哲学者は大学にいない
20世紀の哲学のもとを作ったのは、19世紀のマルクスであり、ニーチェであるというのは、少し哲学を勉強した人ならば誰でも知っています。そのマルクスもニーチェも大学から出てしまいました。マルクスは、ボン大学やベルリン大学で勉強して、哲学教授を目指しましたが、その急進主義的な主張が迫害を招き、パリからブリュッセルと移り住み、最後はロンドンで亡命生活を送りました。国際的な連帯の中で、共産主義運動の中心として活躍しながらも、生活は貧窮を極め、子供が飢え死にするほどで、マルクス自身も健康を害して亡くなりました。
ニーチェは、二十代でスイスのバーゼル大学の教授となりながら、35歳で辞職して、わずかの年金で転々と貧乏暮らしを続け、44歳で倒れてからは精神病院の中で、錯乱したまま生涯を終えました。そういえば、キルケゴールも大学とは縁のない思想家でしたし、プラグマティズムの創始者とされるパースも、測量技師で、生活は苦しかったようです。進化論の哲学者スペンサーも技師でした。
歴史を遡ると、近代の代表的な哲学者はほとんど大学外にいました。デカルト、スピノザ、ライプニッツ、ロック等々、みんなそうです。ただ、ドイツ観念論のカントからヘーゲルまでは、みな大学人でした。
20世紀の欧米の哲学者は、ほとんどが大学にいます。もっとも、ウィトゲンシュタインは最後はケンブリッジの教授になりましたが、それまでは軍人から小学校の先生まで、いろいろな職業を遍歴しました。サルトルもジャーナリストでした。社会学者ですが、マックス・ウェーバーもお金持ちで、生涯職に就きませんでした(うらやましい!)。
別に哲学者が大学にいようが、どこにいようが、真理には変わりない、というかもしれませんが、けっこう重要なことだと思います。日本では、近代のアカデミズム哲学は、ドイツ観念論の導入を柱としました。哲学は大学で教え、学ぶものとされ、疑われませんでした。ドイツ語の原典を読むことが、哲学だと思い込まされました。
もっとも、それは明治後期の帝大アカデミズムが完成してからのことで、それまでは中江兆民のように、ジャーナリズムを舞台にした哲学者も活躍しました。戦後も、鶴見俊輔のように、途中で大学を離れた人もいますが、概して日本の近代哲学は、大学の中で終始します。ただし、西田幾多郎や田辺元のような有名な哲学者も、本当に独創的な哲学を展開するのは、定年退職してからです。
大学にいると、何が問題なのでしょうか。結局、大学のシステムは既存の体制によって決まってしまっています。そもそも明治の大学の学部構成がどういうふうに出来上がったのか、というのも興味のあるところですが、ともかく哲学というのは、最初から総合大学の中の文学部のそのまた一部に組み込まれて、それ以上の意味を持ち得ませんでした。哲学の個別科学化、とでも言えばいいのでしょうか。哲学が大きなビジョンを示すのではなく、人生の指針となるのでもなく、アカデミズムの一分野として、ひっそりと、欧米の動向を後追いして、輸入していればそれでいい、みたいなものになってしまいました。
それでも、西田幾多郎の『善の研究』が伝説的なベストセラーになったように、哲学へのあこがれは、けっこう強かったようです。それはなぜかというと、ひとつには旧制高校の教養主義ということがあったのではないかと思います。戦前の旧制大学に入るには、その前段階として旧制高校で三年過ごしますが、この間はエリートのモラトリアムとでもいうか、もっとも自由を謳歌できたときでした。弊衣破帽というバンカラが理想とされ、青春を謳歌し、哲学や人生を大いに語る、ということが理想とされました。そういう時期を経て、大学で専門の勉強をして、社会の第一線のエリートとして送り出されました。「デカンショ」というのは、デカルト・カント・ショーペンハウエルで、旧制高校生たちが愛した哲学者たちです。
そうしたエリートの教養主義は、戦後もある程度まで生き続けました。戦後の大学は長い間教養課程を必修として、専門外の教養を積むことを義務付けられていましたが、それが形骸化し、ついに多くの大学で教養課程は廃止されました。いわゆる教養の崩壊です。トータルな人間性などというのは、もう幻想に過ぎなくなりました。
マルクス主義の死滅ということも、その点に拍車をかけました。マルクス主義は、20世紀において、ほとんど唯一の総合的な世界観を提供できる思想でした。政治・経済・科学など、すべての領域が統合され、経済を下部構造とした唯物史観により、歴史の進路を示すことができました。
それが崩壊したとき、統合的な世界観を提供できる思想はもうありません。確かに、今の複雑な社会に対して、総合的な世界観など、どう考えてもまやかしに過ぎないといえるかもしれません。でも、あらゆる分野が、それぞればらばらに勝手なことをやり出したら、社会全体がアナーキズムに陥ってしまう他ないでしょう。そして、それがいまの世界であり、日本であるように思います。
何だか壮大な話になってきましたけれども、もう一度、社会的に割り当てられた大学の専門ではなく、そこを離れて、もっとトータルな視点が提供されなければならないのではないか、とこの頃思います。既成の価値観を批判し、それを覆すには、既成の枠から出なければならない。なぜ近代の哲学者が大学の外に立ったか、というのも、そこに理由があります。それによって、はじめてスコラ哲学の枠を跳びだすことができたのです。
いま、もしかしたら改めて求められているのは、このように大学という枠を飛び出して、本当に既成の世界観のそこを抉り出し、新たなトータルな世界観の基礎を作れるような、そんな哲学かもしれません。
じゃあ、誰がそんな哲学を築けるのか? じつはボクはそんな山師的なホラに、ちょっと魅力を感じてしまっているんですが・・・
2006.3.31