記憶の倫理

 まえに柄谷行人さんの倫理に対して、かなり強く反対しました(倫理はどう成り立つのか)。所詮、倫理なんていうのはこういうもので、ボクなどには全然おもしろくもなんともないものかと思っていましたら、最近、とんでもなくフィットする本に出会いました。

 じつは英語の本です。ボクは最近外国語の本なんてほとんど読まないんですが、じつはだいぶまえにヒロシマの問題について書いたとき(ヒロシマを考える)のFさんの勧めで、多分読まないだろうと思いながら買っていたものです。アヴィシャイ・マーガリット(Avishai Margalit. マルガリットというのかもしれません)というひとのThe Ethics of Memory(記憶の倫理)という本です(Harvard University Press,2002)。『記憶のエチカ』というのは、以前、日本の哲学者の高橋哲哉さんが書いていますが、必ずしも納得できるわけではありません。でも、このマーガリットの本にはハマリました。200ページちょっとの小さい本ですが、それでも、外国語の、それもややこしい哲学的な本を数日間、他の仕事の間を縫って一生懸命読んだなんて、ずいぶん久しぶりです。おかげで、このところ、小説もマンガも読んでいません。

 著者は、エルサレムのヘブライ大学の教授です。そこから分かるように、ユダヤ人です。彼の家族はパレスチナにいたので免れましたが、ヨーロッパにいた親類はナチによって全滅しました。そうした状況の中で、父親と母親はいつも議論していたということです。母親は、「ユダヤ人はもう回復不能なほど絶滅してしまった。残されたのは、偉大なユダヤ民族の哀れな生き残りだけだ。ユダヤ人の唯一の名誉ある役割は、記憶の共同体を作り、死者を追悼する儀式に灯す蝋燭のように、「魂の蝋燭」となることだ」といい、父親は、それに強く反対して、未来について考える共同体を作らなければならない、と主張していたということです。それが著者の倫理学の源泉です。母親と父親のふたつをどう結びつけることができるか、過去の記憶がどう積極的に未来に結び付けられるのか、著者はそれを根源から問います。

 本書について、いまうまく要約することはできません。もう一度読まないと無理でしょうが、今はその時間がありません。ですから、いくつかのポイントだけあげることにします。もちろん一般的な倫理の問題を扱っていますが、その背景は常にホロコーストの経験をいかに記憶し、それを未来に開けるか、という問題です。

 ユダヤ人で、当然ユダヤ教の常識を著者は持っていますが、宗教に頼ることを否定します。神に頼らないところで、いわば神に替わるものが記憶です。まず、マーガリットは「倫理」(ethics)と「道徳」(morality)を分けます。「倫理」は、両親、友人、恋人、同郷人のような「濃い人間関係」に適用されます。それに対して、「道徳」は「人間的である」という属性(女性である、病気である、等)に裏打ちされた「薄い人間関係」に適用されます。その極限が「人間性」にもとづく「人間」ということになります。

 記憶は何よりも「濃い人間関係」と関わるものです。けれども、「濃い人間関係」に依存する限り、それは限定された範囲でしか通用しないもので、普遍性を持ちません。けれども、「薄い人間関係」になってしまうと、記憶の具体性が薄れてしまいます。どのようにして、倫理を拡張して「記憶の共同体」を確立していくことができるか、ということが課題となります。

 著者は、記憶の根本を形作るのは「感情」であるといいます。事実を記憶することではなく、過去の感情を記憶し、それを想起することが必要です。そのとき、記憶の共同体を作るのは、正の感情ではなく、負の感情のほうが優先します。とりわけ、人間性の陵辱(humiliation)は、記憶のもっとも根本となる感情です。

 ところで、記憶は記憶する人がみないなくなれば消えてしまいます。ホロコーストのように、全員が殺害されるような場で、誰が道徳的な目撃者として、記憶を伝えることができるのでしょうか。これは深刻な問題です。また、記憶し、伝えるために、仲間を裏切るようなことは許されるのでしょうか。あるいは、当事者でない第三者にも証人たる可能性があるのでしょうか。いずれも、ホロコーストという事実をもとに考えると、深刻な問題です。

