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29.ニセ妊婦
我が家の子ども達はディズニー・アニメが好きで、何本かビデオを持っている。そこに登場するプリンセス達の体型ときたら、それはそれは見事なナイスバディなのである。そりゃ、アニメだし、モデルは欧米人だし…、しかしそれにしてもボインボインにウェストキュッ、なのだ。プリンセスはかく美しくあって欲しいという万人の思いが込められているのだろうか。
ところで、わたしは大変に空想好きな子どもであったので、布団に入って寝付くまでの間、いろいろなことを思い描いて楽しむのが日課だった。時には世界一周する冒険家、時には大富豪の令嬢、そして時には美貌のプリンセスであった。大人になるにしたがって、夢と現実の差はどんどん現実味を帯びていった。プリンセスのドレスも体型に合わせて仕立て直さなくてはならない。空想なんだからどうだっていいじゃないかと開き直るほどわたしは図々しくないのである。
だが、ここで声を大にして言っておきたい。今でこそ誰も信じないが10代から20代前半までのわたしはスレンダーな体型だったのだ。バストはともかく、ウェストは60センチのスカートが楽に入ったし、レントゲン技師のおじさんに「この人、薄いねえ〜、うまく写るかなあ」と懸念されたことだってあるのだ。164センチと高めの身長にスレンダーな体型。あとは胸にパットを入れて、長いドレスで丈夫そうなサリーちゃん足を隠せば、ほら、何となくプリンセス。
やがてプリンセスはいい歳になり、白馬に乗ったプリンスと出会い結婚しました。めでたく幸せに暮らしているうちに妊娠、かわいい王子を産みました。続いて2番目の王子を、またまた続いて3番目の王子を産みました。すると、どうでしょう。プリンセスの体重は増えたまま戻らず、お腹の皮はのびてたるんでしまいました。
わたしはもう寝付く前に空想を楽しんだりすることはない。布団に入ったら子どもより先に寝てしまうからである。今さらプリンセスに憧れる歳でもない。待ちこがれた白馬のプリンスは腰痛持ちとなり、ビールに柿ピーを一日の楽しみとしている。だけど、だけど、この体型でいいと思っているわけではないのだ。何とかなるなら何とかなって欲しいのだ。
そんなわけで、エステの広告を横目で見ながらため息をついている毎日である。60センチのスカートをはこうとは思っていないのだが、たるんだお腹の皮は戻らないものか、そこにつまった脂肪はどうすればいいのか。他はあきらめるとしても、なぜかお腹がすごく目立つのだ。幼稚園に子どもを迎えに行き、友達のお母さんがこっそりわたしの横に来て「さっき、○○さんが、もしかして4人目ができたの?って聞いてたよ」と言われたことも一度ではない。他にも恰幅のよい方はいらっしゃるのに、どうしてわたしだけが、と鏡を見てみると、やはり目立つ。なぜだろう。
よく見ると、わたしは胃下垂なのでみぞおちに厚みがなく、やや下方から肉が付き始めている。また、ヘソの少し下からは帝王切開の跡があり、ここには肉が付いていない。つまりヘソのすぐ下あたりを頂点として、流麗な曲線を描いてふくらんでいるのである。ためしに妊娠時にしたように、ふくらみの下に両手を当てて、ちょっと持ち上げてみると、何と妊婦そのものではないか。妊娠4〜5ヶ月の妊婦にそっくり!
