宗教は必要か
以前、韓国から日本に留学してきた仏教の坊さんに、「先生は宗教を信じていますか」と尋ねられたことがあった。じつはこれは答が難しい。ひとつには、日本語の「宗教」という言葉はいささか改まった特殊な響がある。日本人の過半数は無宗教だというけれど、それは、例えばキリスト教圏でいう無神論とはまったく違う。今はあまりそんなこともないようだけれど、以前は海外で宗教を問われたら、無宗教と答えないで、神道とか仏教とか答えるように、ということが海外旅行の案内書に書かれていた。
ボクが自分が宗教を信じているとか、いないとか、簡単に答えにくいのは、そういう一般論だけでなくて(もちろんそれも関わる)、今日、宗教という問題はもっと微妙なところがあるように思うからだ。韓国などでは、原理原則を重んじるから、はっきりこれこれの宗教(仏教なりキリスト教なり)を信じている、と言い切る人が多い。
だけど、宗教とは何か、信じるとは何か、と改まって問うと、これはなかなか難しい。これは日本だけでなくて、キリスト教が影響力を弱めつつあるヨーロッパの都市などでも同じことが言える。科学が発展し、世俗化が進んだ時代に、いったい宗教は必要なのか。そもそも宗教とは何なのか。
むかし、はじめて大学の教壇に立って宗教学を教えたとき、岸本英夫という人が編集した『世界の宗教』という本をテキストとした(大明堂、1965)。今ではこの本も歴史的使命を果して、時代遅れになってしまったけれど、以前はいろいろな宗教を公平に見渡す教科書がなかったから、とても便利だった。岸本英夫という人は、本書が出るより前に亡くなったが、晩年、ガンと闘いながら、宗教の問題を、特定の宗教の立場を離れて考えなおそうと試み、大きな影響を与えた。
岸本さんはその立場から、「宗教とは、人間生活の究極的な意義を明らかにし、人間の問題の究極的な解決にかかわりをもつと、人々によって信じられているいとなみを中心とした文化現象である」と定義した。この定義は、岸本さんの『宗教学』という本にもっと詳しく論じられている。
この定義のポイントは、神とか絶対者のような言葉を使っていないところにある。それによって、キリスト教を模範としたヨーロッパ的な宗教観と一線を画そうとした。例えば、仏教とかインドの宗教の場合、絶対者のようなものを認めない場合も多い。日本の神様も絶対者とはいえない。
『広辞苑』で「宗教」を引くと、「神または何らかの超越的絶対者、あるいは卑俗なものから分離され禁忌された神聖なものに関する信仰・行事」とするけれど、「超越的絶対者」を持ち出しているところや、「あるいは」で、折衷的に全然違う見方を持ち出していて、あまりいい定義とはいえない。
ボクのパソコンに入っている小学館の百科事典『スーパーニッポニカ』では、「世界には日常の経験によっては証明不可能な秩序が存在し、人間は神あるいは法則という象徴を媒介としてこれを理解し、その秩序を根拠として人間の生活の目標とそれを取り巻く状況の意味と価値が普遍的、永続的に説明できるという信念の体系をいう」( (C)小学館)と定義するけれど、ボクはこの方が好きだ。これは柳川啓一という宗教学者が書いている。
岸本さんと柳川さんの違いは、岸本さんは「究極的」ということを真先に持ち出すのに対して、柳川さんは、それよりも「日常の経験によって証明不可能な秩序」という点に力点を置いていることだ。つまり、非日常的な領域を認め、それが人間の生き方の根本にかかわってくるという認識だ。「究極的」かどうかなんて、なかなか分らないから、柳川さんのように、そんなことは言わないほうがわかりやすいように思う。
菅野覚明『神道の逆襲』(講談社現代新書、2001)は、新鮮な神道論としてお薦めだけれど、そのはじめのほうで、萩原朔太郎の『猫町』という作品を例として神道の構造を説明しているところが好きだ。『猫町』というのは、詩的な短編で、「私」がある田舎町を歩いていたら、急に景色が変わり、猫が町いっぱいにあふれていた、だけど、次の瞬間には、またもとの田舎町に戻っていた、という話だ。似たような話は、例えばつげ義春のマンガなんかにもあるし(ねじ式!)、そのほうがインパクトが強い。こういう話は少女マンガにもよくあるね。最近読んだ柊あおい『バロン・猫の男爵』(読書ノート参照)なんかとてもすてきだ。
