送ることになったのである。
翌1906(明治39)年4月、啄木は故郷渋民村の代用教員となったが、月給はわずか8円。とても一家を養える額ではなかった。しかも、年末には娘が生まれ、一家は彼を含め6人になった。翌1907(明治40)年、生活窮迫の中で父が家出。啄木は、4月、生徒を引率して校長排斥のストライキを断行して免職された。5月、彼は妹を連れて北海道へ向かい、母は村の知人宅に身を寄せ、妻節子と娘は盛岡の実家に戻っていった。まさに、一家離散である。
5月5日、啄木は、新生活を開拓しようという思いで、函館の桟橋に着いたのである。
| 函館空港に着いたのは正午頃。窓を覗くと雨模様、「現在の気温は17度」との機内放送。どこかの職場旅行だろうか、年輩の男性方が「オレ、Tシャツと短パンしか持ってきてないぞ」「靴下もねぇぞ、まずは買い出しや!」「北海道を舐めとったな」と、口々に言っていた。 ……私も同感。何しろ寒い! 「狭い日本で、なんでこんなに違うんや!」 飛行機を降りてすぐカーディガンを羽織ったのだが、空港から函館市内に向かうバスの中でもぶるぶる震えていた。そのせいだろうか、雨模様の風景もどことなく寂しく、津軽海峡の波も思った以上に荒く感じられた。 だが、函館市内の人情は温かかった。北海道の言葉も、独特の雰囲気があってなかなかいいものだ。語気は少し荒いが、あのイントネーションには、人を安心させる何かがあるように思った。啄木は、わずか4ヶ月しかいなかった函館をこよなく愛し、死ぬ時は函館でと言ったという。彼がそこまで思った函館……うーん、たった2日の滞在では偉そうなことは言えないが、分かるような気もした。 |
| 函館市文学館 市電の電停末広町を降りてすぐ。 重厚な建物である。大正時代、銀行の支店として建てられたものらしい。 亀井勝一郎や井上光晴など、函館出身またはゆかりの文学者についての資料が展示してある。辻仁成も函館出身だったなんて、はじめて知った。 受付の方や学芸員の方達が、とても感じよかった。 啄木に関する資料は、2階にまとめて展示してあった。 |
函館に来た啄木は、同人結社「苜蓿舎(ボクシュクシャ)」に入り、その雑誌『紅苜蓿』(ベニマゴヤシ)の編集を担当した。 一方、生活のために商業会議所の臨時雇い、弥生小学校の代用教員、函館日日新聞の記者などに就いた。
やがて生活の目途が立ちはじめ、家族も呼び寄せたが、8月25〜26日の火事に遭遇。市内の大半を焼き尽くす大火事で、啄木一家は無事ではあったものの、彼の職場は全て焼失してしまった。『紅苜蓿』の原稿、彼の最初の小説『面影』の原稿も焼けたという。これによって、彼はさらに札幌、小樽、釧路へと職を求めて放浪しなければならなくなったのである。
| 青柳町の啄木居住地跡 青い立て札に、啄木のことが記されている。また、次の2首も記してあった。 「函館の青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花」 「わがあとを追い来て 知れる人もなき 辺土に住みし母と妻かな」 啄木は、苜蓿舎(ボクシュクシャ)に仮住まいした後、7月7日に妻子を呼び寄せ、この付近の路地奥の借家に落ち着いたらしい。すぐ後に母も来、妹も共に住むことになった。 |
立て札から少し離れたところに、「啄木通り」というポールが立っていた。 近くのパン屋さんから、いい香りが漂っていた。穏やかな生活が営まれている、静かな住宅街だ。 |
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| 同じく青柳町にある啄木の歌碑 「臥牛舎」という焼き物の工房の庭にあって、通りからは少し分かりにくい。 「こころざし得ぬ人人の あつまりて酒のむ場所が 我が家なりしかな」 |
| 弥生小学校 啄木は、苜蓿舎(ボクシュクシャ)同人の吉野白村の世話で、6月からこの弥生尋常小学校の代用教員となった。同僚に、彼の憧れの人となった橘智恵子がいた。 校舎は、かなり歴史のありそうな重厚なものだった。が、三方を回ってみたが、校門らしきものが見あたらなかった(ま、どうでもいいことだが…)。 右の画像に見える白い物は、「旧アメリカ領事館跡」という立て札。幕末期は、この地がそうだったらしい。 |
| 函館公園と啄木の歌碑 函館の市電に乗って電停青柳町で下車し、緩い坂を上っていくと、まずこの公園の入り口にぶつかる。実は、その右手に、啄木通りと居住地跡があるのだ。この公園は小さいが、手入れが行き届いていて気持ちのいい公園だった。 歌碑の文字は、啄木の自筆を集字拡大したものだとのこと。 「函館の青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花」 |
| 市立函館図書館 函館公園のそぐそばにある。啄木の自筆原稿やノート等が、啄木文庫として保管されている。ただし、展示はされていず、資料閲覧を依頼しなければならないらしい。 緑豊かな落ち着いたたたずまいの中を、夏休み中の子供や年輩の人が、時々出入りしていた。 |
