たくちゃんとお母さん



 1、自由な姿勢で聞いてください

 皆さんこんにちは。
(生徒、大声で「こんにちはー」と応える)
 ありがとう。そうやって返事を返してもらうと嬉しいですね。なるべくコミュニケーションを取りながらお話を進められたらいいなと思いますのでよろしくお願いします。
 私は電気ストーブなどを用意していただいて暖かいですけれども皆さんはそこに座っていてお尻が冷たくないかな。それから同じ姿勢で40分間もいると疲れたりするかもしれませんから、どうぞ自由な姿勢で聞いてください。足を伸ばしてもいいと私は思います。この学校の先生は同じ姿勢でずーっと聞きなさいとは言ってないと思いますけれども、足を伸ばしたりあぐらをかいたりしてもいいですから、ともかく心を通じあわせましょう。
 そしてできれば話の途中で「そうだなー」と思ったら「うんうん」と頷いたり、「えっ、そんなことあるの?」思ったら首をかしげたりしてもかまいませんから、そういう反応をいただきながらお話できたら嬉しいなあと思います。

 2、自己紹介

 ご紹介いただきましたように私は54年前に神保原中学校を卒業しました。中学校を卒業して本当はお友達と同じように地元の高等学校に行きたかったのですけれども、その当時は私は松葉杖をついていましたが、高校では入学を認めてくれませんでした。ですから仕方なし1年間家で過ごしました。友達はみんな朝になると私の家の裏の道を自転車で元気に高等学校に行くときに私はどこにも行くところがなくて一人で家におりました。

 でもそのうち高等学校の通信教育があることを知り、当時通信教育は始まって間もなくでしたが、その勉強をしながら1年間を過ごしました。そしてその翌年に私立の高等学校、新島学園高等学校というところに行きました。そこは私を「いいですよー、私の学校で勉強してください」と言って迎えてくれました。

 その高等学校で3年間勉強して今度は大学を受けました。それも近くの国立大学でしたが、そこでも実験が無理だからとか就職は難しいでしょうとか言って入学を許されませんでしたのでまた1年間家で浪人生活をしたんです。それから東京に行って東京教育大学というところに入りました。大学に在学中に足の手術のために1年間大学を休みましたので3年間遅れて就職しました。順調にいくと22歳で卒業しますから60歳の定年まで学校の先生は38年間できるのですけれども私はそういうわけで35年間の教師の生活をしたわけです。

 でも私は近くの県立高校に入れなかったり国立大学に入れなかったですが、遠回りだったけれども私のいちばんいい大学に入れたなと思っています。人の進路というのはどういうところで一番いい道が与えられるか予想できないもんですね。

 3、友達と一緒だったたくちゃん

 今日は私が教師生活の終わりの頃に出会ったたくちゃんのお話、それからそのお母さんのお話をしたいと思います。
 最初に2、3分ですけれども少しビデオを見てください。車椅子に乗ったたくちゃんがサッカーをしているところです。それから見学している人の中には私とたくちゃんのお母さんもいらっしゃいます。
 (ビデオ上映)

 今見ていただいた車椅子の少年がたくちゃんです。下○○拓△君といいます。たくちゃんはサッカー大好き少年でした。東京F・M・Cゴールデンファイターズというチームに所属しておりまして全国大会にもときどき行きました。先日電動車椅子の国際大会が日本で行われましたけれどもそれだけこれは認められたスポーツになっています。

 今見ていただいたようにたくちゃんは電動車いすにいつも乗っていました。学校で勉強するときにも家に帰って買い物に行くときにも、あるいは学校の遠足や修学旅行に行く時にもこれに乗って行きました。たくちゃんは自分ではこういうふうに(車イスを手で漕いで動かす)車椅子を漕げません。手で動かすことができません。ですから電動車いすに乗っていたんですね。

 今見ていただいたのは中学生になった時のたくちゃんです。多分中学2年生の時のたくちゃんだと思います。でもね、たくちゃんは初めから電動車いすに乗っていたんではありませんでした。保育園のころは自分で歩いて行くことができました。だんだんと歩くのは大変になりまして小学校2年生の頃になるとこのような手でこぐ車椅子に乗るようになったそうです。でもたくちゃんにはお友達がたくさんおりまして朝はたくちゃんの家に迎えに来てくれました。そして車椅子を押して学校まで一緒に行きました。

 私のことを少しここで話します。中学生になるとカバンが重くなりますね。教科書をたくさん詰めますし、教科書も厚いですから。その時は近くのお友達が私の家に寄ってくれてその重いカバンを背負って学校まで行ってくれました。

