小樽
啄木が小樽に着いたのは、1907(明治40)年9月27日。10月から小樽日報に出社し、後の童謡詩人野口雨情と共に三面記事を担当することになった。そして、家族そろっての生活を再開することができた。
しかし、社の内紛に関わり、またしても2ヶ月あまりで退社してしまった。収入の道を絶たれた一家は、窮迫する生活の中で不安だらけの新年を迎えたのである。やがて、苜蓿舎の同人の骨折りで釧路新聞への就職が決まり、啄木は、再び単身赴任することになった。
| 市立小樽文学館 昔ながらの図書館のような文学館だ。入りやすく、そして展示されている文学者達が身近に感じられる、素朴な雰囲気が漂っていた。 小林多喜二、伊藤整などの展示資料も興味深かった。 また、ちょうど、「小樽論」という写真展示を行っていた。壁3面、小樽中あらゆる場所の写真で埋め尽くされているのだ。かなり見応えのあるものだった。 伊藤整のコーナーに、小樽高等商業学校(だったと思う…)の英語劇の写真があった。そこに、伊藤整と小林多喜二と高浜年尾(高浜虚子の息子)の3人が出演していた。劇は『青い鳥』。伊藤は侍童、多喜二は山羊(羊だったか?)、年尾は犬の役。多喜二も年尾も、自分で作った大きなかぶり物を頭から被っていた。やがてそれぞれの道で名を残し、あるいは無惨に散っていった彼らの、短い青春の一齣を垣間見た気がした。 |
| 啄木が入社した小樽日報社跡 啄木は、ここで、野口雨情と共に三面記事を担当した。そして、新しい土地での仕事に情熱を燃やしたが、主筆とことごとく意見が対立してしまい、12月に退社した。ちなみに、雨情は、わずか十数日で小樽を去ったらしい。 今、跡地には内科医院が建っている。JR小樽駅の近くの大型スーパーの裏。狭い通りをひっきりなしに車が通っていた。 真中の画像では、跡地は、柳の木の右後方。右の画像では、前の車の後方。 ついでに言うと、このお隣(柳のある店)は、ガイドブックにも出てくる有名なお蕎麦屋さんだ。ちょっといい雰囲気のお店。 |
| 小樽公園の啄木歌碑 公園は、小樽市内から少し離れた小高い丘にあり、市街地と港が見下ろせる。 「こころよく 我にはたらく仕事あれ それを仕遂げて死なむと思ふ」 |
| 南小樽の水天宮にある啄木歌碑 この水天宮からも、小樽の街が望める。上り坂がきついが、それでもガイドブックに素直な観光客が、時々息を切らして上ってくる。 が、啄木歌碑があることを事前に知っていなければ、この碑に気づくことは殆どないだろう。私が探すのにも、相当時間がかかった。この場所は、境内の外のトイレのそば。この画像のすぐ右にトイレがあるのだ。また、この碑の視線の先にも市街地が望めるが、成長した木々に遮られて殆ど見えない。この碑は、ちょっと気の毒な気がした。 「かなしきは小樽の町よ 歌ふことなき人人の 声の荒さよ」 |
| 旭展望台から見た小樽の町 小樽商大行きのバスに乗って、途中で下車。坂道を15分くらい上ると、この展望台に到着。木が少し邪魔だが、良い眺めだ。のんびりとフェリーの出航を眺めることができた。 観光ビデオを撮っているというおじさんと、しばし歓談。彼は「啄木は負け犬さ」「蟹とたわむれてなんていられるかよ」だって。でも、「北海道の人は、たいていは啄木が好きだね」とも。 |
| 旭展望台の駐車場そばには、小林多喜二の文学碑があった。堂々とした碑だ。 |
| JR小樽の駅舎と駅正面にある案内板 案内板には、「石川啄木と小樽駅」というタイトルが付いている。説明によれば、当時、啄木の姉の夫は中央小樽駅の駅長をしていた。それで、啄木も小樽に家族を呼ぶことができたらしい。だが、1908(明治41)年1月19日、雪の降る中、子を背負った妻に見送られながら、この駅から彼は一人で釧路へ旅立ったのである。 「子を負ひて 雪の吹き入る停車場に われ見送りし妻の眉かな」 |
啄木の釧路での生活は、約3ヶ月。
新聞社では編集長格の扱いで才筆を発揮でき、芸者小奴と馴染みになるなど、自由な生活を送った。が、ここでも上司と対立して退社してしまった。
4月、啄木は海路で函館に立ち寄り、妻子をそこに残して、単身、東京に向かったのである。
※ 残念ながら、今回の旅行に釧路は含まれておりません。
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