
| 34.アレルギー 夫は花粉症である。ここ数年のことだが、毎年春先になると、突然くしゃみ、鼻水が頻発する。 先日も、一日中やたら「ハックション」をくり返し、やたらとうるさかった。仕事をしようにも数秒ごとに鼻をかまなければいけないので忙しい。大丈夫かと顔を見れば目が充血して真っ赤である。同居の父は「具合が悪いのか、風邪か」と心配していたが、なに、翌朝の新聞にはしっかと「スギ花粉、飛沫ピークに」の記事が。 花粉症など季節が限定されているのだから、症状が出る前に耳鼻科で薬をもらっておけばいいのだ。中には飲むと眠くなる薬もあるが、それが嫌なら点鼻薬と点眼薬だけでも症状はかなり抑えられるだろう。ところが夫は病院なぞ行かない。なぜなら「この世に花粉症なる病気は存在しない」が彼の持論であるからだ。 夫は「花粉症」と「乗り物酔い」は気の迷いであって病気ではないと主張するのである。「乗り物酔い」はわたしの十八番。かつて九州へ向かうフェリーの中でどんなだったか書いているので参考にしていただきたい。(9.去年の夏休み-その2-大移動・船中編) 「花粉症」は、スギの花粉に対するアレルギーだ。アレルギーというのは、特定の刺激物質に対する過剰な免疫反応のことだ。何をかくそうアレルギーに関しては、わたしの方が元祖である。アレルギー性鼻炎、アレルギー性結膜炎、喘息、緑内障と歳をとるにつれてアレルギーが起因する病気になっている。5〜6年前に大学病院でアレルゲンのテストをしたところ、主な原因は「ハウスダスト」と出た。これは花粉とちがって年がら年中どこにでもある。わが家は特に多いであろう。「完治は無理」と、このとき悟った。 わたしだけでなはい、アトピー性皮膚炎、食べ物アレルギー、化学物質過敏症とアレルギー性の病気は今や現代社会に蔓延している。これは、体の中に寄生虫がいなくなったためだという説がある。昔は、体の中のアレルギーを引き起こす要素を寄生虫が吸収してくれて、人々はアレルギーに悩むことはなかったという。嫌われ者の寄生虫にも存在価値があったというわけか。ただ本当かどうか、試しに虫の卵を飲む勇気はわたしにはない。 アレルギーが嫌だからといって、寄生虫がいた頃の生活にはもう戻れない。文明は、ひたすら前へ前へと進むしかないのである。いや、文明なんて大層なものではない、我々の「便利なもの」に対する慣れ、怠惰、怠慢と呼ぶべきもの。それが夜通し煌々と点く明かり、24時間営業のコンビニやスーパーに象徴されているような気がする。 瀕死の病人がいて今すぐナメタケが食べたいなどと言われたら、いつでも買いに行けるコンビニは役に立つ。だけど、夜中の2時、3時に緊急に必要なものが世に中にどれほどあるだろうか。消費エネルギー量が明るさで表示される地球儀を見たとき、日本は輪郭がわからないほど明るく光っていた。なくなってはいけないものがなくなっていき、なくてもいいものがどんどん増えていくばかり。 などと夜更けにパソコンで書きつつ、帰宅前の夫の携帯に「パンと卵を買ってきて」とメールを打つ。うーむ、便利だ。ダメだなあ、まったく。 「追記:テッシュペーパーも。耳鼻科に行きなさいヨ」(2005.2.27) 35.今週のアナタの運勢は 「占い」がブームらしい。ここ数年、あまり雑誌もテレビもゆっくり見ていないのだが、それでも「占い」関係の本や番組が目につく。このようなブームは、ある一定の間隔をおいてくり返される。「占い」がブームのときは、経済だとか世界状況だとかが不安定で、人々がよりどころを求めているときだという。 かつて「占い」好きは、若い女性の専売特許だった。女性雑誌は売り上げが落ちると「占い」特集を組むのだそうだ。するとその号は売り上げがグーンと伸びる。若い女性の関心事は「彼とアナタの相性は」とか「今年のラッキーカラーでモテモテに」などに集中しており、「人生いかに生きるべきか」などの重いテーマはない。 