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42.個人情報の流出なのだ
長男が小学生になり、学校が終わってから、友達の家に遊びに行っていいかと言うようになった。「だって遊びに来いって言ってたもん」しかし、そう言ってたのは小学生なのだから、やはり事前におうちの方にも許可をいただかないと…、そこでわたしは困ってしまうのである。
長男の通っている小学校には住所録がない。クラスの緊急連絡網というのならあるが、それも自分の名前がある列のみ電話番号が載っているだけだ。35人もいるクラスの、ほんの4〜5人しかわからない。たまたま同じ列の子と遊びたいと言ってくれれば何とかなるが、それ以外となると連絡のしようがないのだ。枝をたどって何人ものおたくに電話をかければわかるのかも知れないが、大変に勇気と根性が要る。長男には近所の友達と遊んでもらうことにしよう。
学校だけではない、次男の通う幼稚園でも同じである。数年前まで住所録があり、知りたいおうちの住所や電話番号はすぐわかって、母親同士連絡もとれたし、年賀状の宛先に困ることもなかった。長い休みの間には、先生の自宅にあてて子どもがハガキを出したりもした。
だが、今年はない。なぜなら「個人情報の流出をふせぐ」ためだという。「個人情報の流出」! 今や知らない人はいないであろうこのフレーズ。どこの誰が言い出したのか知らないが、おかげで子どもを友達の家にやるのもひと苦労だ。子どもはよくまちがえて友達のノートやプリントなどを持って帰ってしまうが、住所録さえあれば、すぐにお宅に電話をして事情を説明できるのに、いったん学校へ電話をして担任の先生に頼んで連絡をとってもらうか、電話番号を教えてもらうかしなければならないのだ。夜おそく発覚した場合はアウトである。
かくも住所録がないと不便であるのにもかかわらず、今後もつくらない方針らしい。よく、有名私立学校の住所録は高く売れるのだとか、住所録を元に悪徳業者が売り込みに来るとかいう話をされる。実際、電話に出た子どもに学校の住所録を読み上げさせるという事件があったらしい。わたしだって、この全世界に公開されてるネット上でわざわざ住所と電話番号をさらけ出そうとは思わない。だが、しかし、もし誰かが本気で調べれば、そんなものはすぐに調べられるだろうという確信はある。
だいたい、みんな宅配便を頼むとき、堂々と「名前・住所・電話番号」を書いているではないか。誰かに見られたらどうするの?手紙やハガキのリターン住所、懸賞応募ハガキ、写真付きの年賀状…、それだって、どこで誰が見るかわからないんだよ?どうして住所録は危険で、それらは安全と思うの?それから電話やメールだって、どこかで誰かが傍受していないってなぜわかる?そう信じ込んでいるだけかも知れないではないか。
こうして疑い始めればキリがない。どうしても誰にも名前も住所も電話番号も知られたくなかったら、いっそなくしてしまう以外に手はないと思われる。職を捨て、家を捨て、携帯電話も捨て、ホームレスとなり、必要なときには偽名を名乗るのである。悪徳業者からの売り込みも来ない。安心である。
そもそも「個人情報」とは何を指しているのか。はじめは「カード類の暗証番号、ID番号、パスワード」等、他人に知られたらいけないもの、大事なものの鍵となる情報であったと思う。それが次第に広範囲になり「DNA情報」だの「病歴」なども「個人情報」だと言われるようになり、あッだったら「血液型」とか「誕生日」もそうなんじゃない?などと騒ぎ出し、「職歴」や「家族構成」そうそう「家系図」とか。「交友録」はちがうかな?とむやみに「個人情報」を増やしていったのではないだろうか。
ここらで、はじめに「個人情報の流出」と言い出した人に、責任を取って「個人情報とは何か」をハッキリさせて欲しい。この頃は、わかったようなわからないような曖昧な言い方が多くて大変に困る。ハッキリと「コレとコレとコレが個人情報というものです。流出しないよう慎重に扱いましょう。その他のものは、知られたくない人は隠し、そうでもない人は成り行き任せにしていいです」と言ってくれればいいのに。ついでに「流出」しないようにするにはどうすればいいかも教えていただきたい。
しかし、この一連の風潮は、要するに「自分に関することを、断りなく勝手に他人に知られるのは、気分がよくない」というだけの話なんだと思う。実害があるなしに関わらず。だって、女性のスリーサイズなんて究極の「個人情報」のはずなのに、エステの広告を見よ。名前に年齢、職業はもちろんのこと、身長・体重・スリーサイズ、しかも何キロやせたかも載っている。写真入りで! それも使用前・使用後みたいな水着の!
