マジメ人間は短歌を作る
このところ、短歌についてあまり書いていません。HPを振り返ってみると、2002年にいくつかえっせーを書いていますが、その後ご無沙汰です。短歌のイジイジしたマイナーな世界が好きだったんですが、それが鼻についてきたみたいで、離れてしまいました。実作は、多分20歳から30歳ちょっとくらいまで、かなり一生懸命作って、それから離れて、また、HPを開く前後頃、しばらく作って、その後は離れています。HPで言いたいことを言ってしまうと、短歌にしなければならないことはあんまり残らないみたいです。
それでも、短歌って、おかしな世界です。これほどマイナーなイジイジした世界はないのに、もう一方では、天皇制と直接つながる唯一の文学形式です(歌会始のことです)。これはかなり危ない世界といわなければなりません。
以前短歌を作っていたとき思ったんですが、男性の短歌作者には、高校の先生と出版社の編集者が多いようです。これは身近な短歌作者のイメージで、本当はそのふたつの職業が突出しているというわけではないのでしょうが、どうもボクの印象ではそういうイメージが固定してしまったようです。
高校の先生と編集者というと、ちょっと似ていますね。知的であり、教養があるということ。けれども、どちらかというと地味で、裏方的な仕事です。マスコミの表面に出ることは少なく、また、フリーター的ないい加減な生き方でなくて、マジメで堅実という感じです。サラリーマンですが、他社を出し抜いたり、出世競争にしのぎを削るというよりは、モラリストで、コツコツまじめに信念を貫く、というタイプでしょうか。もっとも、これは一時代前までのイメージで、今はだいぶ違うと思うんですが。
こんなことを書き始めたのは、久しぶりに歌集を読んだからです。小高賢さんの歌集『液状化』(ながらみ書房、2004)。小高さんは編集者。そんなタイプの典型です。50代後半。会社でいろいろ軋轢があり、やがて退職。家庭でも老母を喪い、子供の病気など、男性ならば誰もがこの年齢でぶつからなければならないいろいろな問題を背負い込んでいます。ちょっと古いマジメ人間の典型です。
小高さんは、馬場あき子さんのグループで育った人ですが、馬場さんのような唯美的なところはなくて、むしろ生活派ともいうべきタイプで、少し前の時代だと宮柊二を思い起こさせます。実際、小高さんには宮柊二についてのすぐれた著作もあり、この歌集の中にも柊二を歌った作品があります。柊二はボクが若いころ傾倒した歌人で、こういうタイプはボクは大好きです。
午後ふかく塑像になりぬくやしさを遣らうかたなき拡大会議
出向は温情なりきこの先は何でもありとのたまう人事
いいがたき感慨かかえ職退けど今日も定時に目覚めてしまう
組織内で、よほど腹に据えかねたんでしょうね。ところで、小高さんは、実名鷲尾賢也で『編集とはどんな仕事なのか』という本を出しています。これについては、こんな本読んだで触れました。名義が違いますが、あとがきにも書いていますから、本人も同一人物の仕事と認めているわけです。
歌集とこの本を読み比べると、ずいぶん印象が違うのです。『編集とは・・』を読むと、すご腕の編集者で、著者をこき使って、新しい企画をどんどん実現していく、そんなエネルギッシュな印象です。ところが、歌集を読むと、どうも不本意で、不満たらたらのようです(あとがきによると、「最後の時期に担わされた編集現場から離れた職務がどうも肌にあわず」ということのようです)。この落差がおもしろい、というか、短歌の位相というものをとてもよく表しているように思うのです。
つまり、『編集とは・・』は著者の表の顔で、歌集はその裏の顔です。会社で見せる顔は当然表の顔です。でも、誰だって表の顔だけでうまくいくわけはない。そこで、裏の顔は飲み屋でグチることで解消したりする。それはその場で消えてしまい、表の顔だけが残ることになります。
