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「魔王アザトートは旧支配者の総帥であり、太古における旧神との争いによって知性を奪われ、世界の外の暗黒の玉座で無意味に吼え狂っている」これが最も一般的なアザトートの紹介である。この説は半分は正しく、半分は誤っている。
アザトートが旧支配者の中心的な存在であることは同意できる。しかしアザトートが旧神(たとえそんなものを認めるにしてもだ)によって知性を奪われたというのは、明らかに誤りなのだ。
ラヴクラフトの返く神話の真の恐怖=真の魅力は、この卑小な宇宙の支配権をめぐる悪魔と人間+旧神の争いといった陳腐な二元論にあるのではない。私達が確固たる現実と無邪気に信じているものが、実ははかない泡沫のごときものであり、ほんの僅かなきっかけで崩れ去ってしまうかもしれないということを思い知らせる点にあるのだ。
描かれる怪物、いや超存在たちも地上の支配を望みなどしない。支配を望むのはその従者たる魔物や魔道士達なのだ。アザトートはもちろん、ラヴクラフトの原神話では下位に位置するクトゥルフでさえ、特に意図することなくその姿を現すだけで世界を、少なくとも人間が世界と呼ぶものを破滅させうる力を持つ混沌の存在なのだ(『クトゥルフの呼び声』において、ルルイエが浮上しただけで感受性の強い者はその精神を打ち砕かれたことを思い出して欲しい)。それを悪魔と呼び邪神と呼ぶのは人間の勝手だが、彼らは意に介すまい。
その混沌の中心こそがアザトートなのだ。『魔女の家で見た夢』や『未知なるカダスを求めて』『ユゴス星より』などに描かれるアザトートの姿は次のごとし。
「全き無窮の中心で冒涜的言辞を吐き散らし、浮かれざわめく奈落の底の混乱の、あの最後の得体の知れぬ破滅の妖気」「時 質量とて絶き果て」た「究極の虚空にうごめく螺旋状の黒い渦動」に座す「魂を持たぬ実態」。そしてその玉座のまわりにはアザトートの分身とも思われる盲目痴愚の異神たちが、メロディをなさぬ笛とリズムをなさぬ太鼓に合わせて菰をなさぬ踊りを果てる事なく続けている。あるいは分身などではなく、皆がアザトートであり踊りの中で次々と玉座に着くものが入れ代わるだけなのかもしれない。
すなわち自己充足した混沌の象徴こそがアザトートなのであり、意志・知性などはその本質と正反対の物であって最初から持ち得るはずがないのだ。
だが、意識してはいなくともアザトートは世界を支配している。あらゆる混乱の中にはアザトートがいる。全ての混乱はアザトートがこの世に落とした影なのだ。いや、世界そのものがアザトートの踊りの中で偶然に作られたにすぎず一瞬後には再び混沌に戻るのかもしれないのである。
■Necranomicon. ■
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