倫理はどう成り立つのか
柄谷行人さんの『倫理21』(平凡社、2003)というのを読みました。ある点で、ボクの言いたいことと近いところがありますが、決定的なところで全然違うみたいです。柄谷さんもまた、倫理至上主義です。そしてボクが何よりも反対するのは倫理至上主義です。
柄谷さんは、「道徳という言葉を共同体の規範の意味で使い、倫理という言葉を「自由」という義務に関わる意味で使います」(15頁)。これは普通の用法と逆のようです。「倫」は、ともがらという意味ですから、倫理のほうが共同体の規範の意味で使われるのがふつうだと思います。でも、これはまあいいことにしましょう。
柄谷さんの言う「道徳」を優先させるのはヘーゲルの立場です。それに対して、共同体に縛られない「自由」に立脚した「倫理」をカントの立場に立脚しながら追及しようとします。ヘーゲルの立場とは、もうひとつ別のところでも対立します。ヘーゲル、そしてその継承者であるマルクスにおいては、歴史の必然性ということがいわれます。そこでは、歴史は法則に従って運動するのであり、個人はその必然性に従う以外に道はなく、ただそれを認識するかどうか、ということだけが問題になります。
それに対して、柄谷さんは、カント的立場では、たとえ歴史が必然的であってもかまわない、といいます。「彼のいうアンチテーゼは、一切の自由を認めていないし、テーゼは逆に、自由を認めている。しかも、カントはそれらが両立するというのです。この謎を解く鍵は、カントが美学に関して述べたことにあります。すなわち、括弧に入れることと括弧を外すことです」(73頁)。つまり、必然的な法則性を「括弧」に入れるところに倫理が成り立つというのです。
例えば、どんな犯罪も必然的な理由が考えられます。だからといって、犯罪は必然的だから、犯人に責任がない、ということにはなりません。どれほど必然的であっても責任はあります。それは必然性を「括弧」に入れるところに成り立ちます。「自由は、「自由であれ」という命令(義務)においてのみ存在する。それは、いいかえれば、決定論的な因果性を括弧にいれよ、という命令です」(76頁)。
確かにこれはボクの言っていることと近いようです。例えば、理性の抑制を超えて人を殺してしまうかもしれません。それでも責任を問われるのは当然です。柄谷さんは、その責任のほうを優位におきます。でも、ボクは逆です。それは確かに責任をとらなければならない。しかし、責任を超えて、自分でも制御できない自分に出会ったとき、そのときにはじめて「人の間」としての「人間」を超えた問題に直面するのです。柄谷さんの問題の立て方は逆です。
このことは宗教の扱い方からも知られます。柄谷さんは、「宗教は倫理的である限りにおいて肯定される」(第6章の表題)といいます。「世界宗教は人間の根元的な罪をいいます。それは、ひとが自分には罪がないと思うことを疑わしめるために、そして、そのためにのみ必要です」(114頁)。「罪」という言い方には賛成できませんが、要するに人が自分を理性で制御できるという甘い見方を否定するところに宗教がある、ということでしょう。それは賛成です。
でも、「宗教は、それを、人間の罪深さということによって、すべての人間を許すということになってしまうのです」(114-115頁)といわれると、一体どんな宗教のことを考えているのか、と唖然とします。それは、ごく簡単に「罪」を許してしまう宗教もあるかもしれません。しかし、ピンからキリまである宗教のキリのところですべてを推し量られても困るのです。そんなに簡単に許されないところに宗教の問題があるのです。その点で柄谷さんは認識の甘さを自ら暴露しています。どこまで言っても解決のつかない問題に直面し続けること、そこにこそ宗教の問題があるのです。
柄谷さんはさらに、倫理が成り立つためには「他者」の存在が不可欠だといいます。柄谷さんは、カントの「物自体」とは他者のことだといいます(95頁)。柄谷さんは、その点でアーレントやハーバーマスも不十分であるといいます。彼らはのいう「公共的合意」とは、「共通感覚をもった人々の間での合意」(98頁)であり、したがって、「共通感覚」をもたない「非西洋の他者」を認めていない、というのです。アーレントの場合はどうか分かりませんが、ハーバーマスの場合はかなり当てはまる批判でしょう。
しかし、だからといって、そこから自らの立場を、国家を超えた「世界市民的=パブリック」(99頁)に立てるというのは、あまりに安易ではないでしょうか。柄谷さんが大きく取り上げる戦争責任にしても、「国」を前提にしなければ成り立たないのではないでしょうか。