その昔、若い女性だったわたしが「占い」特集号を買ったかどうかというと、それは、もう、買った買った買いまくった。「今年の秋の着こなしアイテム」など素通りだったが、「占い」特集と見ると放ってはおけない。編集部の思うつぼ。こういう企画モノは季節の節目には必ず出るので、複数の出版社から出ることが多く、わたしは何冊も買い込んで、アッチの雑誌にはこう書いてあった、コッチの雑誌にはこう、そうなの、ナルホドそうだったのねえ〜、などと満足感にひたるのであった。 そのうえ、読んだことの内容を、女友達に電話で報告したりしていたのだから、昔はそうとうヒマだったんだな。女友達の方だって、黙って聞いているわけはない。ひとしきり聞くふりをしたら、今度は自分の番である。電話はいつまでも終わらなかった。 姓名判断に凝ったこともある。あの野末陳平の「姓名判断」なる本を繰って、家族はもちろん、友人知人の名前まで調べまくり、「あの人は意外と隠れた才がある」とか「やっぱりあの人は頑固者なのね」とか、ひとりで楽しんでいた。けれども、著者本人も「占いはほどほどに。あそび半分にやるのがいい」と書いているように、あまり「占い」の結果は真に受けない方がよろしい。知り合いのある女性は、結婚して姓がかわり、どこも文句のない吉数だらけのラッキーな名前になった。さぞや絶好調だろうと思いきや、話によると、体調を崩して入院もすれば、愚痴だってあるし、いいことずくめというわけでもなさそう。 普通に暮らしていれば、運のいいときもあれば悪いときもある。自分にとって都合のいいことばかり起きて欲しいが、そうでないことの方が多いもの。それを、嫌なことは避けて、いつもいつもいい運にしよう、得をしようという心が「占い」を流行らせるのではないか。誰かに「大丈夫」と言ってもらって安全な方を選びたい、自信がないから決められない。 この世の中に、絶対に大丈夫なものなんかあるわけがない。誰だって自信なんかない。だけど、みんながんばっているのだ。努力しているのだ。それが人間というもの、人生というものだ。と、そこまでわかっていながら、なぜわたしは「今週の運勢」が気になってしまうのだろうか。 いつ申し込んだのかも忘れてしまったが、週に一度、わたしのメールアドレスに「今週の運勢」のメルマガが来る。読んで運勢が悪いと嫌な気持ちになる。本当にこの歳になって情けないことだが、「調子に乗ってひとこと多いと、親しい人に悪意を持たれるかも」などと書いてあろうものなら、いつもは長いママ友達とのおしゃべりも早々に切り上げる。電話も用件のみ。余計なことは言わないように、悪意を持たれないように用心しているので、オドオドしてちょっと挙動不審にちかい。冷静に考えてみれば「調子に乗ってひとこと多い」と嫌われるのは当たり前ではないか。 読まなければ気にならないのだから、メルマガを開かないか、配信停止にしてしまえばいい。なのに、わたしにはそれが出来ない。毎週欠かさず見てしまう。ああ、これではやめたいのにやめられない、夫の禁煙と互角である。「占い」依存症という新しい病気ではなかろうか。禁煙パッチのように「禁占」パッチといのはないかしら。 わたしの今週の運勢は、すこぶるいい。人間関係も、金運も、仕事運も、すべてバッチリ。悪いときも嫌だが、こういうときも嫌なのだ。毎日「今日こそ、何か素晴らしいことが起こるにちがいない」と期待しているのに何も起こらない。100万円プレゼントに当選したという知らせもない、いつの間にかウェストが5センチ縮んだりもしていない、ヨン様からの(まちがい)電話もない。いつも通り家事・育児に追われて日が暮れていく。無事これ幸運と思えということか、いや、しかし、だけど…、今週のワタシ、どこがどういいのか、誰か教えて。(2005.3.28) |