少年・少女たちの戦い
宗田理『ぼくらの七日間戦争』(角川文庫、1985)では、大人たちの管理教育に対して、中学一年生たちが「解放区」を作って戦争を挑みます。見事な知恵と策略で大人たちを翻弄し、警官隊さえも煙に巻いて、見事に撤退してしまいます。誰一人殺さず、誰一人傷つけずに。「おれたちだって、力を合わせればおとなと闘えるさ」。
この時代、まだそんな夢がありました。力を合わせれば、子供たちだって大きなことができる。それは今から見れば、あまりに牧歌的で、まぶしすぎます。そして、その作品全体が、あの全共闘運動へのオマージュとなっています。「おれたちの親も、いまは堕落したけれども、若いころはけっこうかっこいいことやったんだよな」。もしかしたら、親たちとだって連帯できるかもしれない。
1999年の高見広春『バトル・ロワイアル』になると、もはやその牧歌性は許されなくなります。「革命と建設に邁進する」独裁国家「大東亜共和国」で行なわれる「プログラム」。それは、「毎年、全国の中学校から任意に三年生の五十学級を選んで実施、……各学級内で生徒を戦わせ、最後の一人になるまで続けて、その所要時間などを調べる」というものです。修学旅行に行くはずだった七原秋也たちのクラス42人は、否応なく孤島で互いの壮絶な殺し合いへと仕向けられます。そこにはもはや牧歌は消えうせ、過去への甘い感傷もなくなりました。仲間を殺さなければ自分が殺される。「力を合わせればおとなと闘える」などと甘いことを考えるな、と大人たちは言うのです。
「この国は立派な国だぞ。世界中に、これぐらい繁栄している国はない。……けどさあ、いいかあ、そうやって繁栄できるのも、強力な政府と、それを中心にした国民の結束があってこそなんだよ。ある程度の統制っていうのは、常に必要なんだ」。
これはフィクションのなかの言葉でしょうか。あまりに今の現実そのものではないでしょうか。その中で、少年たちに残されたわずかの可能性は、「犯罪」とされる行為に究極の巧知を絞って、大人たちとの相討ちに最後の希望を託す以外ないとしたら、あまりに辛すぎます。
『バトル・ロワイアル』は、小学校6年生の少女の同級生殺しに影響を与えたといわれます。でも、それはまだいいのです。2001年の山田悠介『リアル鬼ごっこ』になると、話はもっと不気味になります。西暦3000年の王国で、独裁者王は自分と同じ「佐藤」という姓の人間が国中に五百万人もいることに腹を立て、佐藤殺しを計画します。それもゲームとして。一週間の間、夜の十一時から一時間を鬼ごっこの時間として、その間、佐藤姓の人はどこに逃げてもよいけれども、完璧な佐藤探知機を持った鬼に追われ、見つかり次第捉われ、殺されるというのです。こうして一週間の間に、五百万人の佐藤さんはみな百万人の鬼に追いつめられて殺されてしまいます。ただひとりの少年、佐藤翼を除いて。翼は、閉会式の場で、王を殺して、自分も殺され、そこで平和が戻って、めでたし、めでたしとなります。
『バトル・ロワイアル』との微妙な違いは注目に値します。ここにはもはや戦いはありません。五百万人の「佐藤」さんは、ひたすら逃げることだけしかできません。それはゲームであり、サイレンで始まりサイレンで終わる一時間を除けば、まったくふつうの日常性が展開するのです。その一時間にしても、「佐藤」さんと鬼たち以外にとっては、何のこともない日常です。そこには、『バトル・ロワイアル』の残虐な殺人の場面さえもほとんど出てきません。なぜならば、「彼らは極秘の収容所に連れて行き、眠るように……」。ゲーム化されたホロコースト! 寓話の最後は、翼の一発の銃弾で、唐突に終わります。
『バトル・ロワイアル』も『リアル鬼ごっこ』も、独裁下の圧政として日本を描き出し、戦時下と奇妙な近似性を示しているのは奇妙な類似です。小林よしのりが『戦争論』(1998)で現代と昭和の戦争とを結び付けようとしたのは、必ずしも無理ではなかったということです。小林に反対する論者たちが、ほとんど有効な反論をなし得なかったのも、無理はありません。小林は今日と戦時下との奇妙な一致に気づいていたのに、平和ボケしたおめでたい反対論者たちはそれに気がつかなかったということです。イラク戦争下、戦時色は一気に完全に現実のものとなりました。
Yoshi『Deep Love』(2002)も、そういう時代を反映しています。ただ一日だけの夫を特攻隊で失い、空襲で妹を失ったおばあちゃんは、「あの時代に、今は似てるわね」と言います。「あの頃は、力がすべて!……力さえあれば何でもできた。今はそれがお金にかわっただけ。お金があれば、何でもできる……」。
金とモノと情報の氾濫した時代。それが、すべてが欠如していた時代と似ているとは、何という皮肉でしょうか。けれども、同じように、生き抜くことが難しいのです。たとえ、物理的に直接生命を脅かされないとしても、過剰な金とモノと情報は、かえって欠如している時代以上に強力に、暴力的に襲いかかり、逃げ場がありません。
その中で、人の命もますます軽くなっていきます。人命は軽いかに書いたように、1977年には、「人命は地球より重い」と言われていたのに、2004年にはそれは完全にひっくり返されます。もはや人命は状況次第でどうにでもなるほど軽いのです。そんな状況で、子供たちだけに、「いのちは大事だ」などということが、誰にできるのでしょうか。こうして、「あの時代」と「今」はぴったり重ねあわされてきます。ハードな時代の中で、人は何を信じ、何を頼って生きたらよいのでしょうか。
そんな時代のなかで、もう大人たちなんてどうでもいい。せめて子供たちだけでも、何とか希望を持てるようにならないのでしょうか。それとも、もうそれも無理なのでしょうか。
2004.6.28