戦争責任に関して、柄谷さんは東京裁判を取り上げます。そして、それを「勝者が敗者を裁くことでしかない」(145頁)という批判に反対し、それを「国際法の違反に対してなされたもの」(同)として認める。しかし、「東京裁判が非難さるべきなのは、そして、それが「戦勝国」による裁判として見なされうるのは、ここで天皇が免責されたことにあります」(154頁)。天皇の戦争責任の問題は大きなことです。けれども、それだけが東京裁判の問題ではありません。
柄谷さん自身も言うように、「たとえば、アメリカの広島・長崎への原爆投下は、明らかに国際法違反です。それが不問に付されたのに、なぜ日本の南京大虐殺が追及されるのか」(186頁)。これは大きな問題です。ところが、柄谷さんは、「私は、いずれ、アメリカの原爆投下の「責任」が問われる時代が来ると思います」(187頁)といいますが、「いずれ」という悠長さはどういうことでしょうか。アメリカの原爆投下の責任を問うことによってはじめて、日本の南京大逆説に対する中国からの非難を受け止めることができるのです。
柄谷さんは、「私は、いずれ、西洋諸国の植民地主義の責任が問われる時代が来ると思います」(187頁)と、これも「いずれ」の問題にして、自らその責任を問うことをしようとしません。「しかし、それは日本を相対的に免罪することではない」(同)というのは当り前です。逆に、日本の責任を明確にするためには、同時に「西洋諸国の植民地主義の責任」を問わなければならないのです。自己の責任を明確にすることは、同時に他者の責任も同じように問わなければなりません。他者の責任をいい加減にして、自分の責任だけを負うということはありえません。
南京大虐殺にしても、従軍慰安婦にしても、首相の靖国神社参拝にしても、きちんと中国や韓国は日本の責任を追及しています。それによって、日本もその責任に対処する義務が生ずるのです。関係は相互的でなければなりません。一方的に自分の非だけ身に受けて、相手の非には目をつぶるのでは、相互責任になりませんし、相手の不正を許すことになります。これは「人の間」のルールです。
もうひとつ、柄谷さんは「それは非西洋の諸国の人々の怨恨や報復の問題でもない」(同)といいますが、これもおかしいと思います。「報復」はともかく、「怨恨」の思いは簡単に消えるものではありません。恨んでいいんだと思います。自分の生涯を踏みにじられた従軍慰安婦自身が、その思いを表に出すとき、はじめて問題が問題として定立するのです。おさえてもおさえきれない感情は、「人の間」のきれいごとを超えます。それが始めて「人の間」に反映するのです。簡単に消えて水に流せるような「怨恨」でないからこそ問題にしなければ成らないのです。
柄谷さんはまた、「死せる他者とわれわれの関係」(第11章)と、「生まれざる他者への倫理的義務」(第12章)をいいます。これは一見ボクのいっていることに近いようですが、やはり違います。「死せる他者」と関係は確かにあります。しかし、その不可能の上に立つ関係は、決して単純なものではありません。この問題は大きくなるので、いまは略します。
「生まれざる他者」というのはうまいようですが、ちょっとおかしい。「過去の他者」は事実として消せないものです。しかし、「生まれざる他者」は抽象的です。具体的に、誰と誰と指名することができません。「子供たちの世代」とか「孫たちの世代」とかいう形で未来を考えることは出来るでしょう。でも、例えば、千年昔の死者はありえても、千年先の生まれざるものに対して、どれだけの責任があるのか、それほどはっきりしません。柄谷さんの言っていることは、なかなかよさそうに見えて、じつは抽象的でよく分からないのです。
というわけで、だいぶ長くなりましたが、柄谷さんの本を少しばかり批判的に見てみました。ボクの立場からすれば、倫理はどこまでも「人の間」に成り立つもので、その限りでは重要です。でも、それを逸脱するところこそ、倫理以上の問題であり、それによって始めて倫理が裏付けられると思うのです。倫理を最高と考える倫理至上主義は認められません。
たとえ戦争に加わっても責任を果たすべきだ、というのが倫理至上主義であり、責任至上主義です。それに倫理をもって対抗しても、所詮は同じ穴の狢でしかありえません。倫理的な発想を飛び越えるとき、はじめて倫理の次元で見えなかったものが見えてくるのです。
2004.1.19