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■うれしたのし美術史■ 第1章 飛鳥文化は仏教文化 第2章 白鳳文化は、やる気マンマン文化 第3章 雄大な天平文化をつくったもの 第4章 弘仁・貞観文化は、神秘的 第5章 国風文化は極楽浄土へのあこがれ 第6章 時代の変化と院政期文化 第7章 初のマッチョ文化、鎌倉文化誕生! 第8章 室町文化は、「無じゃ!」的文化 第9章 桃山文化は、ゴージャス満開 第10章 寛永文化は、豪壮から安定感へ 第11章 元禄文化はデザインちっく 第12章 化政文化はワルなオトナの文化 第13章 近代化の激流の中の明治文化 第14章 大正文化は、個性満開 第15章 現代文化の展開 掲示板
top page 岩田澄人 古文単語チェック
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じゃあ、はじめよう! 日本で、「美術史」っていえるものがはじまるのは、飛鳥文化〔あすかぶんか〕だ。おもに、聖徳太子の時代だね。7C前半だ。 この時代には、聖徳太子や蘇我氏〔そがし〕が仏教を採り入れたから、とっても仏教文化が栄えた。というか、大陸の最先端思想の仏教が入ってきて、日本にも「文化」とはっきりと呼べるものが生まれたわけだ。 聖徳太子は、日本改革を目指した。 豪族がのさばってる無秩序社会から、天皇というリーダーがちゃんといて、法も官僚制度もちゃんとある、先進国・日本を夢見た(それが、「律令国家〔りつりょうこっか〕」だね。)。そのために、導入したのが、最先端思想の仏教だ。仏教の思想を根幹に置いて、日本を秩序ある安定した社会にしようとしたんだね。 そう、この時代は、聖徳太子だから、聖徳太子といえば、法隆寺〔ほうりゅうじ〕。法隆寺をどんと中心に置いて考えると、理解しやすいよ。 A 飛鳥文化の建築−法隆寺は未来都市 まずは、建築から行こう。 豪族たちが、それまでの古墳にかわって寺院を造るようになった。 なんか今「お寺」っていうと、「しぶい」感じがするけれど、当時にしたら、中国やインドからやってきた最新建築だね。きっとぼくたちが、「六本木ヒルズ」とか見る感覚だったはずだ。 さて、飛鳥文化の寺院といえば、なにはともあれ、法隆寺〔ほうりゅうじ〕(斑鳩寺〔いかるがでら〕)だね。 聖徳太子が、お父さんの用明〔ようめい〕天皇の病気回復を祈って造ったお寺だ。当時は、仏教っていっても、病気回復を祈ったり、戦いの勝利を祈ったり、呪術的な面が強かったんだね。 法隆寺のなかでも有名なのは、法隆寺五重塔〔ほうりゅうじごじゅうのとう 〕と法隆寺金堂〔ほうりゅうじこんどう〕。 どちらも、「シャキッ」としてて、とっても安定感がある。自信たっぷり立っている。そんな感じだ。それまではこんな建築なかったわけだから、この「自信たっぷりの安定感」が、当時にしたら、「最新建築してる」だったんじゃないかな。金堂〔こんどう〕の柱は、エンタシスっていって、真ん中がびみょーにふくらんでる。ギリシア文化の影響が伝わってきたものなんだけど、やっぱり「最新建築してる」ね。 今、法隆寺の写真見ながら書いてるんだけど、法隆寺全体がだんだん「未来都市」に見えてきたぞ……。 法隆寺の金堂・五重塔・中門〔ちゅうもん〕・歩廊〔ほろう〕(廻廊〔かいろう〕)は、世界最古の木造建築でもある。当時の「未来都市」も今では、世界最古だ。 法隆寺再建論争っていって、実は、「670年に法隆寺は焼失した」と『日本書紀』に書いてある。で、1939年から石田茂作が調査したところ、若草伽藍趾〔わかくさがらんあと〕が遺跡状態で発見された。ってことは、今建ってる法隆寺は後から建てられたものなわけで、最近では「再建説」が有力だ。 ほかには、聖徳太子が母・穴穂部間人〔あなほべのはしひと〕皇后の宮を寺にした中宮寺〔ちゅうぐうじ〕(奈良県)、聖徳太子が建立した四天王寺〔してんのうじ〕(大阪府)、秦河勝〔はたのかわかつ〕が建立した秦氏〔はたし〕の氏寺の広隆寺〔こうりゅうじ〕(京都府)、蘇我馬子が建立した蘇我氏の氏寺の飛鳥寺〔あすかでら〕(法興寺〔ほうこうじ〕)を覚えておこう! さて、ここで、覚えとかなくちゃいけないのが、「伽藍配置〔がらんはいち〕」ってやつだ。 ちゃんと、お釈迦さまの骨(仏舎利〔ぶっしゃり〕っていうんだけどね)を納めておく「塔」、仏像を置く「金堂〔こんどう〕」、偉いお坊さんがお話をする「講堂」とかの配置が決まってるんだ。 かならず「図説」に載ってるから、覚えてほしいんだけど、ポイントは「塔」の位置だ。これを覚えておけば、だいたいわかる。 お寺でいちばん大切なのは、本当は、お釈迦さまの遺骨が納められてる「塔」なんだ。だから、いちばん昔の飛鳥寺式〔あすかでらしき〕では、塔がドマンナカにあって金堂が塔を取り囲んでいる。それが、次の時期の四天王寺式〔してんのうじしき〕になると、「塔」が前に出る。つまり、「塔」が「お釈迦さまの遺骨がある大切なところ」というより、お寺の飾り(なにしろいちばん目立つのは塔だからね)になってきたってわけだ。でも、まだいちばん大切にされてる感じはある。そして、次の時期の法隆寺式〔ほうりゅうじしき〕になると、「塔」と金堂が平等に並んじゃってる。だんだん、塔が「お寺の中心」じゃなくなって、飾りになってきてるわけだね。 B 飛鳥文化の彫刻は厳しい北魏様式と優しい南朝様式 じゃあ、次は彫刻にいこう。彫刻っていっても、やっぱり当時のことだから、仏像ばかりだね。
