ユダとペトロ



 西郷隆盛や織田信長などの歴史上の人物をテーマに著書を著し、ドストエフスキーの弟子であることを自認する我が先輩U氏から大略下記のようにまとめられる論文をいただいた。そして、私に感想を書くようにとのことであった。
 以下、寄せられた文章の概略と私の返事を紹介してみたい。

 「ユダを顕彰する」
 2000年来、使徒ユダはキリスト教世界で最悪の存在とされてきた。四福音書はすべて彼を憎み断罪する立場の人の記述である。しかし今、わたしはその福音書を通して、ユダをキリスト教第一の殉教者であり最も尊ばるるべき聖者であると信じて疑わない。
 イエスが祭司長らに捕まったとき、彼の男弟子たちはすべてが逃げ散ったとされる。これは信じられぬほど見苦しい浅ましい姿である。
 イエスが「神の国」だけを求めていることを分かっていた男弟子はユダ一人だけだったのではないか。イエスが「神の国」だけを求めているとすれば、何とかして主に発心させて俗世の斗争に立ち上がらせたいと望んだはずだ。思いつめたあげくユダは自らを犠牲にして、イエスを裏切り彼を追いつめようとしたのではないか。
 実際に生命の危険が迫れば、イエスも必ず武器を取って迫害者を打つだろう。その時あれだけ多くの民衆を引き寄せ奇跡を起こす力を持つ彼が負けるはずはない。自分はペテロらに殺されるかもしれないがそれでもよいと。
 わたしは万感を胸にあい対して立ったイエスとユダの姿を新しい最高の聖画として描きたいと思う。

 U氏への返事
 お手紙ありがとうございました。いつまでもお若く、探求心、創作意欲にみなぎっているお姿に接し、自分の怠惰な日常を反省させられました。お寄せいただいた論文を読み、作家としての先生のお姿に触れた思いがいたします。
 わたしは一信仰者としての立場からお応えするほかありませんので、その立場からの意見を述べさせていただきます。

 聖書は旧約・新約全体を通して神のご計画の実現、成就という心で貫かれています。これは今回先生が取り上げたユダについても例外ではありません。
 イエスがとらわれ、処刑されたこと、ユダの行為(「マタイによる福音書」26章24節)について、聖書には「聖書に書いてある通り」との注釈が随所に挿入されていますが、これは旧約聖書とのつながりを意味しています。そして、イエスは49節においては「友よ、しようとしていることをするがよい」とおっしゃり、自ら受難の道を選ばれたのでした。それは「預言者たちの書いたことが実現するため」(56節)だったのです。

 マタイによる福音書は、ユダヤ教信徒にイエスを証しすることに主眼を置いて書かれた福音書であることを考えると旧約の成就が強調されることはよく分かるのですが、「使徒言行録」においてもユダの行為の理解は同じと言えます。同書1章16節には「ユダについては聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は実現しなければならなかったのです」とあるからです。

 このように見ていると、ユダは神のご計画の中に用いられた人物と申せましょう。面白いことに「使徒言行録」1章17節に「同じ任務」という言葉がありますが、この「任務」は「奉仕」(ディアコニア)だとのこと。
 教会員の私たちは教会でさまざまな奉仕に当たりますが、ユダはユダの奉仕を与えられていたのですね。
 最後にペトロですが、彼は感情的、情動的な人物であったそうで、ある時はイエスに忠誠を誓ったかと思うとまた、イエスを捨てることもしたのです。

 しかし、イエスはペトロを愛して用いられました。「マタイによる福音書」16章18節には「わたしも言っておく。あなたはペトロ(ペトロとは岩の意)、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」とあります。
 先生の非難されるように、十字架を前にして、男弟子たちは皆逃げ去ります。ペトロも確かにその一人だったのですが、イエスは彼らの前にもう一度お姿を現され神の言葉を宣べ伝える任務を与えられたのでした。
 そして、ペトロはやがて異邦人宣教へと赴くのですが、聖書には記されていませんが、イエスの苦しみを負ってついには投獄され、殉教したと考えられています。

 信仰者にとっては自らをどちらの人物に重ねてイエスとの関係を結ぶかということがいつも問われているのですが、これは聖書の人物評価にもかかわってまいります。
 先生のようにユダを顕彰なさるか、弱さ故につまずきながらもその都度イエスに抱き起こされて生きていく道を選び、ペトロに付くか。わたしは後者の人であると自らをとらえ、生きてまいりたいと願う者です。
 以上、お寄せ頂いた玉稿への感想とさせていただきます。

 

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