 たくちゃんも友達に誘われていっしょに学校に行ったんです。終わってからもまた友達がたくちゃんの家まで送ってくれたそうです。
 だんだんと上級生なりますと今度はホームルームが学校の上の階になりますね。たくちゃんの学校は3階建てだったそうですがそうするとエレベータがなかったですから上るのが大変です。どうしたかと言うと学校の先生方がたくちゃんのクラスだけは1階におろしてくださってそこをホームルームとしてくださったということです。そういうことで学校生活を続けていたんですね。

 ですからたくちゃんは車椅子でなければ学校生活ができなくなっていましたが、でも学校が教室を代えるとかお友達が助けてくれるとか、そういうふうにして困っている人に合わせた環境が用意されればそこで障害をもっている者も学校生活が続けられるし生活がしていけるんですね。
 困っている人に「あなた頑張りなさいよ、努力して上りなさいよ」と言うだけではなくて周りが困ってる人に合わせていけば、社会が変わったり、人が変っていけばみんないっしょに生活できるということが分かりますね。

 たくちゃんがいることによって友達が車椅子の押し方を覚え、たくちゃんを助ける方法を覚え、こうしてお友達も変っていったわけです。車椅子の人に接して車椅子を押してみたりするとそのことによって自分が変っていくんですね。
 このようにしてみんなが生きられる世界を作っていく、そのことをノーマライゼーションと言います。ノーマライゼーションというのはみんな同じ人間として社会で一緒に生きていくっていうことですね。これからいろいろな人がいろいろなところで一緒に生きていける、そんな社会ができていったらいいなあと思います。

 4、たくちゃんとキャンプ

 ところでたくちゃんは体も大きくなってきましたし、またたくちゃんの病気の性質から力がだんだん出なくなってきました。そしてとうとう皆さんのような学校では大変だということで私の勤めていた学校に転校して来ることになりました。そして中学の3年間は私がたくちゃんのクラスの担任をいたしました。

 私が皆さんのクラスの担任になると言ったら皆さんはどう思いますか。お母さんたちは「松葉杖の先生が担任して大丈夫?」と思うでしょうか。心配するでしょうかね。そう思うでしょうねぇ。でもね、私はたくちゃんの学級担任を3年間やりましたよ。

 この3年間のことで話すことは沢山ありますがその中から学校行事のキャンプのことをお話ししようと思います。
 たくちゃんは中学部に来た時にはもう鉛筆をこういうふうに、皆さんの持つように持って書くことができなくなっていました。手の指のあいだに鉛筆をはさんで手のひらを上に向けてこうやってかすかに動かすだけでした。ですから字がとても薄かったです。
 それからたくちゃんが手を動かす範囲というのは先ほどのビデオで見ていただいたかもしれませんけれども車椅子にこれくらいのテーブルがつけられているのですね。その上に教科書を載せたりノートを載せたりして勉強するんですけれどもそのテーブルの範囲内だけで動くという状態でした。

 このたくちゃんと私たちはキャンプに行きました。皆さんも校外学習でキャンプに行くことがあるでしょう。私たちはキャンプ場は山梨県の山中湖まで行きました。
 キャンプに行くと皆さんがとても楽しみにしているキャンプファイヤーとか、肝試しとか飯ごう炊飯などがありますね。

 それからキャンプは2泊しました。2晩キャンプ場に泊まるわけです。ですからこの間にはお風呂にも入りますし朝の洗面もありますしそれから着替えなどもありますね。そういうことを全部キャンプでは体験しなくてはなりません。
 たくちゃんはいったいぼくはそんなところに行って大丈夫かなと心配だったそうです。怪我でもしたらどうしようかなぁと心配をしていました。後で書いた作文にこんなふうに書いてますよ。
「ぼくの場合介助することが多いので先生に介助してもらうのがすごく不安でした。特に1年生の時は初めてということもあって先生にしっかり介助してもらえるかとか怪我でもしたらどうしようかと不安ばかりでキャンプファイヤーが楽しみとか飯ごう炊飯が楽しみとかということは頭の中にありませんでした。」
 こういうふうに作文に書いていますね。

 でも「介助の方は全く問題なしに楽しいキャンプを送り不安は消えました」とキャンプが終わってからの作文には書きました。
 なぜでしょうか。それはですね先生方がどうやってたくちゃんを介助したらいいかをよーくお母さんに聞いてそれを実行したんですね。

