ハンドルネーム

 この間、あるMLを抜けたことは孤立を恐れずにに書きました。そのとき、最後になって問題にされたのが、ハンドルネームの可否でした。Nさんという中心になって活動していた人から、ハンドルネームを使うなんて気持ち悪い、という意見が出されたのです。もちろんそれには、ぶんまおはじめハンドルネームを使っているメンバーからすごい反発が出て、けっきょく何人かが抜けることになりました。他人に向かって「気持ち悪い」というのは、相当ひどい差別語です。でも、本人は差別しているなんて、思ってもいないでしょうね。差別というのはそういうもので、されるほうはすごく神経質になって、傷つくけれど、するほうは無邪気で、自分が差別しているなんて思いもしないものです。

 Nさんは平和運動にも積極的に先頭に立つ立派な方で(といって、会ったことはありません)、それほど教条主義的な方ではありません。でも、やっぱりハンドルネームで語らなければならない、というその屈折は分らないんでしょうね。

 ウィリアム・ジェームスという宗教学者は、たしか人間には一度生まれの人と二度生まれの人があるといっていた(と思う)。もっともどういうことだったか忘れたけれど。それはともかく、その言い方で言えば、ひとつ名前の人とふたつ名前の人というのがあるんじゃないかと思います。

 ひとつ名前の人というのは、つまり本名一本で自信をもってやっていける人です。自分はこれこれこういう人間だというアイデンティティをしっかり持って、どこでも胸を張ってそれで通用させる立派な人です。Nさんはそういう人でしょう。自分は正しいのだから、匿名やハンドルネームなんて必要ない、正々堂々と本名で議論しろというわけです。

 ついでに言えば、その本名の上に、さらに肩書きまで必要と考える人もいます。というか、宿主の生きている世界なんて、肩書きがなければ通用しないような世界で、「××大学教授」という肩書きがあってはじめて一人前と認められる。肩書きなしのただの人なんていらない、という差別社会です。

 それは確かに肩書きが必要な場合もある。給料をもらうには、ちゃんと大学の所属をはっきりさせていなければならない。だけど、研究者は研究の内容で勝負すべきで、肩書きで勝負するって問題じゃあないでしょう。

 ボクの知人にとてもすぐれた研究者の方がいますが、彼はもともと登校拒否児で、学歴がない。だから、学歴社会の日本では大学に職を得ることもできない。だから、学界でも認められない、ということになる。最近、ようやくその仕事が一部で認められるようになってきたけれど、一般に肩書きがなくて、いい研究をしている人と、ろくに研究もしていないけれど、肩書きがある人とでは、後のほうがエライと考えられてしまうのだ。

 話がすこしずれてしまったけれど、この前、アメリカのイラク侵略に反対するサイトに賛成表明を出したけれど、そのとき、肩書きまで要求されたのは変だと思った。思ったけれど、そういう非常事態であまりゴネルのもいけないかな、と思って、要求に従った。責任を取る意味で、こういう場合はハンドルネームじゃなくて、本名を要求するのは分るけれど、肩書きを要求するのは、やっぱりおかしいよね。いまだから言うけれど。

 Nさんは、どうも肩書きプラス本名でいつも生きている人らしい。ハンドルネームじゃあ、どういう人かわからないから、議論ができないというのだ。それは知っている人同士で議論するのと、知らない人と議論するのでは、違うということはある。

 でも、人が他人を知るということはどういうことだろう。肩書きと本名が分れば、その人が分るんだろうか。もしかしたら、その逆ということだってあるんじゃあないか。肩書きも取り去り、本名も取り去り、それでも通用する何かがあれば、それこそ本物だともいえるんじゃあないのか。

 宿主は、ある専門の分野では多少は名も知られている。もちろんとても狭い世界で、そんなことを知っている人はごくわずかだけれど。でも、宿主の名前には、これこれの専門家、というレッテルが貼られている。以前、このサイトを始めたころ、ある研究会で、ぶんまお的な話をして、総攻撃を受けたことがある。リベラルで、反体制的と考えられている人の多い会だったけれど、要するにボクに要求されたのは、ボク本人ではなくて、ボクが持っている「専門的」知識の切り売りということだったのだ。

 そのことはボクにとってとてもショックで、逆にボクがホームペ−ジにのめりこむきっかけとなった。結局は肩書き重視で、専門知識の切り売りでしかない学問なんて、一体なんだというのだ。たしかにボクにとって、それが飯のタネだし、きらいな仕事じゃあない。だけど、ボクが本当に言いたいのは、本当に求めたいのはそこじゃあない。そこに入りこまない何か、それを冒険してみたい。それを分ってくれる人がいればいいし、誰もわかってくれなければそれでもいい。ハンドルネームでしかぶつけられないことがある人には、それはそれでしか仕方ないじゃあないか。

 もちろん、ネット社会になる前から、ペンネームというのがあった。夏目漱石は、夏目金之助では書けないことを漱石という名前で書いた。森鴎外なんてのは、いちばんふたつの名前を巧みに使い分けた人で、軍人・役人としては、ずっと森林太郎だった。その肩書きも取り去って、石見の人森林太郎として死にたい、なんて、ずいぶん虫のいい遺書を残した。三島由紀夫が平岡なんとかだった、なんてどうもぴんとこないよね。Nさんはきっと、そういうのも許せないんだろうね。

 ペンネームにくらべて、ハンドルネームはもっと本人を特定しにくい。だれかわからないところで議論するのは、確かにすごく危ない。責任の主体がはっきりしないから、いくらネチケットなんていっても、けっきょくは何でもあり、の無法地帯になってしまう。

 考えてみれば、Nさんの「気持ち悪い」というのも分らないわけじゃあない。Nさんはボクのサイトを見ていないみたいだけれど、きっと見たならば、自殺とセックスとナショナリズムとが、過激で無責任に結びついたのをみて、ますます「気持ちが悪い」というにちがいない。

 じつを言うと、先月、ボクはこれまでHPに書いてきたようなことの一部を、宿主の名前で論文らしく書いてみた。いずれはしなければならないハードルだけれど、かなりのためらいがあった。「論文らしい」体裁で、表社会に出してしまうのがいいのかどうか、それによって本当の毒は消えてしまうんじゃあないか、あるいはそれが人に分ってもらえるのかどうか、今のボクには分らない。

 それでぐったり疲れて、自己嫌悪に陥った。自分でも自分が「気持ち悪く」なってしまった。やっぱりおかしいのかもしれない。それならそれはハンドルネームの世界に閉じ込めておくべきで、表の宿主の世界に出してはいけないんじゃあないか。今も迷っている。

 まあ、その論文、没になるかもしれないけれどね。

 ともかくハンドルネームの世界をボクは大事だと思う。知らない同士がネット心中するなんて、分らない、という人がいる。だけど、知らない人だからできるんじゃあないか。「死にたい」という一点だけ共通すればいいわけで、それ以上、どうして知る必要があるのか。他人を「知る」ことができる、なんてことこそ思い上がった幻想に過ぎないんじゃあないのか。

 まとまりがなくなったけれど、ちょっとボクも混乱しているみたいだ。

2003.7.6

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