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32.元日
わが家の昨年、つまり2004年の元日は、おおよそ次のようなものであった。
元日の過ごし方にはいろいろあるが、わが家の場合、一日ダラダラと過ごす。朝から晩までダラダラしているわけではなくて、午前11時頃、近くに住む義弟も一緒に、家族そろって顔を合わせて新年の挨拶をし、お酒を交わすのである。一杯入ったら、もうあとはいい気分でおせちと雑煮を食べながら、気のすむまで飲んで午後まで過ごす。
夜まで同じ料理を出しっぱなしというわけにもいかないので、午後1時頃、とりあえず片付ける。大人達は酔っぱらいだからその辺でゴロゴロしている。本格的に寝てしまうのもいる。誰も相手にしてくれないので、子ども達は勝手に騒いで遊んでいる。そのうちに飽きてきて、「外に行きたい」などと言い出す。親もゴロゴロしているのに飽きてきて、子どもを連れて近所の神社に初詣に行くことにする。これには義弟が同行する年もある。
毎年、同じ神社に同じ時間帯に初詣に出かけ、あまりの混雑ぶりに辟易して帰るのをくり返しているのだから、頭が悪いのかも知れない。しかしすでに恒例行事となっているのだ。いたしかたない。子ども達は、希望通り外へ連れて行ってもらって満足したのか、少し大人しくなり、おみくじなど見せあっている。
まだ夕飯には早い時間だ。子ども達におやつをやることにする。その頃であろうか、夫と義弟が立ち上がり、「ちょっと行ってくる」と二人で出かけてしまったのは。子ども達が「一緒に行く」と騒ぐが、そういうわけにはいかない。お父さん達は「鬼ヶ島に鬼退治に行くんだ」「やっつけてくるからな」と意味不明な言葉を残して行ってしまったのだった。
鬼ヶ島はだいたい駅前にある。門はたたかなくても自動で開く。向かう鬼は赤や青の原色で、銀の玉を打っても打ってもどんどん吸い込んでしまう。そしてあまり返さない。「ちょっと行ってくる」の「ちょっと」は例外なく長引く。鬼はなかなか退治できないのであろう。
いや、昨年は、義弟が「おたくの旦那さんね、何か調子よくてまだまだやめないみたいだから、遅くなります」と電話をくれたのだった。桃太郎は鬼の大将を相手に、好戦しているらしい。しかし、いくら待っても帰ってこない。もう夕飯の時間はとっくに過ぎて、子ども達がお腹を空かしてグズり始めている。もう少しもう少しと待たせていると、再び義弟から電話。
「えーと、すみません。まだかかるんで、先に食べててください」
元日から家族ばらばらの食事を取るというので、父は機嫌が悪い。そこへ桃太郎が帰ってくる。宝物をどっさり持って帰ってきたのだから、めでたしめでたしのはずだが、「遅い!」「何で早く切り上げないんだ」と家族のブーイングにあう。現実はきびしい。
夕飯もあいかわらずおせちと雑煮である。大人達はやっぱり気のすむまで飲んで、いい気分になっている。子ども達は勝手に遊んでいる。やがて夜も更け、小さい子は眠さのあまりゲラゲラ笑ったりするようになってくる。誰も風呂に入れてやろうとは言わず、さっさとパジャマに着替えさせて布団に入れる。そこで子ども達の元日は終了である。せっかくだから、寝る前に「今日は楽しかったねえ〜」などと盛り上げてみる。「何が?」と切り替えされたりするのだが。
大人達は、子ども達が寝たのをいいことに、もうひと遊びする。今度は桃太郎同士の名誉をかけて将棋盤の上で闘うのだ。誰からともなく「一局やろうか」と始まる。まったく桃太郎ときたら一日遊びっぱなしである。まあ、年中そうだと問題だが、元日だけだから大目に見てやろうではないか。
その点、姫君はいつもと変わらず忙しい。たしかにおせちは出すだけだが、食べてなくなった食材は詰め直さなくてはいけないし、雑煮はつくらなければならないし、お酒の用意はしなければならない。それに、食べた後の食器は正月だからといって、自然にはきれいにならないのだ。台所に立つ時間は、普段とあまり変わらないくらいである。だから夜には、対局の勝敗もどうでもよくなって寝てしまったのだった。
さて、今年の元日はいかに。(2004.12.29)
33.パンダちゃん
