書の鑑賞は、一般に難しく、わかりにくいと言われています。 そこで、少しでも「書」について理解を深めていただければと思います。
書は、漢字、かな、近代詩文書(調和体)、少字数書、篆刻、刻字、前衛書に分けられています。 私の書は、この分類によれば近代詩文書(調和体)に含まれます。 この近代詩文書は、ひらがな・カタカナ・漢字を混在させて日常一般に使われている語で書かれた詩文を書によって表現しようとするもので、第二次世界大戦以前は「新調和体」と呼ばれていました。 この分野は、昭和
3年「現代詩書道」を唱えた飯島春敬や金子鴎亭の 『書之理論及指導法』(昭和 12年刊)によって広まったと言われています。 しかし、日常の日本語を毛筆で表現するというのはごく自然な方法と言えるのではないでしょうか。
近代の詩文を書くということは、活字化されて一般に自立した詩文を、自らの解釈のもとで毛筆によって創作表現するという課題に挑戦しようとする試みです。 そのため、書体を少しモダンにしたり、さまざまな習字技法を駆使して表現すればよいと思われるかもしれませんが、そうではありません。 題材にしようとする詩文の作者の生きざまや果たした役割、思想、信条、時代背景等々、個人を十分に把握した上で、なおかつ詩の世界と書の世界がつり合わなければなりません。 必要に応じて、近代史や近代思想史も理解しなければならないこともあります。 しかし、ただ単に詩文の作者を理解しただけでは、作者本人でない限りそれ以上のものは決して生まれません。 その詩文の作者を抜け出して解釈してこそ、はじめて発表できる作品として仕上がるのです。 これをクラシック音楽に例えれば、近代詩文書の書家は作曲家が書いた曲をコンサートで演奏する指揮者のようなものとも言えるでしょう。 そのため、石川九楊
(1994) が 『書とはどういう芸術か』 の中で述べているように、「高村光太郎の詩を書いても島崎藤村の詩を書いても同様の表現ということはありえない」ことになります。
このことから、研究者が論文を書いて考え方を述べるのと同じように、書は書体や空間による表現をもって、その詩文を越えた解釈を意図しているのです。 そこで、このホームページでは今後も書を続ける試行の場として
短歌作品集 を設け、自作の短歌を作品にしてみました。
このように言えば、作品の善し悪しは詩歌人の研究者、もしくは詩歌の作者自身でない限り、作品は評価できないことになってしまいます。 また、学校等の習字教育で行われているような「上手く書けている」「下手だ」という教育的評価や、習字技法等の方法論だけで論じられてしまう場合もあります。
しかしここでは、詩歌の作者と詩文の内容を、解釈のもとに表現した創作であることをご理解していただき、書の美と価値を見い出して頂ければ幸いと思います。

【 刻字について 】
このホームページには、刻字の作品があります。 この「刻字」は「刻書」とも言われ、木の板等に文字を鑿(のみ)で刻る書の一分野です。 「刻字」では、刻り方、鑿痕が意味を持っています。 字を刻する歴史は紙が発明されるよりも古く、中国殷の時代に亀の腹甲や獣骨に文字を刻った甲骨文や、金属の器に型を描いて鋳込まれたり彫り込まれた金文、石碑に文字を凹凸に刻った篆書もまた同様のものです。
このような、文字を凹凸にして彫り上げた立体作品は、一見すると平面の紙に筆で書するのと異なるように見られがちです。 確かに、私にとって手にする道具は筆と鑿と異なりますが、表現方法は同じものと考えています。
なぜなら、紙に書いた作品でも、文字の形や大きさ、余白だけでなく、墨の濃淡や滲みによって、絵画のような立体的な遠近感を生み出しているからです。 と同時に、運筆のスピードも表現されています。 ということは、四次元の空間が一枚の紙の中に存在していることになります。
この四次元の空間の中から、運筆のスピードを除いた三次元を実際に彫り上げて、前述の書作と同様に表現したものが「刻字」と考えています。

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