ノブコです!
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ちょっとおもろい、つれづれ話

50.週末はオーケストラ

 昨年、縁あって地元の市民オーケストラに入団させていただいた。6月の演奏会に向けて、ブラームスの交響曲を練習中である。子どもが小さいため毎週は出られないが、何とかやりくりして練習に出るようにしている。同じ子育て中のお母さまからは「子どもが3人もいて、そのうえオーケストラの練習に行くなんて、えらいわねえ」とお褒めいただくこともある。よほど勤勉に見えるのであろうか。実際には、ただ練習に出たいだけなのだ。

 高校2年で管弦楽部に入部、それ以来ビオラ一筋である。要するにビオラしかできないという意味であるが。なぜ2年になって入部したかというと、こういうわけだ。高校に入学したら漫研に入ろうと決めていたわたしは、首尾良く漫研に入部した。2年になって間もなく、管弦学部所属の友人から、その定期演奏会に誘われた。別の友人と聴きに行ったところ、大感激。わたしではなく同行した友人が、だ。一緒に管弦楽部に入ろうと言うのでつき合いで入部。小柄だった彼女がバイオリン、背が高いという理由でわたしがビオラに決まったのである。

 オケで他の団員の方に聞いても、今の楽器を始めたきっかけなんていうのは、大体が些細な場合が多い。ともかくわたしとビオラのつき合いも16歳から××年、長いものである。高校卒業後は先輩に誘われて市民オケに入団、それから「週末はオーケストラ」という生活がごく当たり前のこととなった。だから第2子出産後、オケから離れてしまったのが、特殊な出来事なのだといえる。

 自分でも、なぜ多少の無理をしてでも続けるのか、と不思議に思う日もある。正直言って、わたしはクラシックマニアでもないし、楽器をさらうのがさほど好きでもないし、地元の文化を活性化させたいと使命感に燃えているわけでもない。思うに、ひとことで言ってレクリエーションなのである。

 たとえば毎日家事と育児に追われている主婦が、週末は数人で集まってカラオケボックスへ行って、夜中まで歌いまくる…これはストレス発散になりそうではないか。しかも不倫の歌なんかを情感たっぷりに歌うと、不倫の疑似体験になるのだそうだ。身も心もテレサ・テンになりきって歌い、もちろん不倫相手はヨン様なんかにして、陶酔する。それなら実際に不倫して家庭崩壊する危機もないわけである。この近所にヨン様がいるか、とか、その体型で不倫ができるのか、とか細かいことは考慮にいれない。そうして週末リフレッシュして、また雑多な日常生活に立ち向かうのである。

 ま、市民オケもそんなようなもんである。あくまでもわたしの場合は、と断っておこう。高尚な思考と意志でいらっしゃってる方がおられるであろうから。

 昔、都内のアマオケに所属しているころ、NHK交響楽団のビオラ奏者・小野冨士先生の弦パート練習に参加した。先生の話はたいへんおもしろく、有意義なものだった。あるとき伴奏を受け持つビオラ以下のパートだけ弾かせてみてから先生はこうおっしゃった。

「みなさん! アナタがたが伴奏しているのは、自分たちのアマオケのバイオリンパートだということを忘れてください。どこでもいいですから世界で最高のオーケストラの奏でるメロディを伴奏するのだと思いなさい。いいですか、ここは公民館の練習室ではありません! 超一流のオーケストラホールです」

 直後に弾いた伴奏は、これが同じ人が出した音だろうかと思うほど変わった。スポーツ選手は試合の前にはイメージトレーニングをするというけれど、その気になるというのは大事なことなのだ。人間のイマジネーションの力はすごいものである。

 たとえ市民オケの練習でも、その気になれば、ヨーロッパの殿堂でシャンデリアの下で演奏しているのだと思い込めるのだ。しかも曲はブラームス。幾重にも透明な絵の具を塗り重ねたような深い深い色彩、魂を揺さぶるようなメロディ…がうちのCDからは流れる。

 ところで、オーケストラの場合、アマチュアであっても演奏に使う楽譜はプロのそれと同じである。ここ難しいからハショリましょう、とか、16分音符じゃなくて8分音符でいいです、などということはない。素人だろうが何だろうが、ウィーンフィルやベルリンフィルと同じ楽譜で演奏するのである。考えてみると、おこがましいというか畏れ多いというか。

 ではでは、週末はオーケストラへ。どんな音が出ようとも、心はヨーロッパ。行ったことはないんだけど、たぶんヨーロッパ。ちょっとブラームスと不倫しに。
(2007.3.10)



