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◆英語で「どもり」を"Stammer"という。縁あって1989年から1年間、英国ロンドンで過ごすこととなった。その際の私の英語の能力は読める程度で、聞く、話す、書くについては全くといってよいほどのひどいものであった。
◆さて、「どもり」はどうなったか?もう最初のうちは、聞くことに必死で、自分が「どもり」を持っていることすら意識することはなかった。というより、生活するために他のことを考える余裕が無かったといってよい。この期間はおよそ2ヶ月続いただろうか。その後、耳も慣れ、意思を伝える最低限の会話もできるようになった時、どうしたことか「どもり」が復活した。やはり「あ行」だ!「A, I, U, E, O」その時の気持ちは、「また来たか。 あ〜あ」であった。英語になれば日本語と違うので、「どもり」は出ないだろうとたがをくくっていたのだが、甘かった。なかなか「どもり」はしつこい相手(おっかけ)であった。
◆しかし、私には日本語での経験がある。この時の心境は、その経験に則り英語での「どもり」がどのように変化していくかを眺めてみようというものであった。その時期に何気なく聞いていた知人達の会話が非常に面白く、また、私自身の会話に対する姿勢を変えるきっかけになり、日本語で「どもり」をある程度克服してきた原則を補強するものでもあった。つまり、知人達の会話は、内容面ではなく、その会話の成立過程が面白かった。ロンドン出身のA君はいわゆる上流階級に属すると思われる英語を話し、ウェールズ出身のB君はウェールズ訛の英語を話していた。この両者の会話が、いっこうにかみ合わないのである。B君はある話題で同じ内容を、言い方を変え幾度もA君に話し、徐々に会話がかみ合ってきた。別の話題でも同じようなことが繰り返されていた。このB君は、会話の第一声で必ず、「どもり」とは違うようなのだが、同じ言葉を数回繰り返す特徴があった。
◆自分でも明確に意識しないうちに「どもり」は悪いこと、隠さなければならないことと思い込んでしまっていた私に、この知人達の会話は衝撃と安心感を与えたことは言うまでもない。「そのままで良いのだ!」「一回の発言で、そもそも会話は成立しないのだ!」「恥ずかしいと思う気持ちが、そもそも精神的な歯止めになっている!」この気づきを得た後、約3ヶ月の間、ビジネス・インキュベーターのプロデューサー兼インキュベーション・マネージャーであるジェフ・フェファーズ(ロンドンにあるサウスバンク・テクノパークの元マネージャー)の下で、トレーニーとして働く機会を得た。黙っていることが許されない時間。これが正直なところだろう。自分の意思を伝える会話の繰り返しであった。トレーニーとしての研修期間も終わりに差し掛かったとき、「どもり」を意識せず、話している自分がいた。ジェフに感謝しなければならないと同時に、「どもり」が出るパタンはいずれの言語にも共通していることが理解できた。
◆今振返って考えてみると、日本語でも英語でも、私の場合は意識しないレベルまで話しまくるというプロセスが極めて重要になっている。事前に考え過ぎることがよくないと人に言われたことがあるが、経験的に言えば私の場合そうではなく、話した量と相関があるようだ。最近、自分が直面している場での絶対的な量と関係しているのではないかと気づいた。今後も「どもり」を良く分かった相手として付き合って行きたい。脳科学、顎等の形状等様々な分析が出されているが、現場に直面した私の経験談も別の意味で面白いのではないだろうか。 |