 たとえば寝返りです。みなさんは寝ているときに何回寝返りをするかということを気にすることはないと思いますけれどもたくちゃんは自分で寝返りができません。そうすると体のある一定の部分ばかりに負担がかかって体が疲れてしまいますね。
 キャンプに行った先生方は、私が担任をしているたくちゃんでしたが私ができませんから、いっしょに行った先生方が分担してね、12時には誰がたくちゃんの寝返りをしてあげよう、1時には誰が行こう、と相談をして順番にたくちゃんのところに行ってたくちゃんの寝返りをさせてあげたんです。

 それからたとえばトイレに入るときにもたくちゃんの首は弱くてこのように後に倒れてしまったら自分で起こすことができません。ですから首をしっかり支えるものを用意してそして便器の上に移してあげる、そういうこともしっかり先生方はお母さんに教わっていって介助したんですね。その結果何の問題もなくキャンプが終わりました。

 私が、担任がそれを全部できればいいですけれども私ができないために(私ができることは私がしましたけどね)多くの先生方の助け合いの輪がそこで生まれたんですね。私とかたくちゃんとかという弱いところを持つ人、困難を抱えている人、その人がいるとそこに助け合い、協調、そういう新しい世界が誕生するんです。
 ですから何もできない人がいるということは大事なんですね。いいですか、そういう人は価値がないというふうに決めてしまったら新しい世界は生まれません。新しい世界が誕生する、その世界を持って来る人は悲しみを抱えている人、困難を抱えている人、そういう人なんですね。  そういうわけでキャンプも3年間の学校生活も無事にたくちゃんは終えることができました。

 5、たくちゃんと電動車いす

 私は最初にたくちゃんのことをサッカー大好き少年と言いましたけれどもサッカーをする上で大事な役割を果たしたのがたくちゃんの電動車いすです。たくちゃんは5年生の時に電動車いすに出会ったのですがそれはたくちゃんの生活を大きく変えることになりました。たくちゃんはこんなことを言ってます。「今までの車椅子では自由に行きたいところに行くことができません。だから誰かに押して連れていってもらいました。人に押してもらうのはいやだなあ。車椅子をこぐことができなかった小学5年生のころのぼくはそう思うことが日に日に増えていった。」たくちゃんはそう書いています。「その理由は自由ではないからだ。行きたい場所に行きたくてもわざわざ人に頼まなくてはならないからだ。そのせいかそのころぼくは家にいることが多かった」こういうふうにたくちゃんは作文に書きました。

 その時に電動車いすに出会ったのですね。今度はどこにでも自由にいける。たくちゃんは電動車いすを作ってよかったって喜んだんですね。「ぼくの性格や人生を変えた出会い」、そういうふうに電動車いすとの出会いを言っていますよ。少し大袈裟に聞こえるかもしれませんけれどもたくちゃんにはそれくらい大事なことだったんですね。

 皆さんは歩けることは当たり前と思っているかもしれませんが、歩けない人にとっては電動車いすで動けるというだけでも「これはぼくの性格や人生を変えるものになるんだ」というふうに思えるんです。ですから自由に動ける体が与えられていることの意味はとても大きいですね。
 たくちゃんはまたこういうふうにも言っています。電動車いすで自由に動けるようになって「これによってぼくは自由を手に入れた。行きたい場所に簡単に行ける。だから自然と外に出るようになった。そして性格までもが以前よりはずっと明るく前向きになり何事もプラス志向になり友達にも明るくなったと言われるまでになった。明るくなった理由はぼくにはよくわからないがおそらく人というのは他人に何もかもやってもらうのはいやで自分の出来ることは自分でやりたいという願いがあるからだろう。健常者から見るとやってもらう方が楽だと思うかもしれないが自分で何でもできるというのはすごくしあわせなことだと思う。」

 さらにこうも言っていますよ。「電動車いすと出会ったことでサッカーとの出会いがあった。今までスポーツなんて自分には関係なくただ見るだけだと思っていたのに自由に動き回ってサッカーができるなんて夢のようだ。いろいろな面でぼくをよい方向に変えてくれた電動車いすと共に自分の世界をもっともっと広げていきたいです。」
こう書きました。

 たくちゃんはその電動車いすで生活しながら中学ではご両親とか先生とか友達に守られて本当によい中学生活を送りました。それから中学を卒業してから高等部でもサッカーをやっていました。また高等部を卒業してからもサッカーをやって全国に遠征して試合をやっていましたよ。名古屋、大阪、熊本までも出かけて行って電動車椅子サッカー大会に参加しておりました。「私は生涯電動車椅子サッカーをやり続けるだろう。サッカーは生活の一部であり、生きる力だ」とたくちゃんは言っていました。