51.ワタシ英語ワカリマセーン

 某著名な作家が台本を書き、某有名な俳優がナレーションをしている、あの英語教材。大きな新聞広告がたびたび載るので、みなさん一度は目にしているであろう。CDを聞くだけで、英語の成績がぐんぐんのびたとか、英検に楽々受かったとか、夢のような話が載っている。しかも、どんな勉強をしても身につかなかった人が、この教材のおかげで、英語がわかるようになったという! しかし、この教材でもダメな人間が、ここにいるのだ。

 はじめはワクワクしてCDを聞き始めた。なるほど効果音なども優れているし、きっとおもしろい話なのだろう。だが、いくら聞いてもわからない。わからないものをいつまで聞いていても、やっぱりわからない。対訳が付いているのだが、なるべく見ないようにと書いてある。ほどなくCDを聞くのをやめた。

 わたしは学生時代、そう勉強ができなかったわけではない。テストはいつも最低でも平均点は取っていた。もっとも高校に入ったとたん、数学がチンプンカンプンになったけれども。人間、不得手もあれば、得手もある。わたしは、運動がからきしダメ、針仕事ができないが、漫画のセリフを暗記するのが得意だし、スパゲティは人よりたくさん食べられる。でも、英語は不得手の領域にあるらしい。

 ちなみに、夫は音楽家であるからドイツ語、イタリア語が少々できる。英語もそこそこできるようだ。80歳のわたしの父は、かつて中国は満州にいたことがあり、中国語とロシア語ができる。欧州などでは、子どもでも2〜3カ国語を話せるのは珍しくないという。英語ひとつ身につかないわたしには、考えられないことである。同じ人間なのに、どこがどうちがうのであろう。

 今どき英語くらいしゃべれなくてどうする、という考えが強かったわたしは、あきらめられず、デザイン事務所に勤めながら、英会話スクールに行くことにした。これには父がかなり反対したのであるが、くじけず、入学金や学費などを少ない給料からやりくりして、通い始めた。後に、父は当時を振り返って、

「幾らか知らんが、ドブに捨てたようなもんだな」

 と、よく言ったものだ。

 まったくだ。ここでも英語は少しも身につかなかった。「習うより慣れろ」の方針で、スクールでは先生はほとんど英語で授業をする。欧米人の先生もたくさんいる。授業についていくためには、ある程度の予習が必要である。はじめは緊張して予習をして行ったのだが、たとえ予習しようがどうしようが、先生が何を言っているのかがさっぱりわからないのだ。一生懸命にわからない言葉を聞き取ろうとすると、疲れる。疲れると、聞き取ろうとする努力が薄れる。頭がボウッとしてきて、まわりに飛び交う英会話はみな雑音か音楽のようになってしまう。

 英会話スクールは、学期半ばで中退した。

 やっとわかった。わたしには英語に限らず、外国語を理解したり話したりする回路が、頭の中にないのだ。

 夫によると、知らない言語を聞き取る「耳」が、どのくらいよいかが分かれ目らしい。そういえば、わたしは「耳」からの情報には反応が鈍い。人の話もよく聞いてなくて、わかったふりして適当にうなずいていることが、しばしばある。トンチンカンな受け答えをして、後で恥ずかしくなることも、よくある。耳鼻科で、聞こえる音の範囲が一般より狭いと言われたことがあるが、たぶん耳そのものの機能は、そう大きな要因ではないような気がする。つまり、そういう性質の人間なのだという他はない。

 知り合いで、学生時代は英語がさほど得意でなかったが、仕事の関係でアメリカに住むことになり、必要に迫られて話せるようになった、という方がいる。せっぱつまれば、必死で覚えるのかも知れない。

 しかし、わたしはなぜあんなにも英語がしゃべれるようになりたかったのか、今となっては不明である。英語ができれば才女に見えると信じていたのだろうか。もちろん何ごとも、できないより、できる方がよい。それはそうなのだが、できないものは、できないのである。努力すれば何でもできる…わけではない。

 冒頭の英語教材のCDは、往生際悪く1年ダラダラと取り続け、全12巻そろってしまった。家の片隅に眠ることウン十年、最近になって、子どもの友達のお母さんにお貸ししたところ、それをきっかけに、たいへん英会話に興味を持ち、ご主人と一緒にラジオ講座や小説の原本を読むなどして勉強を続けているという。お役に立てて、うれしいです。(2007.3.30)

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