ところが、短歌はその裏の顔を言葉で言いとめて、残してしまう。これははっきりいってカッコ悪くて、恥ずかしいことです。やり手で怖いものなしの編集長かと思っていたら、なんだ、グチってばかりのただの弱い人じゃあないか、というわけです。ここをグッと臆面もなく出せるかどうかが、決定的なところだと思います。というか、見せてならないところを、あえて臆面もなくさらけ出してしまえ、という腹の括り方です。
裏側を出さなければどうしようもない、というのはおかしな感覚です。そういう感覚を持っていたから、ボクも短歌にのめりこんだし、HPに勝手なことを書くことで、その欲求がある程度満たされるようになったら、今度は短歌を離れることになったのです。ある研究会で、ぶんまお的なことを発表したら、Nさんという方から、「そういうことは短歌か俳句で表現すべきものではないか」といわれたのは、ある意味でとても正しいことでした。Nさん自身、研究者でありながら、文学的な創作もする人です。でも、その恥ずかしい裏側を、あえて「文学」としてでなくて、「思想」として語りたい、というのがボクのずっと考えていることです。
話を戻します(こういうとき、「閑話休題」なんていうとカッコいいですね)。家庭生活というと、プライベートな領域ということになりますが、ほんとうにプライベートかというと、家族もひとつの小社会ですから、そこでも言えることと言えないことがあります。
連休の三日の余白もて余しわがラーメンははつかゆですぎ
けっこうラーメンにこだわる人のようです。連休もちょっと退屈して、「じゃあ、オレがラーメン作ってみよう」なんて台所に立つ。「お父さんは、ラーメンだけはうるさいんだから」とか妻(か娘)に言われて、「まあ、見てみろ」とかカッコつけてみる。「ううん、ちょっとゆですぎかな」と、首を傾げる。妻も娘も、しょうがない、という風で、肩をすくめる。・・・なんて、いかにもホームドラマ的ですね。
ふつう、それで終ってしまうことです。それだけのことを、「余白もて余し」とか、「はつか」なんて、ちょっとひとひねりした言葉で表現するわけです。それは、ある意味では、ラーメンのゆで加減にこだわるのと同じこだわりですが、そのこだわりによって、中年サラリーマンの生きざまが、そこに浮かび上がってきます。
小高さんは、母に対してはよき子、妻に対してはよき夫、子供たちに対してはよき父です。家族の歌がたくさんあります。
いやらしき笑いと断じ娘(こ)はわれのアップの写真をつくづくと眺(み)る
「なあに、この写真。お父さん、いやらしい笑い方」とか年頃の娘に言われて、「そんなことはないだろう。けっこう、オレは気に入っているんだがね」とか、ちょっとにやけて答える。言葉では悪口を言いあっているみたいだけれど、それなりに父であり、娘であることに満足しているようです。
それはそれでいい。だけど、その後ひとりの書斎に戻って、それを想い出して、歌に作っちゃうところが、本当にいやらしいんですね。まあ、想い出して、「あいつもそれなりに娘らしくなって」みたいに、ひとりニヤッとするのは勝手だけれど、それを言葉の型にあてはめて、他人に見せつけちゃう、そっちのほうがもっといやらしいことです。そして、そこに短歌が成り立つわけです。
少し難しくいえば、直接現実の場ではたらく言葉ではなくて、それを反省したところに生まれるメタ言語とも言うべき次元の問題になります。それは、本来は言わずもがな、なんですが、あえてタブーを犯して言っちゃうわけです。なるほど、短歌とはそういうものか。小高さんの歌集を読んでいて、いちばんおもしろかったのは、この「現実の場」と「言葉に表現された世界」の二重性みたいのが、とてもよく見えてくるところでした。
小高さんはとてもマジメな人です。ふつうならば、現実と妥協して、まあ、これでいいんだ、という投げやりになってしまう年齢なのに、青臭いくらい正面から人生を生きようとしています。特に感動したのは、オウム事件をただ観念としてでなく、わざわざサティアンの場所に行って確かめようとしているところです。
身のまわりすべてを剥ぎて出家せる気持ちわからぬこともなき夜
丸顔の村井秀夫は悪事などなすはずなきと信じいたりき
花ひとつ窓辺に飾ることあらば歯止めになりしかポアの論理も
最後の一首、ボクもそのとおりだと思います。
2004.8.10