じゃあ、仏像、いくよ。 まずは、鞍作鳥〔くらつくりのとり〕(止利仏師〔とりぶっし〕)がつくった法隆寺金堂釈迦三尊像〔ほうりゅうじこんどうしゃかさんそんぞう〕と飛鳥寺丈六釈迦如来像〔あすかでらじょうろくしゃかにょらいぞう〕(飛鳥大仏)。 どちらも如来なので、質素な服を着て、頭にコブがあるね。如来の中でも釈迦如来だから、お釈迦さまご本人だ。法隆寺金堂釈迦三尊像は、隣に家来の仏が2人いてはるから「三尊像」。 2つとも北魏〔ほくぎ〕様式というスタイル。北魏〔ほくぎ〕様式というスタイルは、堅い感じが特徴なんだ。たしかに、法隆寺金堂釈迦三尊像〔ほうりゅうじこんどうしゃかさんそんぞう〕も飛鳥寺丈六釈迦如来像〔あすかでらじょうろくしゃかにょらいぞう〕も、ちょっと顔が長くて、堅い感じがする。 さて、その一方で、ソフトな感じなのが、南朝様式。 中宮寺半跏思惟像〔ちゅうぐうじはんかしゆいぞう〕と広隆寺半跏思惟像〔こうりゅうじはんかしゆいぞう〕。 名前には入ってないけど、どちらも弥勒菩薩さんだ。うーん、菩薩さんだから、どちらも優しい表情だね。名前の「思惟」ってことは、「人間をどう救おうか……」って、五十六億七千万年(長いな)、深く深く考えて、ほっぺたに手を当ててはるってこと。ぼくたちも、物思いにふけってるときに、ついついほっぺたに手を当ててることってあるよね。「半跏」てことは、片一方の足をおろしてるってことなんだけど、これは「人間を救いに行かなくっちゃ」って、組んでた足を思わずおろした瞬間なのだ。 広隆寺の方は冠をつけてるね。菩薩さんは、オシャレさんなのだ。中宮寺の方は、冠がとれちゃってるんだけど、ちゃんと髪の毛をオダンゴにゆってはる。やっぱりオシャレさんだ。 そして、法隆寺百済観音像〔ほうりゅうじくだらかんのんぞう〕。 モデルさんになれそうなくらいスラーッとしてて、とっても優しい感じだ。服もよく見ると、ドレッシーでオシャレだ。できた当時は、キレイに色が塗られてたんだけど、今では色もすっかりはげてぼろぼろ。でも、それでも、千年の時を超えて人々を救おうとそっと手をさしのべてはる。 それから、法隆寺夢殿救世観音像〔ほうりゅうじゆめどのくぜかんのんぞう〕。 これは、聖徳太子の等身像だっていわれてるんだけど、約180センチもある。聖徳太子ってかなり背が高かったんだね。当時はもっと平均身長が低かったはずだから、今でいえば、190センチ、いや2メートルくらいって感覚かな。 なんかぼくたちは聖徳太子っていうと「おとなしい」イメージが勝手にあるんだけど、例の隋〔ずい〕の煬帝〔ようだい〕を激怒させる「日出づる処の天子〈推古天皇〉、書を日没する処の天子〈隋の煬帝〉に致す。恙無〔つつがなき〕きや云々〈元気ですか〉。」っていうタメグチの手紙を送ってるくらいだから、かなり強気のゴッツイ人だったのかもしれない。 そうそう、この観音さんのオシャレ度はかなり激しい。紅白歌合戦の小林幸子に対抗できそうな金ぴかのギザギザ服を見てくれ。手をぱーっと広げたら電飾がついてるはずだ。 C 飛鳥文化の絵画と工芸 この分野で、見逃せないのが、法隆寺の玉虫厨子〔たまむしのずし〕。 名前のとおり、玉虫の緑に輝く羽で一部が飾られている。そして、須弥座〔しゅみざ〕という下の部分には、玉虫厨子須弥座絵〔たまむしのずししゅみざえ〕といわれる絵が描かれている。 捨身飼虎図〔しゃしんしこず〕と施身聞偈図〔せしんもんげず〕があって、捨身飼虎図〔しゃしんしこず〕はよく見ると、上の方からまっさかさまにスゴイ勢いでダイブしている人がいる。いやいや、これは、お釈迦さまが、飢えた虎を救おうと「私の肉を食べてくれ」と虎に向かってダイブしている絵なのだ。 他には、聖徳太子の奥さんの橘大郎女〔たちばなのおおいらつめ〕が、聖徳太子の死後の世界をしのび、采女〔うねめ〕に刺繍〔ししゅう〕させた天寿国繍帳〔てんじゅこくしゅうちょう〕も、覚えておこう。 |
| できるだけ「図説」みたいな本を見ながら読んでくださいね。 今、近くにそういう本がない人は、googleイメージ検索(ここをクリック)で探すと、すぐ画像が見つかりますよ。 |