哀れ、プリンセスは、いまや「ニセ妊婦」となってしまったのだ。
悔しいことに「ニセ妊婦」にいいことはひとつもない。ラッシュ時に通勤でもしていれば、席を譲ってもらえるかも知れないが、そんなことをしてもらって何がうれしい。何ひとつうれしくない。しかも妊婦は、ホルモンの関係か、バストに張りがあるものだが、こちらはどういうわけだかボインにもバインにもなってない。これからもなる予定はない。まったく不公平だ。
しかし、今年の夏は例年にないほどの猛暑だったが、我が家はクーラーなしで過ごした。なぜかといえば、去年から調子の悪かったリビングのクーラーが、今年はいよいよバカになってしまったからである。どんなに暑い日も扇風機を「強」にして過ごした。おかげで夏やせしたのではないかと思う。心なしか、お腹も小さくなったような。子どもも風呂に入りながら「お母さん、ちょっと痩せたね」などと言う。うーん、やはり苦難を乗り越えればいいことがあるものだ。
ちょっといい気分で買い物に出かけると、しばらく会っていなかった知人がいた。話しながら並んでレジに並んでいると、彼女がとても気を遣いつつこう言った。
「ねえ、ひょっとして…、おめでた?」
いっそのこと、本物の妊婦になりたい。(2004.9.27)
30. 3階中央病棟より
すこし昔の話である。くわしいことは省かせていただくが、ともかく出産に際してトラブルがあったと思っていただきたい。症状が急性のうえ重かったため、わたしは長男を産んだ産院から救急車で都内の大学病院へ転送された。
はじめの1ヶ月は、2人部屋に入っていたのだが、そのうちだんだん良くなってきたのを見計らって、6人部屋へ移ることになった。
大部屋に移るのは気が重かったけれど、いざ入ってしまうと心配なことなど何もなかった。新参者がまごまごしていると、しっかり者の古参が助けてくれるし、女性たちはみな明るく、おしゃべり好きで、笑いが絶えない。何しろすることが限られている。食事の他は、テレビか本かしゃべることくらいしかない。おそろしく時間が余る。とりとめのない身の上話が続いたりもする。年齢も経歴も、まったく関係のない6人の女性だが、今は縁あってひとつの部屋で過ごす仲間なのだ。ベッドとベッドの間には、薄いカーテンがあるだけ。日が経つにつれ、親しくなるにつれ、家族に似た関係になっていくような気がする。
一番奥の、窓ぎわにいる女性は、たいそう恰幅がよく、ほがらかで、どこも悪くないように見える。
消灯後に買い込んだお菓子を食べるのが日課である。何しろ室内が静かだから、ガサガサ、ポリポリと聞こえてくる。本人はイヤホンでテレビの音を聞いているので気にならないのであろう。実は、彼女はもうとっくに退院していい体なのだ。なぜいつまでもいるのかというと、手術の跡がうまくくっつかないからである。きちんとつくまでは退院の許可が出ない。そして、なぜうまくくっつかないのかといえば、脂肪が多いからである。脂肪が邪魔をしているのだという。
回診が終わって、同室のみんなに彼女が訴えたところによると、主治医は彼女の顔を見て一言、「痩せて」と言ったらしい。全員、密かに頷いた。
通路をはさんで向かいのベッドにいたのがIさんである。
彼女は画家らしく、おっとりしていて、しゅっちゅうトンチンカンなことを言うような人だった。ある日、看護師に向かって、食事に嫌いなものが出てくると文句を言っている。「わたしねえ、丸いモノが嫌いなのよ」看護師は驚いた。「何ッ!? 丸いモノが嫌い!?」抽象的な言い方をしたIさんも悪いが、そのまま「丸いモノ」全てが嫌いなのだと思い込む看護師もどうかと思う。よく聞くと、特定のメニューが嫌いなのだとわかって、前もって言ってくれれば献立から外すということで落着したのだった。
絵を見せてもらったとことがある。明るい色彩の、センスの良い油彩は、Iさんの素直さが表れているようだった。「やっとこの頃、絵が売れるようになってきたのに。こんな病気になるなんて」と彼女は言った。「早く元の生活にもどって絵が描きたいわ」どこかでまた彼女の絵に会えることを祈っている。
とても印象に残っているのがOさん。もう何ヶ月も入院している古参のひとりで、サバサバした感じの前向きな人だ。
病室の奥に大きな窓があり、その向こうは雑草が生い茂った斜面になっていた。夏の盛りで、強い日差しをあびて、緑は一年の中でもっとも濃く、生命力が満ちあふれていた。もともと植えてあったものや勝手に生えてきたものなど、雑多な植物が思い思いの装いを見せ、患者であるわたし達の目を楽しませた。
ところがある日、窓の向こうでモーターの音が響いた。草刈りだ。日々時間がとまったような病室には大事件だ。みんなベッドから起きあがって窓を見た。あれほど奔放に萌えていた緑が刈られていく。のびのびと陽に向かっていた生命が刈られていく。