 本書の最後の章は許しの問題です。宗教に立ち入らずに、あくまで人間の立場で、許しということが考えられるのでしょうか。これも深刻な問題です。著者は、許しとは忘れることではない、といいます。罪は決して忘れられない。しかし、それを乗り越えることはできるし、乗り越えようと努力することはできる、といいます。過去の記憶は消えないし、消してはならない。しかし、常にマイナスの発想をするのではなく、それを乗り越えてプラスの関係に転じようと努力することはできるはずで、それが許しなのだ、というのです。

 ホロコーストという過去を、宗教に逃げずに、あくまで人間の倫理=道徳の問題として受け止め、それを記憶として継承しながら、しかもどのようにプラスに転ずることができるのか。著者は、まさしくその両親から受け継いだ問題に正面から、そして苦しみの底から立ち向かいます。

 それはユダヤ人の問題であって、我々には関係ない、といえるでしょうか。ホロコーストはもっとも極限的な状況でしたが、それと近い問題は、いつも我々自身が直面しています。いま日本でも問題になっている被害者と加害者の関係も、決してこの問題を離れていません。戦争との関係でいえば、やはりヒロシマ・ナガサキは、まさしくどのように記憶していくか、という問題に直面していますし、南京大虐殺や従軍慰安婦問題で、アジアの記憶から告発されています。

 この本は、柄谷行人さんの倫理と正反対です。言葉自体も、柄谷さんの場合と「倫理」と「道徳」が逆に使われていますが、本書の使い方のほうが普通で、柄谷さんの使い方はおかしいと思います。柄谷さんは、どこまでも感情を含まない理性的、かつ人類普遍の道徳(倫理)を求めようとします。けれども、それはあまりに抽象的で、まったく現実的ではありません。現実の人間は、もっと非合理の衝動で動くものです。マーガリットはそのことを分かっています。感情、あるいは情動がもとにならなければなりませんし、また、そのような感情は、簡単にコントロールできないことです。柄谷さんには、そういう根本的な人間に関する理解が欠けています。

 ボク的にいいますと、実際の行動の規範としては、「倫理」も「道徳」も「人の間」の規範となります。でも、その規範を成り立たせているもとは規範の中からは出てきません。数学的にいえば、公理は体系の中では証明できません。数学的には、証明不可能のものは、そのまま証明不可能でいいのですが、現実の問題は、その公理を支えているのは、体系の中に入りきらない感情なり、何なりの逸脱したところにあります。でも、それをきちんと見極めなければなりません。

 ところで、はたして宗教なしに、記憶の倫理だけで、人は生きていけるのでしょうか。この本の終わりのほうの、証人の問題や許しの問題を読むと、著者の要求は非常に厳しいものがあります。もっともたとえ宗教を認めたとしても、ユダヤ教的な発想は、我々が甘く考える宗教とは大違いで、神の前に立つ人間は厳しく問いただされます。

 その点に関しては、もちろん日本人の考えることなんて甘いのかもしれませんが、それでも自分にあった発想をすべきと思います。ボクは、「死者との共同性」ということに希望の原理を見出すことができるのではないかと思います。死者をもう完全に過去の存在と考え、死によって無に帰したと考える限り、死者の協力はなく、それを生きている人たちが伝えていくという記憶にしか、頼るものはなくなります。でも、もしボクたちが死者とともにあり、死者と協力しながら未来を作っていくことができるならば、ボクたちは死者の助けでもっと強い力を得ることができるのではないでしょうか。

 そして、それは可能だとボクは思います。ヒロシマやナガサキはそのままでは風化します。でも、死者たちが常に新しくボクたちに語り続けるのならば、風化ということはありません。過去を記憶するということは、無に帰したものを、記憶の中だけに留めることではないと思います。そうではなく、無に帰しながらも、無に帰しきれない死者たちの叫びがあるからこそ、死者たちとともに戦っていかなければいけないのではないでしょうか。

 いまボクは、そのような死者との共同性ということ根底に、哲学・倫理学を築きなおすことができるのではないか、と考えるようになっています。

2004.2.29

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