「個人情報の流出」どころか、進んで公表しちゃっているのだ。もしこれが知り合いだったとしたら、会ったときどういう顔していいか困るというものだ。もしこれが自分だったら、ほとぼりがさめるまで外に出ないであろう。いやいや、もしかしたら痩せた姿を見せびらかしたくて意味なく街を闊歩してるかも。そのときは、どうぞ暖かい目で見守っていてください。…痩せたらだけどね。(2005.12.14)
43.食器洗い機
わたしは、今すこし迷っている。食器洗い機、通称「食洗機」をくださるという話があるのだ。子どもの友達のお宅が、間もなく引っ越しされるのだが、新しい家には備え付けの食洗機があるので、現在使っているものは不要になるそうだ。まだ充分使えるからいかがですか、という話である。
迷うことなどないではないか、素直に感謝していただいておけばよい、と思うのが普通である。何しろ食洗機さえあれば、食事のたびに出る汚れた食器を、洗わなくていいのだ。うちのように家族の人数が多いと、食器の数も多い。できる限り流しにためないようにしているが、たまに1回洗い損ねると、次にはすごいことになってしまう。
なのに、何を迷っているのかというと、理由は2つ。
実はわたしは食器洗いがそう嫌いではない。山のように積み重なっていても、お湯をジャージャー流しながらひとつひとつ洗っていくと、やがてスッキリきれいになり、食器はまるで風呂上がりみたいな顔で水切りカゴの中にいる。気持ちがいい。それからもう1つは、「そこまで機械まかせにしてしまっていいのか」という非常にアナログチックな思想。それだけだ。
3年くらい前に、風呂釜が壊れてしまい、新しい機種に取り替えた。新しいのは、温度設定もできるし、自動でちょうどいい量のお湯を溜めてくれる。それまでは、沸かしすぎて熱湯にしたり、溜めすぎて洪水にしたりは日常茶飯事。そんな失敗もなくなり、大変便利になったのだが、そのころ幼稚園だった長男の、唯一のお手伝い「風呂の湯の溜め具合を見る」がなくなってしまった。夕方の忙しい時間に長男に頼むと、何度も居間と風呂場を行き来して「もう少し!」などと一生懸命に報告してくれたものだ。子どもの手伝いは、たいていありがた迷惑なのが多いが、これは本当にありがたい手伝いだった。今は風呂釜が「もうすぐお風呂が沸きます」と親切にも音声で教えてくれる。
同居している父が子どものころは、両親とも暗くなるまで畑で働いているので、家事は子ども達の仕事だったという。薪割り、水くみ、食事の支度、弟妹の世話、これらすべて兄弟で分担して担っていた。家というものの中で、子ども達は重要な役割を持っていたのだ。それに較べて今の子は、などと言うつもりはない。わたし自身、子どものころ家の仕事など何ひとつしなかったではないか。しかし、だからといって機械が代わりにやったわけでは、もちろんない。
子どもの手伝いのことは、まあ、いい。どうせ食器洗いなんか大きくなったってやりはしない。そうだ、食洗機があれば、食器洗いにかかっていた時間を他のことに使えるのだ。夕飯の後も、さっさと寝る仕度をさせて早く布団に連れていける。食洗機をくださるという奥様いわく「食洗機は『女の人生を変える』と言われているのよ」一日の中で、食器を洗っている時間、1回の食事につき30分として×3=90分、1時間半。これが自分のものになるのだ。いいじゃないの。
ところが、わたしはこの「人生を変える」という言葉を、まったく別の機会に目にしたのだ。それは、ある発展途上国の記事だった。その乾燥地帯の村では、飲み水を得るために、毎日何キロも瓶を持って歩かねばならず、それは女の仕事なのだそうだ。女は、水を運ぶだけで一日が終わる。生きるために不可欠な労働であり、休みなく続き一生涯終わることがない。だがあるとき井戸が掘られた。もう水くみは要らない。重労働から開放された女性の中には、勉強し、教師になった人もいるという。彼女が言う、
「井戸は、わたしの人生を変えてくれました」
かたや文明国に住み、電車や車で出かけ、ご飯は炊飯器が炊いて、洗濯は洗濯機がやって、蛇口からは水どころかお湯が出る家に住んでいる女性が、である。このうえ食器を機械に洗わせて「人生が変わった」と言っていいものだろうか。食事のあと30分ずつ休憩が増えるだけなのではないか。
それのどこが悪い。30分あれば新聞や本を読んだりできるし、ネットオークションなどで小銭をかせぐ主婦もいるらしい。好きに使える時間は多い方がいいに決まってる。だけど、そんな母の姿を見て、子どもは「お手伝いしよう」という気持ちになるだろうか。昔の母は偉かった。たとえ寝る間を削っても、家のため子のために働いた。しかし、家事というものは際限がない。どこかで短縮しなければ、まとまった時間はつくれない…わたしの迷いは続く。
ちょっと家族の意見も聞いてみよう。えーと、大正生まれの父はというと、
「食器洗い機なんぞ主婦の怠慢だ」
昔の殿方はこれだから。じゃあ、現代人の夫はというと、
「そんなもん、要らないよ」
わかった。アナタがたの意見はよーくわかりました。
食洗機、いただきます。(2006.3.30)
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