窓ぎわのベッドにいたOさんが窓を開けて叫んだ。
「それ刈らないで! そこの、それ! 刈らないで、お願い!」
モーターの音がやんで、作業をしていたおじさんが「わかった」と返事をした。
大部屋の中でひとりだけ、退院したら演奏会に来てね、と住所交換をした人がいた。人目を引く端正な容姿で、正義感の強いHさん。
彼女は舞台に立つ女優さんだった。わたしの好きな演出家の舞台にも出たことがあるとかで、話が弾んだ。「でも、お腹切っちゃったからさ、もう舞台で声が出ないかも」と、よく似合うシルクのパジャマのHさんは悲しそうだった。わたしがアマチュアのオーケストラに入っていて、また演奏会に出るつもりだと話すと、「いいなあ。舞台っていいよね」と言った。
退院してから何通か便りを出してみたが返事はなく、5年ほど前に、35歳の若さで亡くなったと訃報が届いた。
衝撃の再会をした人がいる。
あれは長男が幼稚園の年中になった頃、同じクラスのUくんという男の子と仲良くなり、うちに遊びに来てもらった。子ども同士が遊んでいる間に、わたしはUくんのママとおしゃべりを。そのとき、なぜか子どもを産んだときの話になり、わたしは普段あまりくわしく話さないのに、その日に限って入院したことなど話し始めた。すると、Uくんのママは顔色を変えて、「それ、どこの病院?産んだのはいつ?」と聞くではないか。そのうち彼女はハッとしたように言った。
「2人部屋の隣のベッドにいた妊婦はあたしよ!」
当時、彼女は大学病院の近くに住んでいて、出産のため入院、正常分娩であったので、個室希望だったが空きがなく、少しだけ2人部屋にいたそうだ。そこへ救急車で運ばれてきたのが、このわたし。その翌日にはもう個室が空いて、移ってしまったが、「何か名前に聞き覚えがあると思ったんだ! そういえば旦那さんの顔、見たことある!」わたしは症状が重い最中で、何も覚えていないのだ。だけど、たしかに隣には妊婦がいて、きちんと挨拶をして部屋を移ったっけ。
たまたま同じ時期に入院して子どもを産み、たまたま彼女のうちは越谷へ引っ越し、たまたま同じ幼稚園に子どもを入れ、たまたま同じクラスになり、たまたま仲良くなって、たまたま遊びに来てもらった、というわけなのだ。こんな縁ってあるだろうか。いつどこで誰と再会するかわからない。あのときは、せっかく心静かにお産をしようと望んでいたのに、お騒がせしてごめんね、Uくんのママ。(2004.11.12)
31.ロールキャベツ
わが家の食卓には時々ロールキャベツが登場する。すると夫は「少し大きすぎる。もっと小さいのがいい」と言う。でも、わたしにとってロールキャベツはゴロリと大きいものと決まっている。
わたしはかなりの年寄りっ子として大阪で生まれた。父は大正15年、母は昭和3年生まれ。16歳年上の姉はわたしが6歳のときに滋賀県に嫁いでいった。その後、両親とわたしは東京へと居を移したため、姉とはなかなか会えなくなり、わたしはまるで一人娘のように甘やかされて育った。
父は営業マンで、ほとんど家にいなかった。しかし母は、いつ帰っても白いご飯とみそ汁が食べられるように用意していた。父は何より白いご飯とみそ汁がなくてはならないのだ。わがままで、子どものわたしより手がかかるようだった。わたしはあまり要求しない子どもだったが、少し大きくなると、「ハンバーグつくって」などと言うようになった。
母は、洋食などレパートリーになかったのだろう、見よう見まねでつくってくれた。だけど、焼き方がよくわからなかったらしく、ケチャップで煮込んである。「こんなんじゃない!」と言って困らせた。今から思うと、母は料理が好きではなかったのかも知れない。「あんたが生まれたんで仕事をやめたけど、もっと仕事がしたかった」と言うのを聞いたことがある。けれども、わたしの知っている母は、ずっと専業主婦で、父とわたしとペットの世話に明け暮れていた。
その母が、得意としていたのが「ロールキャベツ」だ。いつ覚えたのか、気がつくと定期的に食卓にのぼるようになっていた。普通のより倍くらい大きくて、肉がたっぷり入っているロールキャベツ。キャベツがクタクタになるほど煮込んであるので、野菜嫌いのわたしでも食べられる。
独身の頃は台所に立ったことのなかったわたしも、結婚して子どもができ、毎日の献立に悩むようになった。もっともっと同じ主婦としてつき合いたかった母は、わたしが3人の子を生むのを見届けて亡くなった。父は、今ではわが家のかけがえのない「おじいちゃん」。今日の夕飯は、ロールキャベツと白いごはんとみそ汁にしよう。(2004.11.27)
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