山田 有信(ありのぶ)牧師 リリースノート Ver.1.0β7
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1963年10月31日 |
岩手県盛岡市にて誕生。父山田有利(残念ながらやっぱり牧師)によって有信(ありのぶ)と命名される。10月31日が宗教改革記念日だから、「信仰のみ」の「信」だそうだ。ちなみに「有」は代々つけられているものである。そんなのどうでもいいじゃんと思いながら、我がセガレにも「有宇(ありたか)」と名づけてしまった自分が好きである。 |
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1972年3月まで |
以降約8年間を盛岡市青山町付近で過ごす。市内から見える岩手山の眺めを忘れることはできない。とにかく「ウルトラセブン」の絵をクレヨンで描きまくった。 |
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1972年4月 |
父の転勤にともない広島市に引っ越し。「帰ってきたウルトラマン」が既に放映中であったと思うが、広島に来てみたら盛岡よりも話しが進んでいて何話分かを見そこねてしまい、非常に残念な気がしたものだった。これは記憶違いだろうか。 |
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1972年〜1977年 |
当時放送していたロボットアニメ「マジンガーZ」にはまる。工作用紙とセロハンテープを使って、やたらと合体ロボットやら合体飛行物体を作りまくる。この趣味が当時知り合った友人に多大な影響を与え、その友人はいま人工衛星を造っているらしい(このことは最近になって知った)。 |
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1975年〜 |
小学校5年〜6年の時に担任だった笹村尚志先生のことは忘れることができない。とにかく人気のある先生だったが、生徒に体罰を加える怖い先生でもあった。今では考えられないことだが、教壇に生徒の手をつかせ、黒板用の長い定規を使ってお尻を思いっきりひっぱたくのだ。その後、先生の体罰は問題になったかも知れない。 |
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1976年〜1979年 |
その後は、とにかく田宮模型のリモコン戦車や電動ラジコンカーにはまり散財。この趣味を通し、盛谷一生氏、大神真司氏、高田諭氏らと親交を深める。教会は嫌いだったし、そこへ行く動機は(不純なものも含めて)何もなかった。 |
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1979年〜1982年 |
受験勉強そっちのけで、ひたすら「草野球」の日々を過ごした。メンバーは中学からの友人たちで(高校には友人がいなかった)、チーム名は「アクエリアス」だったと思う。あまり活躍はできなかったが、とにかく楽しかった。この頃、学校の成績は最低だった。たぶんクラスで最下位を争っていたはずだ。「草野球」とチームメイトが僕にとっての救いだったんだと思う。 |
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1982年4月 |
宮城県多賀城市にある東北学院工学部機械工学科に入学。「旭ヶ丘寮」に住むが、秋田出身の同僚との会話が成り立たず、最初のカルチャーショックを受ける。日本は広かった。 |
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1982年8月 |
腰痛のため病院へ行き、血液検査の結果、「すぐに精密検査が必要」と言われた。検査の結果、「筋ジストロフィー(顔面肩甲上腕型)」であることが判明。おそらく中学生の頃すでに発症していたと思われるが、自分にとってはそれが「普通」だったので、体機能的に不自由なところがある理由が判ったという以外、あまり感慨はなかった。真っ先に思ったのは「もう草野球ができないなぁ」ということだった。 |
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19982年冬 |
初めて自分のパソコンを買う(親のすねをかじった)。SHARP社のMZ-2000である。確か、ザイログ社のZ80という8ビットCPUを搭載し、64KBの「広大な」メモリ空間を備えていた。それで何をしたのかと聞かれると、ちょっと困るが、つまらんゲームを作ったり、くだらんCGを描いたり、怪しげなソフトで何を言っているのか判らない「声」を出させていた。唯一実用に耐えたのはボイラーを設計したときの計算ソフトだけ。しかしあまり汎用性はなく、恩恵に浴したのは100人のクラスメートの中で、僕を含めた二人だけであった。だが、設計課題の諸数値を入力するだけで、設計に必要な全数値を出力するという「画期的!」なもので、一度すれば済む計算を何度もやらせては、悦に入っていたのだった。このソフトの開発には、普通に計算書を作成するのと同じくらいの時間はかかったと思う。だから結局、恩恵に浴したと言えるのは一人だけであったのだろうか。でも、もちろんその友人からはバイト代5,000円をせしめた。 |
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1986年4月 |
大学卒業後上京、パソコン道楽を生かして飯も食おうと考え、システム・エンジニアを目指して(株)アイビーエス・データセンターへ入社。だが、初出社の朝、満員電車に揺られながら、なぜか「俺はこの先いったいどうするんだろう」と考え込んでしまった。 |
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1986年10月 |
日本エクス・クロン株式会社設立に伴い同僚たちと共に移籍。何にもわかっちゃいなかったが、仕事は結構楽しかった。 |
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1988年12月 |
この年いっぱいで退社。牧師になる決意をし、東北学院文学部キリスト教学科への学部編入をめざし、第1次浪人生活にはいる。この当時の自分の心境はいまだによく分からない。 |
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1989年4月〜1991年3月 |
無事東北学院文学部キリスト教学科へ編入。以後2年間ひたすら勉学に励む。この頃以上に勉強したことはいまだにない。テレビやパソコンがなくても人は生きて行けるのだと、この時初めて知ったかもしれない。 |
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1991年4月〜1992年3月 |
大学院受験に失敗し、第2次浪人生活にはいる。浪人生活のつらさは、この時初めて体験したが、秋の試験に合格し、それも半年で終わった。残りの半年はひたすら読書と遊びに費やした。 |
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1992年3月 |
大学院入学に伴い、3月26日「京都国際学生の家」・通称「ハウス」に引っ越し、以後3年間をここで過ごす。ここは寮生60人くらいの内、半分が留学生、半分が日本人学生の寮で、当時は男子学生のみが入寮していたが、「レジデント(寮生)」とは別に、男女を問わず、短期滞在の研究生・研究者などの「ゲスト」も滞在していた。とにかく、自分とは違う価値観との遭遇の連続で、楽しくもあり、大変でもあった。一言で言えば「カルチャーショック」ということになるのだろうか。と言っても、基本的に各国の「エリート」たちが多いので、「世界の縮図」と言うには偏りすぎていると思う。ここで体験したことは未だに消化し切れていない。京都で学生生活を送る方にはぜひ住んでみてもらいたいところだが、残念なことに1999年度いっぱいで閉鎖される可能性が高い。 |
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1992年8月 |
パソコンには3年ほどほとんど触らなかったが、研究のために新たにノートパソコン(NEC PC9801NS/T)を購入する。今度は奨学金を費やしてしまった。 |
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1995年4月〜1998年3月 |
大阪市阿倍野区の日本キリスト教団南大阪教会へ赴任。 |
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1998年4月〜 |
高知市内にある日本キリスト教団潮江教会に赴任。 |
《未完》