| 第369号 |
| 苦悩に応える主 |
1 教会に連なる幸せ
妻は昨年の7月、3度目のガンを発症しました。2003年に肺ガンが見つかり切除手術、2007年には再び右の肺にガンが見つかりました。この時は、セカンドオピニオンを受けたりして慎重に対応を探しました。その結果手術が妥当だとの結論を得て再び切除したのでした。
ところがこの年の暮れから腰の痛みにさいなまれるようになり、坐骨神経痛の治療をしばらく受けましたが一向によくならず、最後にはトイレから這って出なければならないほどの痛みに襲われたのです。そこで以前入院した病院で診断を受けた結果、ガンが仙骨に転移しているとの宣告を受けました。
病院でその宣告を受けて私は家に帰ってきました。息子夫婦は共働きをしていますので家には誰もおりませんでした。わたしは机に向かうとすぐに神様に祈りをささげました。神様を相手にして向かい合い、妻を助けてください、痛みを取り除いてください、私たちの生活をお守りくださいと祈りました。
私はなぜか独りだという孤独感を感じていませんでした。私には祈る人がいる、私たちを守ってくださっている神様がいるということのしあわせを私はその時強く感じていたのです。
神様に連なる私たちは自分と神様の関係以外にも強い連帯の輪を与えられています。私たちの周囲には、教会には共に祈ってくださる人がたくさんいるからです。そのことの幸いも今回の妻の苦難を通して強く感じさせられた次第です。
妻のガンが教会の兄弟姉妹に知られた日の礼拝後、ある婦人が会堂の中で車イスに座っている私の脇にきて心を篭めて祈ってくださいました。傍らではkさんが私の手をとってくださり、涙を流しながらその祈りを聞いてくださっていました。私はこの祈りが主に聞かれるようにと祈ったことでした。
またある教会の方はこんなこともつぶやいておられました。「奥さんがいちばん教会に奉仕しているのになんでこんな病気になるのかねぇ、神様は不公平ですねぇ」。
この言葉からだけではなく私はそのころからよくヨブ記を読むようになりました。ヨブ記の1章1節にはこう書かれております。
2 ヨブのこと
「ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた(ヨブ記1章1節)」。
その先を少し読んでみます。
「E ある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来た。F 主はサタンに言われた。「お前はどこから来た。」「地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました」とサタンは答えた。G 主はサタンに言われた。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」H サタンは答えた。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。I あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お陰で、彼の家畜はその地に溢れるほどです。J ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」
K 主はサタンに言われた。「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には、手を出すな。」サタンは主のもとから出て行った。
こうしてヨブはサタンによって彼の持ち物である牛、ろばを略奪され、牧童を殺されるんですね。羊も羊飼いも焼け死んでしまいます。その上子息、息女は死ぬという現実に直面します。
ですがいわばヨブ記の序章とも言える1章ではそのような中にあっても「(S )ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。(21)「私は裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」と言って神に従順であった。とヨブ記の書き出しの部分には書かれております。
ところが、「彼には手を出すな」と神がおっしゃっていたにもかかわらずヨブはサタンによって頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病になり、その他さまざまの試みにヨブは直面させられます。そうするとついに彼は「わたしの生まれた日は消えうせよ。・・・その日は闇となれ。」「(3章11節)何故、わたしは母の胎にいるうちに死んでしまわなかったのか。せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか。
(K)何故、膝があってわたしを抱き乳房があって乳を飲ませたのか。」と自らの存在を否定するヨブになってしまったと聖書が告げています。
「(L)それさえなければ、今は黙して伏し、憩いを得て眠りについていたであろうに。」
と神を呪ったのでした。
最初に私たちには祈る方がいて、周囲には祈ってくれる人がいるたくさんいると申しましたけれども、だが、極度の困難に遭遇するとその祈りは絶望の呟きになり、呪いになり、神への恨みに連なってまいります。
しかし、私はそれが神に向かっている呟き、呪い、恨みとかであれば、それはそれでよいのだと妻の闘病を信仰を持って見守るうちに思うようになりました。それでいい、神様に向かって自分の苦しみを投げ出しなさい、思いの丈を吐きなさい、これが大事なのです。言葉は神と向き合うとき神への賛美の言葉としてとらえられていくのです。
この視点から見るとヨブは神様に最後まで向き合ったと思います。
3 神の祝福に生きる
私たちは、神様と真剣に向き合う人を神は祝福する。向かい合うとは誠実に、感謝を持って神に対峙するだけではありません。神さまの胸を叩き、闘いを挑んでもいいのです。私も神様に問いたい。なぜ妻は3度もガンに襲われ、6か月もの間苦しみぬき、家族のこころを動揺させ、そして私の最も必要な人であったのに奪われなければならなかったのですかと。
そのように神に向き合う人、神様に背を向けずに訴えかける人、弱さを持ち、苦しむ人、神は己を頼るそのような人を愛し、祝福を与えるのです。その祝福によって私たちは新たに歩み始めることができるのではないでしょうか。アブラハムを祝福し道を与えたように私たちを新たな道へと導く、それが私たちの信じる神様であろうと思います。
ヤコブの手紙を読みます。ここで試練という言葉がでてきますが、この試練は神さまが与えているものだという理解を持って読みたいと思います。
「1章12節、 試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。(P)良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません。(Q) 御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。」
このようにヤコブの手紙の1節にはございます。
ヤコブの手紙にはまたこう記されています。
「(5章11節)忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います。あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです。」
神さまと肉体ごと向き合った人にヤコブがいます。それを思い出しましたのでここからも聞きましょう。
ヤコブは逃亡先のラバンの家から故郷の兄エソウの許に帰る途上、ヤボクの渡しで神様と闘って股関節を痛めたと創世記にはあります。実は私も最近股関節が脱臼してしまい歩くことができなくなってしまいましたがそれはさて置き、ヤコブは川のほとりで神様と取っ組み合いの格闘をしたわけです。この時からヤコブは格闘の相手にイスラエルという名前を頂き新しい使命のもとに生きるものになっていくわけです。
このように私たちは、私もその1人ですがたくさんの試練を与えられ、私がどうしてそれに会わなければならないのか、なぜ私の必要なものを神様は取り上げてしまうのかと苦悩しつつ、神さまと闘い、神様に訴えていく、その時に神様と格闘したヤコブのように、このヤコブが困難にあった時に闘ったように私たちも困難を素直に受け入れますとは言えませんが、言えなくてもそこで神様を忘れずに神様に訴え、願い、不満を言い、しかし神様に従って生きていく時にヤコブに祝福が与えられたように私たちの上にも祝福が与えられ、新たな道が備えられるのだ、と信じてこれからも信仰の道を歩んでいきたいと思います。
(注)本稿は2009年度「キ障協総会」閉会礼拝の証を加筆、修正したものです。