危ない仏教ブーム

 このところ、仏教ブームだそうです。何をもってブームというのかよく分かりませんが、仏教書がよく売れているそうです。今まで忘れられていた宗教に目が向くというのは、以前からそういう方面に関心を持っていたボクなんかにとっては、とても嬉しいことですが、どうも何だかおかしい感じがします。

 金原さんと綿矢さんの芥川賞受賞作が発表されて空前の売れ行きだったという『文藝春秋』3月号に、「仏教入門」という特集が組まれています。芥川賞作家でいまは「仏教入門」の専門家になってしまった玄侑宗久さんとか、浄土真宗の本願寺派の門主大谷光真さんとか、ベストセラー作家(?)になった養老猛司さんとか、石原慎太郎さんまで引っ張り出しての特集は、何だかスター揃いのようですが、なんで「仏教入門なの?」という違和感は拭えません。政治や経済の裏側に鋭く切り込むはずの総合雑誌が、「宗教界の裏を斬る」のではなくて、どうして「入門」を組まなければならないのか、よく分かりません。それも、キリスト教でもなく、神道でもなく、新宗教でもなく、仏教だというのが、いかにもうさん臭いではないですか。まあ、社長さんだとか、経営者なんかには、仏教好きがけっこういるみたいですがね。

 ところで、『現代思想』3月号は「死刑を考える」の特集を組んでいます。オウムの麻原彰晃に死刑判決が下され、他方、酒鬼薔薇事件の元「少年A」が社会に出るなどの中で、ハードな厳罰論が強くなりつつあります。それは、イラク派兵や、拉致問題を看板に北朝鮮への強硬姿勢という政治動向ともつながるものです。その中で、死刑に疑いを持つ、なんて、そんな軟弱な心(ボクもそうですが)は押しやられていくばかりで、旗色が悪そうです。

 その特集号で、鵜飼哲さんと森達也さんが基調となる対談を行なっていますが、ふたりが期せずして、今日の日本の思想状況を語るのに仏教が重要であるという認識に達しているのは、興味深いことです。とりわけ、鵜飼さんの発言には、聞くべきところがあります。

 例えば、鵜飼さんは、「僕自身は仏教的なバックグラウンドは乏しい人間ですが、仏教の日本でのあり方には関心を持っています。いま、仏教的なるものを保守的に語ってきた人達の間でも分裂があります。典型的には河合隼雄と梅原猛の間で、いまの社会の動きに追随するのか、ここで何か言うのかで分岐が出てきている」として、仏教の不殺生を強調する梅原さんを評価しています。時代に強くコミットする発言を続けている鵜飼さんが、現代の思想としての仏教に関心を向け、従来ともすれば保守反動としてしか見られなかった梅原さんに一定の評価を与えているのは、はなはだ注目されることです(ボクは梅原さん大好きです)。それほど、現代の精神状況、思想状況は仏教を抜きにしては語れなくなってきているということでしょう。

 けれども、もう一方では、「死んでお詫びを」のような「ある種の応報観念が仏教的なものと考えられているふしもあります」等と、仏教的なものの中にも反対の動向もあることをも指摘しています。仏教はハードなタカ派のバックボーンともなりうるものです。

 もっとも、それは仏教だけのことではありません。「愛」を説くはずのキリスト教が、ブッシュの強硬論の基盤ですし、「平和」を希求するはずのイスラーム教が、もっとも恐ろしいテロを惹き起こしています。結局宗教というのはそういうものでしょう。

 鵜飼さんが、「仏教と言ってもいろいろな要素があって、どのようにそれを腑分けして考えていったらいいのか」と、問題を提示しているのは大事なことです。それを不問に付して、なし崩しに現状追認へと導く「仏教入門」ほど危険なものはありません。

 けれども、鵜飼さんが、「そうした多様な要素をどのように明るみに出し、そこから何を選びとるのか。それが、将来に向けてやっていかなければいけないことです」と言いながらも、「とはいえ、そのような作業になかなか時間をかけられないようなリズムで、九五年以来、すべての事柄が進んできています。……戦争の仕方、世界の見方、そして死刑の存置の仕方について、現在の日本にはアメリカのほかに準拠するものがない。自分自身の過去や現在無自覚のまま持っているものをつぶさに見直して選択することもできない」と、絶望的に語っているのは、確かにその通りとは思いながらも、それでもやはりその絶望の中で、何とか抵抗しなければいけないのではないか、と思うのです。そして、それは決してできないことではない、とこのごろボクは思います。

 今日、仏教も含めて、伝統をきちんと踏まえなければ、もはや思想は一歩も先には進めなくなっています。欧米から流行の思想の表面だけを持ってきたところで、そんなものは十年もすれば、たちまち忘れ去られ、古本屋で叩き売られるだけです。「自分自身の過去や現在無自覚のまま持っているものをつぶさに見直して」いくことができず、外だけ見て、自分のうちを省みることができなければ、それは思想という名に値しないクズでしかありません。ようやく日本の思想界がそのことに気づくようになってきました。

 でも、それは容易なことではありません。鵜飼さんがいうように、時代のペースはあまりに急速に変わりすぎ、ついていくことさえ困難です。けれども思うのですが、そんな風に、時代を後追いする必要があるのでしょうか。本当に地についてものを考え、生きていくならば、一見時代遅れに見えても、じつは時代をはるかに先取りし、どこかで時代のほうでそれに気づいてくれるということがあるのではないでしょうか。それを地道にしていくのが、これからの日本の思想界の大きな課題となるのではないか、と思います。

 今村仁司さんと言えば、フランスの現代思想の最先端を紹介し、それに基づいて先鋭的な思想を展開してきた方ですが、最近は、ボクもしばしば取り上げた清沢満之という明治の仏教哲学者にハマっているようです。最近出た『清沢満之と哲学』(岩波書店、2004)という厚い本は、ちょっとはじめのほうを読んだだけですが、この明治の哲学者を徹底して今日の哲学として読み解こうというしんどい作業を延々としています。これはちょっと読むのに苦労しそうですが、その愚直なまでに正面から過去の日本哲学に挑んだ姿勢に襟を正されます。こういう試みが少しずつなされていくことが、きっと先々大きな意味を持ってくるでしょう。

 仏教を実践的に新しく生かそうということでは、文化人類学者の上田紀行さんが最近新しい試みを始めているようです。神道のほうでは、以前から鎌田東二さんという方が新鮮な実践思想の開拓に挑んでいますが、そういうのを見ていると、日本の伝統思想も、十分に新しい芽を生みつつあるのではないか、という希望が持てます。

 絶望ばかりしていたぶんまおですが、このごろは少し希望を持つようになってきています。

2004.3.24

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