大阪で生まれ育ったわたしが、東京へ居を移したのは小学1年生のときであった。転校手続に手間取り、登校しないまま学校は冬休みに入ってしまった。歳の離れた姉は、すでに嫁いで遠方におり、家には両親とわたしの3人だけ。当然ながら友達もなく、どこかへ遊びに行くアテもない。大人しい子どもだったので、それほど苦痛でもなかったと思うが、大人の目にはかわいそうに見えたのではないだろうか。
父は求職中の身の上で、ほぼ毎日ブラブラと過ごしていた。家にばかりいると母の機嫌が悪くなったのであろう、よく時間つぶしにパチンコ屋へ出かけた。同じく時間をもてあましている娘のわたしを連れて行くことも多かった。
昔のパチンコ屋は、今ほど洗練されていなくて、いかにも労働者風のおっさん達が、タバコの煙をモクモクと吐きながら台に向かっているという、どう考えても子どもには向かない場所であった。それでも父親のそばにいれば怖くもないし、色とりどりの台が派手に音を立ててチューリップを開いたりするのがおもしろくて、飽きずに見ていた。たまに父が玉を少し分けてくれて、隣の台で打ってみたりする。長いときは2時間、3時間と夕方までパチンコ屋にいた。
当たると父はタバコと引き替え、残りはわたしの好きなものを選ばせてくれた。
あるとき、景品の棚に、可愛いパンダのぬいぐるみが座っていた。わたしはそれが欲しくて、父に取ってくれとせがんだ。そうして「パンダちゃん」はわが家へやって来ることとなったのだ。「パンダちゃん」は、全長20センチほどの、どこにでもあるパンダのぬいぐるみである。両手両足をピンと前に付きだして、お座りができるようになっている。2等身の大きな頭が愛らしい。他にオモチャがなかったせいか、わたしはその「パンダちゃん」がいたく気に入り、片時も離さず、どこへ行くにも連れて歩いた。それを見た母が、持ちやすいようにと、頭のてっぺんに糸で持ち手をつけてくれたので、ハンドバッグのようにブランとさげてお出かけするのが恒例となった。
年が明けて正月となった。なぜか父が「川崎大師にお参りに行く」と言い出して、わたし達は川崎へと出かけることになった。もちろん「パンダちゃん」も連れて。
大阪から来たばかりなのだから、正月の川崎大師がどのくらい混んでいるか予想できなかったのは仕方がない。それにしても、すさまじい混みようであった。参道はかなり広いが、それが人という人で埋め尽くされている。一度列に加わってしまったら、もう後戻りはできない。チューブの中の歯磨き粉と同じで、人に挟まれたままゆるゆると前へ進むのを辛抱強く待つしかないのである。
「おい、子どもの手を離すなよ!」
父は、わたしと手をつないでいる母に言った。小さい子どもは大人の中に埋まってしまい、すぐにも姿が見えなくなりそうであった。わたしの方もはぐれまいと必死に母についていき、ようやくのことでお参りを済ませたときには3人ともヘトヘトだった。
やっと人の列から抜けて、一息ついて帰ろうとして驚いた。
「パンダちゃん」がいない!
わたしの右手が握っていたのは、「パンダちゃん」の頭に付いていた糸だけだったのである。
ありがたい大師さまを拝んだというのに、子どもはビービー泣き出すし、父は「お前がしっかり持っとらんからじゃ!」と怒鳴り出すし、母は困って、「人がいっぱいでちゃんとお参りができなかったから、『パンダちゃん』が代わりにお参りに行ってくれたのよ」となぐさめる。そんなことを言われても、余計に悲しくなるばかりで、わたしはいつまでも泣き止まないのであった。
それからしばらくたった頃、大好きな「パンダちゃん」をなくしてがっかりしているわたしを不憫に思ったのか、父が言った。
「もう1回パチンコで取ってきてやるから」
そしてパチンコ屋でどれくらい奮闘したのかは知らないが、帰ってきた父が持っていたのは、確かにパンダのぬいぐるみだった。が、お座り型の「パンダちゃん」とは違って、両手両足をピンと下へのばして直立不動の姿勢をとっている。顔も、くそ真面目な感じで可愛くない。「違うじゃないの」と母も言うが、パチンコ屋の景品が入れ替えられていて、これしかなかったのだ。
「こんなの『パンダちゃん』じゃな〜い!!」
せっかく苦心して取ってきたぬいぐるみを投げ捨てて、やっぱり娘は泣き続けるのであった。
(2005.1.24)
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