佐久間 勉 海軍大尉
日本最初の潜水艇はジョン・ホランド設計によるホランド10型で、これを米国から5隻購入、分解して日本に運び
横須賀海軍工廠で組み立てました。この5隻で第一潜水隊を編成、日露戦争戦勝祝賀観艦式に参加しています
帝国海軍は明治38年神戸の川崎造船所で潜水艇の国産化に着手、翌39年、6号艇・7号艇を完成させます
ところがこの艇は水上速力はホランド型と変わらなかったが、水中速力が4ノット・航続距離が12海里しかない為
水中性能を向上させるべく、水中でもガソリン機関を使う実験を始めます。実験は浅深度で昇降筒を海面上に出し給排気しながら潜航しようという、画期的なもので昭和19年に独海軍がUボートに装備、実用化した「シュノーケル」の元祖といえるものでしたが この当時(明治43年)波をかぶると自動的に閉じる弁が無く、危険を伴う実験でした。
この実験にあたったのが、福井県出身の佐久間勉海軍大尉で、潜水母艦「韓崎」勤務、一号潜水艇長などを務め
当時の潜水艇の第一人者でした。
![]() 佐久間勉大尉生誕地の碑 |
明治43年4月11日佐久間艇長の指揮する6号潜水艇は呉港を出港、瀬戸内海での訓練に出発します。
宮島方面で潜航訓練を行い12・13日宮島泊、14日山口県新湊港に停泊、翌15日09:30出港、10:00頃潜航を開始します。
間もなく昇降筒から艇内に海水が進入、艇はバランスを崩し、沈下し始めます。乗員達は真っ暗な中、手動ポンプで水をかいだし浮上させようと努力を続けますが、深度は増すばかりでまもなく海底に沈座、艇長以下14名が殉職しました。6号潜水艇は17日に引き上げられましたが、14名の艇員は皆持ち場を離れず、任務をまっとうし従容と死を迎えたとされています。
小官ノ不注意ニヨリ陛下ノ艇ヲ沈メ部下ヲ殺ス誠ニ申訳ナシ、
サレド艇員一同死ニ至ルマデ皆ヨク、ソノ職ヲ守リ沈事ニ事ヲ処セリ・・・
上の言葉で始まる遺書には事故の模様が克明に記録され、この教訓を今後の為に役立てて欲しいという内容が
記されてありました。
従容とした態度は軍人の鑑として当時の國民に感銘をあたえ、世界的にも有名になりました。
修身の教科書にも書かれ、その心は昭和19年9月6日回天の訓練中殉職した黒木大尉、樋口大尉に受け継がれていきます。
![]() 慰霊碑 |
![]() 墓所 |
| 生誕地の碑、慰霊碑、墓所は福井県三方町にあり、敷地内に佐久間記念館が在ります。 毎年、4月には慰霊祭がおこなわれています。ちなみに今年は90周年です。 |
| 殉 職 者 氏 名 |
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海 軍 大 尉 佐 久 間 勉 |
海 軍 中 尉 長 谷 川 芳 太 郎 |
海 軍 機 関 中 尉 原 山 政 太 郎 |
海 軍 上 等 兵 曹 門 田 勘 一 |
海 軍 上 等 機 関 兵 曹 鈴 木 新 六 |
海 軍 一 等 兵 曹 浴 山 馬 槌 |
海 軍 一 等 機 関 兵 曹 岡 田 権 治 |
海 軍 二 等 兵 曹 堤 重 太 郎 |
海 軍 二 等 機 関 兵 曹 山 本 八 十 助 |
海 軍 二 等 機 関 兵 曹 檜 皮 徳 之 助 |
海 軍 三 等 兵 曹 吉 原 伸 二 |
海 軍 三 等 機 関 兵 曹 河 野 勘 一 |
海 軍 三 等 機 関 兵 曹 福 原 光 太 郎 |
海 軍 一 等 水 兵 遠 藤 徳 太 郎 |
| 合掌 |