   6、おかあさんの感謝のことば

 たくちゃんはやがて高等部を卒業してパソコンを勉強するための施設に行きました。パソコンを習って家でパソコンで仕事をして自分の生活を立てようと考えたんですね。

 ところがですね、今から7年前、2000年の11月28日、今日ですね。私はこの学校に皆さんにお話をするように頼まれた時にそれはいつですかと佐藤先生にうかがったら28日ですとおっしゃいました。私がこのたくちゃんとお別れした日です。11月28日、たくちゃんは、天国に召されました。(胸が熱くなりしばし言葉が途切れる)ごめんね。大阪のサッカー大会に遠征して帰ってきてから急に亡くなりました。

 私は先生を辞めて田舎に帰って来ていましたけれども12月1日にお別れの式に行きました。そこにはたくちゃんが小学校、中学校の時代に書いた絵とか作文とかその他たくちゃんのいろいろな作品がみんな並べられておりました。たくちゃんはこんなに立派に、立派に生きたよ、こんな立派に21年間の生涯を生きたよということをお母さんたちが多くの人に知って欲しくてそこに紹介しておりました。

 そして最後のお別れだね。たくちゃんが横たわっているところをみんなが菊の花で飾りました。その時、お母さんが菊の花を捧げながら何て言ったか。「たくちゃんありがとう」と言ったんです。「たくちゃんありがとう」と何回もお母さんは言いました。

 たくちゃんのお母さんは子どもの時からお風呂とか食事とかトイレとか移動とかみんな自分の時間を捧げてたくちゃんの世話をしてこられましたね。21歳になっても寝る時にはお母さんはいっしょに寝ていました。先ほど言いましたようにたくちゃんは寝返りができないから夜中に起きて寝返りをさせてあげなければいけないからね。布団も400グラムのものを使っていたと言ってましたよ。すごく軽くないと負担がかかるでしょう。
 そうやって21年間お世話をしてきたたくちゃんが亡くなったときにそのお母さんがたくちゃんにありがとうと言いました。

 なぜでしょうか。ありがとうという言葉はお礼でしょう、何かをいただいたとき皆さんそう言いますね。ありがとうとね。
 一体お母さんはたくちゃんから何をいただいたでしょうか。これは私の想像ですけれどもたくちゃんはサッカーにも普段の勉強にも日常生活も一生懸命生きてきました。その一生懸命生きたそのたくちゃんの素晴らしさ、美しさ、それをお母さんは毎日見ていた。だから、こんな良いものをいただいてありがとう、そういうことだったかもしれません。

 それからきっとお母さんはたくちゃんが皆さんと同じように元気な子だったら知らなかったような世界をたくちゃんと関わることによっていっぱい知らされたと思うんです。最初にお話ししたようにできないことがある人といっしょに生活すると新しいことを沢山教えられますね。その知らなかった世界を教えてくださってありがとう、私は人間としてお母さんとしてあなたのおかげでとてもよいお母さんになれたよ、よい人になれたと思うよ、たくちゃんありがとうね、そういう思いがよぎったりしてお母さんは涙ながらにたくちゃんに「ありがとう」と言ったのではないかなと私は思います。

 7、手伝うことの大切さ

 ですから私はたくちゃんとお別れするお母さんの姿などを見ていて思うことがあるんですけども、その一つは何かと言うと、どんな人も、どんな子どもも堂々といていいんだよ、体が弱い子も、あるいは勉強ができないといわれる子も、あるいは私のように体が不自由な人も、それからもう働けなくなって介護を受けながらおうちにいる人もみんなみんなそこにいていいんだよ、なぜかというとその子、その人がいることによって看病してあげる人が生まれるでしょう、勉強ができないと言われる人がいるとその勉強を見てあげようという人がそこに生まれるでしょう、歩けない人がいるとおんぶしてあげるということがそこに起こるでしょう、年を取って歩くことが不自由になるとそこに手を引いてあげるという人がそこに生まれるでしょう、それは美しいことではないですか。新しいことがそこに生まれてくる、ですからどんな人でもそこにいていい、世の中にはその人はいてはいけないなどという人は誰もいない、そういうこと私はたくちゃんとおかあさんから教えられるんです。

