
| 38.漫画 かつてわたしは漫画が大好きな子どもだった。字の本も読むが、漫画もよく読んだ。わたしが小学生高学年から高校生くらいのころは、少年誌が元気な時代で、「週間チャンピオン」で手塚治虫が「ブラックジャック」を連載したりしていた。少女漫画では、「キャンディ・キャンディ」の連載が。それらをリアルタイムで読んでいたのだから、歳がバレるというものである。 ひとりっ子で育ったおかげで、わりに早くから自分の部屋というのがあって、そこには当然ながら漫画がたくさんあった。友達は、遊びに来ては黙々と漫画を読み、夕方、読み切れなかった漫画を借りて帰るのが定番だった。 今では、電車の中できちんとネクタイをしめたビジネスマンが漫画を読んでいたって珍しくもないが、わたしが子どものころは、漫画は子どもが娯楽に読むものだった。教育上よろしくないと言われているのは今も同じだ。わたしの両親も特に漫画が好きなのを喜んでいたわけではない。一度にたくさんは買ってもらえないし、「漫画ばかり読んで!」と小言をくらうのはいつものことだった。 大人になったら、好きな漫画をいっぱい買って、休みの日には一日中、漫画を読んで過ごしたい。わたしは子どものころ、何度もそう思った。 で、今現在、わたしは大人であるが、休みの日に漫画を読んで過ごせるかというと、まったくそんな時間はない。そもそも休みの日などない。仕事のない日はあっても、家事・育児のない日はない。生活費に余計なものを買う余裕もない。何とか漫画を買えたとしても、お母さんが子どもを放ったらかしにして漫画を読みふけっているのは、どうも体裁が悪いし、万一子どもに見つかったら、普段「漫画なんて読んでないで宿題しなさい!」と怒鳴っている手前、立場がないのだ。どうしても読むのは夜、子どもが寝ている間に限られる。しかし、翌朝また早く起きなければならないのはわかっているというのに、漫画のために連日睡眠時間を削っていいものか。他にやることはないのか。 そのうえ、わが夫は漫画を読まない人である。いくら世代がちがうとはいえ、夫の子どものころにも漫画はたくさんあっただろう。しかし、夫の父は息子が漫画を読むことを許さなかった。漫画ご法度の令を出したのだ。親がそう言ったところで、読む子は読むだろうけれども、夫は素直に従ったらしい。そして漫画を読まずに成長し、友達の漫画を借りて読んでも、不慣れなために読み方がよくわからず、「面白くなかった」そうだ。将棋好きなので、今までに、将棋漫画を少し読んだことがあるという。その程度である。そんな夫の手前もあって、わたしはますます漫画から遠ざかっている。 同じバス停を使う、幼稚園のお友達の家で、かつて夢中で読んだ漫画が揃っているのを見た。「貸してあげるよ」と言ってくださって、どんなにか借りて行きたいと思ったのだが、それを借りてしまったら、わたしはきっと他のことは何もしないで、全部読み終わるまで動かないであろう。家事や育児もそっちのけ、仕事もしないかもしれない。いや、いかん、借りてはいかん。わたしも大人になったものである、誘惑にうち勝ち、「一日中漫画を読んで過ごす」のは老後の楽しみに取っておくことに成功した。 今のわたしがそれをするには、もはや入院くらいしか考えられない。昔、2ヶ月くらい入院したときには、暇でしょうがないから毎日とっかえひっかえ漫画を読んでいた。病気はともかく、あれはよかったなあ。掃除も炊事もしなくていいし、三食昼寝付きとは、まさにあのこと。病院とか入院とか、考えただけでも嫌だという人もいるが、わたしはその点、入院患者に向いている。一日何もしないで寝転がってダラダラ過ごすのが平気なのだ。就寝時間がやたら早いのをのぞけば、別につらくも何ともない。「入院が得意です」と言って、自慢なるとも思えないが。 幼稚園のバスを待ちながら、お母さん同士で「ああ、たまには漫画喫茶で一日過ごしてみたいわね」「お茶飲みながら漫画読み放題」「いいよねー」という会話があった。