ともあれ、朔太郎はこの猫町を「景色の裏側」と解釈する。これはなかなかいい言葉だ。菅野さんは、日本の「カミ」を、「風景としてみずからをあらわしている「裏側」の何ものか」と捉える。これにはボクもほぼ同意するのだけれど、だけど、ボクは神道だけでなくて、宗教というのはそういうものじゃあないかと思う。柳川さんの言葉を使えば、その裏側こそが「日常の経験によって証明不可能な秩序」ということだ。
ボクはあらゆる宗教を説明する学問的な定義などにはあまり興味がない。ボク自身にとっての問題が大事なんだけれど、それはずっと子供の頃から感じていた、この世界が完結していない、という感覚だ。日常の世界には裂け目があって、日常性はその暗くて底の知れない裂け目にずるずる吸い込まれ、解体してしまう、という生理的なこわさだ。
これは個人的な感覚であって、普遍的なものじゃあない。だけど、そういう感覚を共有できる人はいると思う。『猫町』でも、『ねじ式』でも、『バロン・猫の男爵』でも、あるいは宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』でも、さらにはカフカの『変身』でも、みんなみんなその裂け目からのぞいた光景だ。それはたとえファンタジックな装いを凝らしていても、根底においてグロテスクで恐ろしい。
柳川さんの定義で賛成できないのは、それを「秩序」として、あたかも合理的であるかのように見ているところだ。もちろん、それを合理的に説明する宗教も多い。だけど、本当はどんな秩序を想定しても、その秩序を超え出てしまう不可解性がどこまでも付きまとう。オットーという有名な宗教学者は、「聖なるもの」の特徴として「ヌミノーゼ」ということを言った。これはまさに日常性を超えた恐るべきものということだ。
この日常の裂け目はすべての人に共通するもので、裂け目を逃れる人はいない。なぜならば、どんな人でも死ぬし、死こそ非日常の世界への何よりの通路だからだ。だけど、だからといって、すべての人が宗教を必要とするわけではない。その裂け目に気付かない、あるいはまったく気付かないことはないまでも、いわばその裂け目を縫い繕って、現世的・世俗的な秩序で満足できる人もいる。あるいは、戦闘的な無宗教論者のように、あえてそれを現世的な秩序で説明付けようとする立場もある。社会習俗的な宗教で満足して、それ以上裂け目の恐ろしさを感じない人もいる。それはそれでいいと思う。
宗教家や宗教学者の言うように、宗教がすべての人に必要だ、宗教教育がすべての人に必要だ、などとボクは思わない。宗教を必要としない人、唯物論者もいてもいい。宗教の押し付けはすべきじゃあない。もちろん、宗教というものがある、ということは学校で教えておくほうがいい。宗教を必要とする人だっているし、たとえ自分は必要としない人でも、それを必要とする人がいる、ということは知って、その立場を重んじる必要がある。非宗教の押し付けもいけない。
だけど、ともかく裂け目をのぞいてしまった人は、その裂け目の恐怖に対して、何らかの対処ができなければ生きていけない。自ら死を選ぶということは、結局その裂け目に落ち込むということだ。じゃあ、その裂け目に落ちず、それでも生きていけるのはどうしてか。これも感覚の問題だけれど、その裂け目の底を、ただの暗闇でなく、暗闇であると同時に光としてみることができるかどうか、ということだと思う。そこに何か光を感じられれば、生きていける。その光を感じることが宗教だ、とボクは思う。
だから、宗教は自分で任意的に選ぶことはできない。その光は先天的か、あるいは突然与えられるものか、いずれにしても自分でコントロールできるのものではない。もちろん修行によって、それをある程度コントロールしたり、強めたりはできるけれど、その根底をなす感性は、先天的と言ってもいい。スポーツの才能や科学の才能と近いものがある。
というわけで、ボクは宗教というのは自分が能動的に信ずるとか、信じないとかじゃあなくて、否応なくそういう状態に追い込まれるようなものだと思う。それは裂け目を見てしまったという意味で不幸であるけれど、同時にその裂け目を力に変えうるという点で、栄光を与えられたとも言える。宗教はその両義性を担っている。
2002.5.1