ナガサキ/ヒロシマ
年末に九州に行ってきました。福岡から大宰府をめぐり、それから長崎まで足を伸ばしました。それぞれいろいろ勉強になりましたが、長崎は小さいけれど、日本の歴史のある面を代表するところだけに、街全体が博物館のようなものです。江戸時代の海外への窓口であったと同時に、キリシタンの街でもあり、そして原爆の街でもあります。
長崎の原爆被災地は、広島と較べてみると、だいぶ違いがあって、いろいろと考えさせられます。広島は原爆関係の施設が平和記念公園に一元化されています。原爆ドームと戦没者慰霊碑と平和記念資料館がほぼ一直線に並び、その周辺にそのほかの碑などが配置されています。だだっ広くて日陰も少ない公園をひたすら歩くだけになります。
それに対して、長崎は施設が散在しています。大きなポイントは原爆落下中心地公園とその東側に隣接する原爆資料館・追悼平和祈念館、西側の平和公園ですが、その他にもさまざまな被災の状況を示す建造物が残っていて、時間に応じたツアーが可能です。坂が多く、観光といってはいけないのでしょうが、飽きずに楽しめます。とりわけ大きなシンボルとなる浦上天主堂の周辺は、サントス通りとか、アンジェラス通りとか、通りの名前も異国風で、ちょっと特異な雰囲気です。そのサントス通りに永井隆記念館と、永井博士が被災後過ごした如己堂があります。
ちょうど雨がかなりひどくなって、散々でしたが、天気がよければ、なかなかいい雰囲気のところです。広島のようにだだっ広い公園だけ、というのでなく、起伏が多く、いろいろなところに出会えるので新鮮です。
浦上天主堂の壁の一部は原爆落下中心地公園に移され、ちょうど広島の原爆ドームと同じような象徴としての意味を持っています。浦上天主堂前に置かれた被爆聖像もですが、堂内に安置された被爆マリアは深い感銘を与えます。このようにカトリックが深く絡んでいますので、宗教について考えさせられます。政治的な平和運動に集約される広島との相違です。「怒りの広島、祈りの長崎」というのだそうですが、広島がひたすら悲惨だけを訴えるのに対して、もっと心の深いところに訴えて、共感を覚えます。
浦上はもともとキリシタン弾圧の地であり、信徒たちが長い歴史の中に潜伏して耐え続けた地です。その迫害に耐えて明治になって教会の建設が始まり、ようやく大正の終り1925年に完成したということです。それが原爆で再びの受難を蒙ったわけです。このように、浦上天主堂には二度の受難が刻印されています。
戦後、いち早く浦上復興の中心となったのが永井隆博士でした。永井博士は島根県の出身、長崎医大を卒業し、放射線医学を専攻して、後に同大で教えました。浦上天主堂前に下宿して、そこの娘の緑さんの感化で洗礼を受け、彼女と結婚しました。すでに原爆被爆前に放射線によって白血病にかかり余命3年といわれていました。そんなときに原爆被爆、妻を失い、自らも傷つきながら、被災者の救済に当たりました。その後、病気が悪化、子供二人を抱えて、2畳の如己堂で寝たまま多数の本を書き、『長崎の鐘』『この子を残して』などベストセラーとなりました。1951年43歳で没。
永井博士は、キリスト教徒の立場から長崎の原爆を意味づけ、受け止めようとしました。それは、長崎燔祭説と呼ばれるものです。
「世界大戦争という人類の罪悪の償いとして、日本唯一の聖地浦上が犠牲の祭壇に屠られ燃やさるべき潔き羔(こひつじ)として選ばれたのではないでしょうか?」
「信仰の自由なき日本に於て迫害の下四百年殉教の血にまみれつつ信仰を守り通し、戦争中も永遠の平和に対する祈りを朝夕絶やさなかったわが浦上教会こそ、神の祭壇に献げらるべき唯一の潔き羔ではなかったでしょうか」(「原子爆弾合同葬弔辞」『長崎の鐘』)
当日、もともとは小倉に落とされるはずだった爆弾は、天候不順のため、第2候補の長崎に落とされたということです。そこに神の摂理を見ようというのです。殉教の聖地浦上こそ、新たな殉教にふさわしい選ばれた土地であったというのです。
この永井博士の説がどれだけ受け入れられたかわかりません。少なくともキリスト教徒以外は納得しなかったでしょう。永井説はいろいろな人によって批判されているようですが、高橋真司という哲学者の『長崎にあって哲学する』(北樹出版、1994)は、一面的な批判でなく、良心的なものです。高橋さんによると、永井説のもとになっているのは、長崎でも浦上のキリスト教徒と、街中の住民とは必ずしももともと仲良くなく、浦上が被爆したのは、諏訪神社の祭りにキリスト教徒が出てこないから罰が当たったのだといわれていたのに切り返したものだということです。高橋さんはまた、長崎燔祭説が、アメリカの原爆投下と日本の戦争責任を二重に免責するものだと批判しています。
そのような批判は正当なものだと思います。けれども、永井さんがはじめて宗教的に原爆を意味づけようとし、それを手がかりに戦後の復興の力となったということは、やはり重要なことだと思います。少なくとも、批判するに価する思想があるということは、何もないよりもずっといいことです。
ひるがえって、広島にはどのような思想があったか、というと、政治的な平和運動以外に、宗教的な意味づけを与えようとする試みはあまり見当たらないようです。神道には靖国神社があり、キリスト教には浦上がある。あれ? 日本でいちばん勢力がある仏教はどうなっているんだろう。なぜ広島で仏教の思想が展開しなかったのだろう。考えて見ると不思議です。
2006.1.1