わたし達がおばあさんになるまで漫画喫茶がありますように。(2005.6.28) 39.音楽会の星 長男がピアノのコンクールに出ることになった。 予選が近づくにつれて、目の色をかえているのは本人ではなく、まわりの大人達である。先生は本来ならレッスンのない日でも特別に長男のために時間を割いてくださる。母は、すぐに虫かごを首から提げてアミを持って「虫取り」に出かけようとする息子をピアノの前に座らせるべく奮闘している。彼にとってピアノの練習は、一応日課として認識しているものの、優先順位はものすごく低いのである。たとえそれがコンクールの1週間前だろうが3日前だろうが。 世に中には、ピアノが好きで好きで、習いたくてしかたがなくて、親にせがんでレッスンに通わせてもらい、嬉々として練習に励んでいる…という子どももいるらしい。それにひきかえうちの子は、とはわたしは言うまい。わたし自身、昔、アマチュアのビオラ弾きとしてオーケストラなぞに参加しているころ、どんなにか練習が嫌いだったか、それを思うと、その遺伝子を受け継いだらしい息子に、すまないとさえ思うのだ。 息子は、もし父が音楽家でなかったら、今頃はサッカーかスイミングか英語塾などに通っていることだろう。しかし現実には、宿命的に、ものごころついた頃からピアノとつき合っているのである。 そして、この父が、息子のピアノを教えるときの恐ろしさといったらない。 何しろ実の息子なのだ。なんの躊躇も遠慮もない。いくら怒鳴ろうが罵倒しようが、文句を言ってくる親だっていない。本人は、コラムの中で「ベートーヴェンのおやじ」と独白している(おやじのココロ2-「ピアノ」)が、わたしは「音楽界の星一徹」と呼んでいる。 「何だ、それは! まるでなってない! ふざけるな!!」 「ちがう! はじめからやり直せ! 出来るまで休むな!」 「やる気があるのかッ!!」 とセリフまで似ている。ピアノという一見優雅で文化の香ただようジャンルでありながら、練習風景はまるで「スポ根」。野球の「100本ノック」に対抗するように、「ここからここまで100回くり返し弾け」などと言う。ピアノってスポーツだったんだなあ。そういえば、指揮者だってかなりの肉体労働だし。肉離れもすれば筋肉痛も激しいしなあ。 だけどスポーツと芸術の境目って何だろう。 例えば、女子の新体操や、音楽とともに踊るフィギュアスケートなどは、非常に高い技術と芸術性が求められるが、なぜ「芸術」ではなく「スポーツ」なのか。同じく肉体を使うバレエはなぜ「芸術」で、「スポーツ」ではないのか。ゴルフやボウリング、射撃なんていうのは跳んだり走ったりもしないけど、「スポーツ」といえるのか。 もと陸上選手で国体出場の経験を持つ父に聞いてみる。 「スポーツの定義とは?」 答えは、 「人が絡んで、優劣を競うもの」 だそうだ。したがって、いくら馬が走ろうとも、上に騎手が乗っているかぎり、競馬だってスポーツだ。 「じゃあ、皇居のまわりを走っている人とかひとりでストレッチとかしてる人は? ああいうのはスポーツとは言わないの?」と問えば、 「あれは“運動”をしている」 なるほど。優劣を競ってないからね。大変わかりやすい答えである。 この定義に沿って考えると、女子の新体操やフィギュアスケートはスポーツでよいし、バレエは鑑賞するもので、スポーツではない。 だが、バレエもコンクールとなると、優劣を競うのであるから、スポーツとなる。声楽やその他の楽器も、演奏会はスポーツではないが、この定義によるならばコンクールはスポーツである。もちろんピアノのコンクールもだ。だから「スポ根」になってしまうのは仕方がないことなのね。 今日も、「音楽界の星一徹」は息子の指導に余念がない。そのうちふたりで夜空を見上げて「あの星をつかむのだ」と叫ぶのではないだろうか。 わたしはといえば、「息子よ、がんばって」と心でつぶやき、台所の柱の陰からそうっと見守っている。「明子ねえちゃん」のように。(2005.7.30) |