仏教は甦るか?

 この頃仏教ブームだそうです。たしかに、高齢化して、そうした人たちが関心を持つようになっていることは事実のようです。でも、仏教が本当に魅力があるかというと、どうもそうも言えないようです。魅力的な仏教というのは、可能でしょうか。

 その中で、上田紀行さんの『がんばれ仏教!』(NHKブックス、2004)は、なかなか意欲的な本です。少数だけど、意欲的な活動をしている坊さんたちとお寺を取り上げて、その魅力を伝えています。だけど、残念なことか、そういう意欲的なことをしているお寺や坊さんは少数で、大部分のお寺は、相変わらずの葬式仏教にあぐらをかいて、檀家からお金を搾り取ることしか考えていないみたいです。

 上田さんが「嫌な思い出」として書いていることがあります(104105ページ)。

 阪神・淡路大震災の1年後、神戸で開かれた「全日本仏教会」の大会のときに、「震災とボランティア」というシンポジウムに上田さんが招かれたそうです。ところが、会場に坊さんの姿はぱらぱら。ところが、その後の懇親会になると、なんとコンパニオン付のパーティーに100人以上の坊さんたちが集まって、大騒ぎをしたというのです。被災者たちがまだ苦しんでいるというのにです。

 ボクもたまに坊さんたちの集まりに呼ばれたりすることがありますので、この上田さんの絶望感はすごくよく分かります。「坊主まるもうけ」とはよく言います。坊さんたちの集まりは、なぜかすごく豪華なホテルかなんかで、ぜいたく三昧で行なわれます。コンパニオンを侍らせるなんて、まったく平気です。どうしてそういうことになるんでしょうか。

 これからの仏教の可能性について、上田さんの考えとボクの考えは少し違います。

 上田さんは、今の仏教の状況を「〈ホトケ〉の死」として捉えます(259261ページ)。日本のホトケは、一方でブッダであると同時に、もう一方で、死んだ人のことでもあるという重層性を持っています。けれども、「〈あの世〉も「ホトケ」もいなくなってしまった現代、その中で伝統的な葬式仏教が力を失うのも当然の成り行きだろう」(261ページ)。これも賛成です。上田さんは、そこから積極的にイベントを興す坊さんたちに新しい〈ホトケ〉の可能性を見ようとします。そのところで、ボクの意見と分かれるようです。

 ボクはやっぱり日本の仏教は葬式仏教から出発しなければいけないのではないかと思います。たしかに一部の坊さんたちが、イベントを興し、生き生きと活動していくことはとてもすばらしいことだと思いますし、それがもっと広まることもよいことだと思います。でも、そうやって未来に向けて、生命感に満ちたお寺もいいですが、もうちょっとひっそりと、後ろ向きに、死者と語り合う場としてのお寺というのも重要なのではないかと思います。

 葬式仏教というのは、日本の仏教がはぐくんできた大事な仕事です。ボクはこれまでも書いてきたように、死者と関わり、死者と交わるというところから、これまでの生者中心の世界観を作り変えていかなければならないと考えています。そのために、職業的に死者との間に立つことのできる専門化が必要になります。それが坊さんです。だから、坊さんはとても重要だと思います。

 だけど、今の葬式仏教がそのままでいいとは思えません。今の坊さんは本当に傲慢です。死者との関わりは大事だけれど、死後、死者がどのようになるのかということは分かりません。これは矛盾した言い方かもしれませんが、生者に分かるのは、死者と交わることができるということだけで、死者がどうなっているのかまでは分かりません。それは仕方ないことです。死後どうなるのか分からなければ不安かもしれません。でも、死後どうありたいか願うことはできます。それは大事なことです。

 それはともかく、生者は死者の運命を左右することはできません。追善供養ということがあります。それは、生者が善を行なって、死者を助けるということです。その程度のことはできるかもしれません。生者が死者から受けているものを思えば、それに対して、死者に対して生者の側もできるだけのことを返すのは当然でしょう。それが死者に敬意を払うということです。

 でも、坊さんを見ていると、死者の上に立つかのようで、傲慢です。特に悪いのは戒名というやつです。あれはなくすべきです。上田さんの本に、ある坊さんの戒名の説明があります。「はい、戒名はお浄土へのパスポート。院号は特急列車、居士号は急行列車、信士・信女は鈍行だけど、行くことは行ける」(244ページ)。これは笑える。笑えるけれど、寒くなる。もしこんな説明が本当にされているとしたら。

 戒名は、受戒して仏弟子になるための名前だといわれます。でも、もともとは恐らく、死者を生者の世界と異なる死者の世界に送り出し、生者と違うことを自覚させるためという役割が大きかったと思われます。でも、今の時代はそんな必要はないでしょう。死後の名前は、死後、それこそ阿弥陀様にでも会えば、阿弥陀様がもっとよい名前をつけてくれるでしょう。生臭坊主がつけるべきものではありません。授戒が必要としても、阿弥陀様から直接授戒するほうがよっぽどよいでしょう。まして、お金によって戒名に差別があるなんて、とんでもないことです。

 その点、神道のほうが進んでいます。神道では、みんな「尊」をつけて差別しません。靖国神社でも、将軍であっても、一兵卒であってもまったく同じ扱いです。その点、どんなに靖国に反対でも、今の堕落した仏教よりはよほどましです。

 イベントを盛んにして仏教を活性化することもよいでしょう。だけど、葬式仏教を本当に考え、本当に死者と生者に心から尽くすことのできるものにできなければ、仏教の再生はないのではないかと思います。

2004.8.29

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