| 津軽海峡に面した大森浜 遠くに、立待岬、右端に小高い函館山が見える。函館に住んでいた時期、啄木は幾度もこの浜辺を散策し、歌を詠んだ。あの有名な「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」も、ここが舞台だ。 この日は、低温注意報が出るほどの寒さで風も強く、小雨まで降る悪天候だった。とても、砂浜を歩ける状況ではなかったのだが、ちょっとだけ歩いてみた。が、蟹なんて一匹も出てこなかった……(^_^;) でも、テトラポットの間で、子猫たちが戯れていた。カメラを向けたら、逃げられてしまった(/_;) |
| 大森浜に面して啄木小公園がある。砂浜を見下ろすように、啄木像が建っている。左手に持っているのは、自らの詩集『あこがれ』なのだそうだ。カモメが低く飛んでいた。 「潮かをる北の浜辺の 砂山のかの浜薔薇よ 今年も咲けるや」 また、公園内には、啄木を偲ぶ西条八十の詩碑もある。(右端の画像) 「眠れる君に捧ぐべき 矢車草の花もなく ひとり佇む五月寒 立待岬の波静か おもひでの砂ただ光る 捧啄木」 |
| 啄木浪漫館 啄木小公園の隣、大森浜に面して建っている啄木のテーマ館。2階に啄木ミニシアターと啄木資料展示室がある。このシアターは、なかなかよかった。 |
浪漫館の外にある歌碑 本を象った歌碑だ。左の本の表紙は『あこがれ』。 「砂山の砂に腹這ひ 初恋の いたみを遠くおもひ出づる日」 |
| 石川啄木一族の墓 立待岬の墓地にある。啄木は、1912(明治45)年4月13日、東京において肺結核で亡くなった。妻節子は、「死ぬ時は函館で」という啄木の言葉を思い、遺骨を函館に埋葬することを願った。が、その彼女も、翌年1913(大正2)年5月5日に亡くなってしまった。彼女の希望通り、石川家の墓が函館にできたのは、その翌月6月であった。 現在の墓は、大正15年、啄木の友人で援助者でもあった宮崎郁雨らの手によって作られた。緩い坂の途中にある。津軽海峡に面し、函館の町を一望でき、遠くには大森浜も見える。 墓碑の歌 「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」 |
| 啄木一族の墓の後ろに、宮崎家の奥津城がある。そこに、彼の友人で援助者でもあった、そして彼の名を高めることに奔走した宮崎郁雨の霊が眠っている。その死後も啄木一家を守っているようで、しみじみとした気持ちになってしまった。 真中の画像は、郁雨の歌碑。「躊躇と夜道をたどる淋しさよ 酒はひとりし飲むものならず」 また、郁雨の歌碑の隣には、砂山影二の歌碑も。彼は、1918(大正7)年に函館で創刊された文芸雑誌『銀の壺』の同人として活躍した人で、啄木を深く敬愛していた。が、20歳で青函連絡船から身を投じ、自ら命を絶った。「わがいのち この海峡の浪の間に 消ゆる日を想ふ――岬に立ちて」 |
| 立待岬 この日は、波の荒い寒い日だった。 岬をさらに上っていくと、土方歳三 など、維新の函館戦争の戦死者を 祭った碧血碑(へっけつひ)がある。 啄木の散策地だった。 |
与謝野晶子・与謝野鉄幹の歌碑 岬を少し下ったところにある。与謝野鉄幹は、啄木が歌を寄せた雑誌『明星』の主宰者だった。 鉄幹「浜菊を郁雨が引きて根に添ふる 立待岬の岩かげの土」 晶子「啄木の草稿岡田先生の顔も忘れじ はこだてのこと」 |
旅のおまけ
| 五稜郭タワーから見た函館の町 前方に、啄木が眠る立待岬、そして函館山が見える。 |
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「函館ハイカラ号」のチケット 函館に来て、最初に乗った路面電車は、運良く「函館ハイカラ号」だった。木製の赤いレトロな電車。車掌さんは、首から大きながま口をぶら下げて、乗ってきた客一人一人に「どちらまで?」と聞いては切符を切っていくのだ。のんびりしていて、観光している身には嬉しかった。(しかも、この車掌さんは若い娘さんで、ショートパンツだったぞ!) ちょうどこの日から函館の港祭りが始まるからか、運転手も車掌さんも赤い法被にねじり鉢巻き姿だった。 残念だったのは、これに乗れたのは一回きりで、あとはみな普通の路面電車だった。(もちろん、それらもみな感じ良かったが) もう一回乗りたかったな。 |
| 港近くの喫茶店で休んで外に出たら、パレードに出くわした。 ちょうど、港祭りの初日だったのだ。 真中の画像は、函館戦争の兵士に扮した行列だろうか。参加者には外国人が多かった。 |
祭りの2日目は、函館の中心街で踊りや何やかや……(^^) 名物「いか踊り」もあって、実ににぎやかでパワフルだった! 北国の祭りは熱気でいっぱいだ。 これは、小学校グループの「いか踊り」の中で見つけたもの。啄木も働いた小学校は、今年120年目を迎えたのか…。 |
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