札幌

 函館での生活が順調になろうとした矢先の大火で、啄木は再び放浪を余儀なくされることになった。大火後の9月、啄木は弥生小学校校長に退職願を出し、妻子を残して札幌に向けて旅立った。
 だが、彼が札幌にいたのはわずか2週間たらずだった。北門新報社に入社して下宿生活を始めたのだが、数日後に小樽日報創業の誘いを受けてすぐに退社し、小樽に向かったからである。


北海道立文学館
中島公園という広くて美しい公園の中にある。
地方の文学館を巡ると、その土地ならではのものに触れることができる。今回は啄木を求めての旅だが、この文学館でアイヌの口承文芸の資料を見ることができたのは、嬉しい体験だった。
啄木の下宿跡地
JR札幌駅のすぐ近くである。テナントがたくさん入ったビルのエン
トランスに啄木の胸像が置いてあった。
啄木がほんの数日勤務していたという北門新報社跡地は、北四条西二丁目だから、おそらくこの辺りだろう。これもJR札幌駅のすぐそば。今は東急デパートがあって、車も人通りも絶えない所だ。
大通公園の啄木像と歌碑
「しんとして幅広き街の 秋の夜の 玉蜀黍の焼くるにほひよ」

函館にいた時と同じく、この日も小雨が降る寒い日で、大通公園を訪れる人はいつもより少なかった(多分 ^^;)。が、「あっ、啄木や」と言って通り過ぎる人が何人かいた。観光客だろうか。
大通公園にある有島武郎の文学碑
かなり大きい碑である。『小さき者へ』からの一文が、
武者小路実篤の書で刻んであった。
この日は、この辺りには全く人気がなかったが、遊水
路や遊具がある区画だから、いつもは子供連れの人
などで賑わうのだろう。
同じく大通公園の吉井勇の歌碑
道を挟んで、啄木像の斜め向かいに位置している。
「家ごとに リラの花咲き札幌の   人は楽しく生きてあるらし」

旅のおまけ

「北海道開拓の村」という所へ行ってみた。
開拓当時の建築物が移築保存してあり、レトロな気分を味わいながら散策できる。
そこに、旧有島家住宅があった。有島武郎とその家族が、1910(明治43)年5月から翌年7月まで住んだ家である。所在地は、今の札幌市白石区に当たる所。この家で、有島は『或る女のグリムプス』を書いた。

中の部屋を撮影したのだが、暗くてうまく撮れていない。ストロボをONに直せばよいものを、オートにしたままで、「発光しないなあ。変だなあ」とぼやいていた私(^_^;)  オバカだ……
有島の書斎
ただし、実際の彼の書斎は、2階だったらしい。
この部屋は、説明板によれば、茶の間に当たっている。
同じ部屋を斜めから撮影 同じ部屋の天井
よく分からないが、まるで竹か何かで編んだような、凝ったものだ。
床の間
手前はベビーベッドだろう。
廊下に見えるのは、子供の木馬。
床の間に置いてあったもの
扇風機や蓄音機、目覚まし(?)時計など。
当時としてはずいぶんハイカラなものだったのではないだろうか。裕福な生活が想像される。同じ時代に生きていても、貧に喘いでいた石川啄木の生活とは大違いだ。(有島…1878(明治11)年生まれ  啄木…1886(明治19)年生まれ)

  函館へ戻る  小樽へ進む

   文学紀行へ戻る    微照庵トップへ戻る