 もう1つ、看病するとか勉強を手伝うとかおんぶするとか手を引くということは、その人のためにやってあげるという気がするでしょう。ところがそれだけじゃないんだね。たとえば皆さんが病気になるとお母さんは看病してくれるでしょう。そうするとお母さんはあなた達のために看病するけれども看病しながらお母さんはまたお母さんになっていくんです。わかるかな。お母さんは子どもを産んだらもうお母さんというわけではないですね。その子どものお世話をすることによってお母さんになっていくんです。

 学校の先生も先生の免許証をもらって学校に来たらもう先生になったのではないのですね。みんなの勉強をお手伝いすることによって先生は先生になっていくのです。もっといい先生になっていくの。ですからわからないことがあったら、先生に尋ねるということはみんなのためだけではないんだよ、先生のためになるんだよ。

 8、自分を認める

 それからもう一つ、今まで話したことは皆さんに直接関係ないことのように思えたかもしれない、ぼくに関係ない、そう思った人もいるかもしれません。ところがですね、あなたたち自身の中にも例えば嫌だなあと思うところあるじゃないですか。ないかなぁ。ぼくのこんなところ自信ないなあとか、他人に見られたらいやだなあとか、私のこんな部分捨ててしまいたい、そんな部分はないでしょうか。

 そういう欠点とか嫌なところはあるいは悩んだり悲しんだりすることあるでしょ。先ほど歩けない人、病気の人を世話をする話をしたけど、今度は皆さんが自分自身を世話する、助けるそういうことをしてほしいと私は思うんです。

 自分自身のことで悩むこととか悲しむこととかそれは自分が自分をおんぶしていることなのですよ。さっき言ったようにお母さんが皆さんを世話することによってお母さんらしくなる。先生がいろいろ悩んだり指導して下さることによってもっと立派なよい先生になっていくと言いましたけれども今度は皆さんが自分自身の中の嫌なところとか悩みとか悲しみを引き受けて悩んだり悲しんだりすることは自分をおんぶしていることになるんですね。自分をおんぶしてあげるとより自分らしい素晴らしい自分になっていくんです。ですから皆さんも自分を大事にして自分もいろいろいやな部分を持っているかもしれないけれど、それを捨て去ろうとしないで、それを引き受けておんぶして毎日をこれから生きていってほしいなあと思います。

 9、おわりに

 もう鐘がなりました。そろそろおしまいにしますけれども金子みすゞさんの歌を聴いてくれましたか。(生徒 「はい」とうなずく)ありがとう。

 こんな詩でしたね。
 私が両手をひろげても、お空はちっとも飛べないが、
 飛べる小鳥は私のように、地面(じべた)を速くは走れない。
 私がからだをゆすっても、きれいな音は出ないけど、
 あの鳴る鈴は私のようにたくさんな唄(うた)は知らないよ。
 鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい。

 こういう詩ですね。いい歌だったでしょう。
 この歌を歌っている人は新垣勉さんという方です。この方は盲人の方です。目が不自由で見えない方ですね。  新垣勉さんは小さい赤ちゃんの時に失明してしまいまして、それから両親とも別れてしまって本当にさびしい子どもの時代を過ごした方ですね。今は立派な歌を歌うテノールの歌手になりました。

 その新垣さんがこう言っています。
「私の歌が少しでも皆様の励みや勇気となり、私の歌で人や自分を愛すること、許すこと、そして一人ひとりがかけがえのない存在だと感じていただくことができたら幸いです。人が競い合って(競争しあって)ナンバーワンを目指すのではなくて一人一人の輝きを持ったオンリーワンの人生を大切にしてくれたら」いいと思います、こういうふうに新垣さんは自分のホームページに書いています。(新垣勉official web site [effatamusic]より)

 私もオンリーワンということはとても大切だと思いますけれども、私はオンリーワンになるということよりも、もう皆さんはオンリーワンになっていると言いたいんです。皆さん一人ひとりがいることは他の人と代えることのできないオンリーワンなのです。
 そのオンリーワンであるあなたがたがより豊かなオンリーワンになっていってほしい、友達もそういう思いで生きていることを知りながら自分自身がより豊かなオンリーワンになるように生活してほしいなあと思います。
 そのためにはいろいろな人と関わって、その人と触れ合ってその人の重荷を引き受けたり、不自由を引き受けたりしながら自分も豊かにされていったらいいのではないかなあと思います。
 今日この機会が与えられたことに感謝しながら皆さんにそのことを伝えしたいなあと思います。
 ありがとうございました。

  注 本稿は近くの中学校で人権学習の一環として行った講演を少し書き改めたものです。

 

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