| 第365号 |
| 三つの宝物 その1 |
妻は何でも大切に保存しておく性質である。だから遺品の整理もなかなか進まない。
先日、彼女の日記などが納まっている棚を整理していたら、もうすっかり忘れていた結婚以前の手紙が出てきた。妻が私に宛てたものだ。結婚後のある日、こんなのもらったねと見せたら彼女が読んでしまいこんでおいたに違いない。お陰で今になって貴重なものに接することができた。これを第一の宝物としよう。
ここには妻がキリストを信じる一女性としていかに純真であったかが如実に示されている。民間会社に勤めていた関係上、実社会の裏面は私よりもはるかに熟知していたし、それゆえにまた太っ腹の持ち主でもあったが、男女関係や家庭観、信仰においては多分に妻は倫理的であった。
手紙は私の学校の運動会を見学に来た時、手渡されたものだった。わたしはその夜の宿直だった音楽教師のMさんに「こんなものもらっちゃったよ。どうしようね。」と宿直室で相談したことを思い出す。
二つ目の宝物は婚約式の日の喜びの日記である。教会の友と親兄弟だけの内輪で昭和四十一年一月九日に私たちは婚約式を行った。
日記は式を終えてアパート帰り、一人になったとき私がノートの端に書きとめたものである。
妻の家族は私たちの結婚に皆反対したが最初に折れたのが姉だった。その辺のこともかすかに日記から読める。
もちろん日記の中心は喜びの感情である。信仰的純真さも伺える。こんな日記は今となっては宝物だろう。
最後、三つ目の宝は長男誕生の日の私の日記である。どういう経緯で彼女の保管物になったのかはわからない。
長男は帝王切開で生まれた。その日、私の母と彼女の母が私と一緒に病院に詰めてくれて誕生を見守ったのだった。
この日記にも若き日の私たち二人の姿がうかがえる。四十二年間家庭を一緒に築いてきたその原点ともいえる愛が見えるといってもいい。
あまりにも個人的なことがらの披瀝であるが、宝を磨きあげたご本人が神に召された今、その輝きを心ある人と愛でたいと思う。
第一の宝物 結婚を決断するに至る手紙
今日は楽しい運動会にお招きくださりありがとうございました。この様な日にこのお手紙を渡すのは失礼とは思ったのですが機会があったときにと承知して書いた次第です。
実は私の教会の山口牧師が病気で二ケ月近くも牧会をする事ができずにいた事は前にちょっとお話を致したと思います。九月二十六日の聖日にやっと出て来られ、久しぶりに私達も礼拝説教を聞く事ができました。教会から離れて床にいても背後にある教会員の祈りをおぼえる時に限りない感謝に満たされましたと涙ながらに語られた牧師の言葉に、やはり、クリスチャンでなければ味わう事の出来ないものに強く打たれ、思わず目頭が熱くなりました。
留守中のいろいろな問題を牧師に話した際に詳しくは話しませんでしたが貴方との交際の事を話しました。先日のお手紙の中で貴方は現在と云う時期に自分の将来の可能性を考えていらっしゃると仰っていましたが、私も同じ事、教会の牧師をはじめ、執事やその他の人々の多くの祈りのうちに、私の為に祈られる事が如何に多いかを知る時に、本当に頭が下がります。
年齢的にもそろそろ考えねばならない時期に来て、日々悩まされておりました。周囲の者のすすめるものもやはり、クリスチャンでなければと決断のつかぬままに、ずるずるとなってしまうのですが、日頃考えさせられている事はやはり、どうせ結ばれるのなら、クリスチャンとでなければならないと云う事です。
(注 妻の残した古いアルバムの一ページに友人が教会で結婚式を挙げた写真が貼ってあるのだが、そこにはこんな書き込みが見える。「教会での結婚式はこんなに素晴らしいものとは思ってもみませんでした。私も是非クリスチャンと結ばれたい。」)
今の牧師ははっきり信仰の違う者とは結婚してはいけないとは云いませんが前の牧師はその点はっきりとだめの一言でした。
交際するにしても同じ信仰を持つ者と牧師も心配してくれていますが幸いな事に偶然とは云え貴方とこうして交わる機会が与えられました。やはり神様の導きと云うのでしょうか。自分では別にこれと云った感情で貴方と接していたつもりはないのですが、やはり何か心に触れるものはあったのでしょうね。だんだんと自分の気持ちの動きがわかる様になりました。先日のお手紙をいただいた時に、はっきりとそれがわかりました。でも私は何か恐ろしさが先で、好意としてはっきりと貴方にご返事を書く事が出来ないのです。自分では何とお答えしたらよいのかとまどってしまった感じです。
それであの試験の時のように弱い自分を暴露したのかも知れません。講習会の時に日体大の先生が保育理論の中の家庭建設問題をいろいろの面から話されました。交際から始まって、子どもの良き理解者としての両親の立場等です。その中で真の交際は決して甘いものや、同情心から来るのではなく、誠の心と心とのふれあいであるとおっしゃられましたが、本当にそうだと思いました。
私が貴方と文通を始めてもう二年半がすぎ去りました。先日、はじめていただいたお便りから順に読み返してみましたが、私自身、はじめの手紙の中で、何かはっきりした目的をもって文通を続けたい、幸いにも貴方は子どものための勉強しておられ、私も少なからず重荷を持っていますので、少しずつ私に教えていただけたら幸いですと云うような事を書いたと思います。以来あまり進歩もしませんがきたない字で貴方にお便りを続けてきました。
でも私は決して甘い気持ちで接して来たとは思っていません。むしろ尊敬の念をもって、いつも貴方を見上げて文通を続けてきたつもりですが、貴方は如何でしょうか。私の人格はどうかわかりませんが、貴方の人格に触れたような気持ちです。
話はとびますが、牧師に話した時、私は神様によって二人がひき合わされたのでしたら、私は喜んで自分を捧げたいと申しました。もし、これが御心でないのなら、はっきりと今お別れしますと迄話しましたが貴方は如何ですか。まだ私たちの交際は深くもなく広くもないのですからはっきりと判断をしなければ両方が痛手をこうむる事になります。そうすると今度立直る迄には相当の困難になると思うのです。やはり今と云う時期ははっきりさせておかねばならない問題ではないでしょうか。
ある人に云われたのですが年齢も知らずに交際をするとは非常識だとの事ですが私も別に気にも留めずにいましたがここで知らせたほうがよいと思いますので書いておきます。どう見ても私の方が上になるのではないでしょうか。生年月日は十三年一月九日です。年にくらべて若く見えるとよいのですが、先日も新入生に三十歳位ですかと云われて少々がっかりした位でふけてみえるでしょうか。
いつか牧師に会ってくださいませんか。土曜の午後か日曜の午後等都合のよい時でけっこうです。別に深い話ではなく普通の話として雑談すればよいのですが。如何でしょうか。
長い長い手紙になってしまいました。こんな手紙を読んで大変痛手を被るかもしれませんがお許しください。私自身の心の底をお察しいただけたら幸いです。
ではこの辺で。
神様の豊かな恵みが常に貴方の上に注がれ、ますます信仰が高められます様にお祈りしております。
主にある交わりを心より感謝して。
主の心は主の手のうちにあって
水の流れのようだ
主はみこころのままに
これを導かれる
さようなら