被爆のマリア
小泉首相のヤスクニ参拝で沸き立って、ヒロシマ・ナガサキがなんだか忘れ去られていくみたいです。ちょっと変です。被爆体験を語り継ぐことは大事です。それをもとに平和を誓うことも大事です。だけど、世界でどんどん戦争は広がり、核もまた広がっています。日本も核武装すべきだ、などと、心の底まで寒くなるようなことを平気でいう政治家までいます。
戦争の風化の中で、ヤスクニだけが勇ましくクローズアップされて、戦地でみじめに亡くなった死者たちが、「愛国心」を生むために利用されるとしたら、あまりに悲しい。歴史は繰り返します。人が過去に学んで利口になる、なんていう楽観論は捨てなければなりません。ちょうどアルコールや薬物の依存症と同じで、一度陥ったら、どんなに痛い目にあっても、放っておけばまた繰り返すことになるのです。
そんな中で、もちろんヤスクニを捉え返すことも必要ですが、風化し、硬直化していくヒロシマやナガサキをもう一度生き返らせなければなりません。「安らかに眠ってください」ではなくて、「もう一度蘇ってください」と呼びかけなければなりません。
そんな中で、田口ランディさんの『被爆のマリア』(文藝春秋、2006)はすごく考えさせる小説集でした。田口さんの小説は、本当のことを言うと、ボクはあまり好きではありません。一種の精神世界というか霊的な救いが出てきて、なんだか教訓ぽいワンパターンで、だからどうなるの、という感じになってしまいます。だけど、『被爆のマリア』は、これまでの硬直した平和主義とまったく別のいまの感覚の中で、ヒロシマ・ナガサキがどう捉え返されるかを問うている点で、これからヒロシマ・ナガサキを考えるひとつの新しい方向を示しているように思います。
この小説集には4つの中編が収められています。最初の「永遠の火」の主人公は、38歳のOL。別に結婚を焦っていたわけではないけれど、ネットで知り合った年下のイチローと結婚することに。さて、そこで結婚式というわけだけれど、突然父親が原爆の火でキャンドルサービスをやれ、と言い出す。かつて世界を飛び回った商社マンだった父親が、何でかわからないまま突然持ち出したおかしな注文に、主人公はとまどう。
誰だってそうだろう。晴れやかな結婚式に、死者たちが累々と重なる中から取り出した火を持ち出すなんて、これはもうおぞましい。そして、その火はどうしたらいいの? そして、その火をそのまま預かっていかなければならないなんて・・・ だけど、だからといって、それを絶対に拒絶できるかというと、なんだか気になる。
そんな主人公の気持、とてもよく分ります。それは同時に、「俺たちが死んだら、この墓もどうなるかなあ」という父親の言葉を受けながら、過去がどうやって未来に続いていくかという問題と重なります。
これからヒロシマを考えていくには、原爆の悲惨をこれでもか、これでもかと語り伝えるだけでなくて、この主人公の当り前感覚みたいなものを出発点として、その中にヒロシマがどう伝えられていくのかを考えていかなえればならないでしょう。
次の「時の川」は、小児ガンを生き延びて、病弱な少年が学校行事としてヒロシマに行くときの話だけれど、これはちょっと平凡。
三つ目の「イワガミ」は、ヒロシマを取材する主人公が、宮野初子という無名の作家の「磐神」という小説を読んで、その作者を探し回るという話。イワガミというのは、太古の昔からヒロシマの東北の山で世界を見つめている磐で、宮野初子の小説は、そのイワガミから見た世界の変転を描いたものです。その中には、「原爆による地獄の風景はほとんど描かれていない。描かれているのは極楽浄土の広島。死んでいく者たちの記憶の底にある最も美しい場所として、広島が描かれていた」(137ページ)。
「蠢き苦しむ人間たちの思い出、その思い出のなかの広島を、宮野初子は渾身の力で描いている。最も楽しい今生の記憶のなかで、人々は安堵し、仏となって彼岸へ旅立つ。これは、究極の鎮魂だ」(145-146ページ)
ヒロシマの死者たちを、ただそのときの苦しみを語るだけではなくて、永遠のイワガミの世界の中から見直すことによって、そこに鎮魂があるというのです。「磐神」の小説自体の具体的な引用はなくて、結局謎の小説のままですが、最後に主人公はその作者宮野初子を探し当て、認知症となった彼女を施設に訪ねます。
いかにも田口さん的な理屈がちょっと鼻につくところはありますが、でも、ヒロシマをただ原爆という一点だけでその苦しみだけを伝えるということから解放し、もっと大きな視点でヒロシマを捉えなおせないか、というとても意欲的な試みだと思います。この小説は、ヒロシマを哲学することの原点となる大事な作品だと思います。
最後の「被爆のマリア」は、小説としていちばんすぐれているかもしれません。主人公の女性は、父親から暴力を受けて育ち、家を出て自活してからも、人の顔色ばかりをうかがうようになります。それで友達のためにサラ金からお金を借りて、会社を首になり、夜の仕事もうまくいかないで、いまはレンタルビデオ店に勤めています。セクハラ的な店長も、冷静に主人公の心理を分析してくれる同僚森君もなんだか怪しく、父親が現れたり、母親が突然アパートで死んでいたり。そんななかで、亀のカメノスケと、なぜかナガサキの被爆のマリア様が彼女の救い。傷つき、黒焦げになり、眼が空洞となったマリア様。これでもかこれでもかと醜く傷つけられた、無原罪のマリア様。
「被爆のマリア」は、たしかに原爆の象徴だけれども、でも、原爆と無関係のところで人を救うことができる。それは新しい発見です。
これでもか、これでもか、と悲惨な体験を語り、それを後世に伝え、平和を訴えることは確かに大事です。でも、「永遠の火」の主人公みたいに、それはちょっとウザイ。「被爆のマリア」の主人公のように、そんなことと無縁のところで人は苦しんでいるのです。それでも、ヒロシマやナガサキが訴えるとしたら、それは、「悲惨」と「平和」という、あえていえばステレオタイプ化された発想だけでなく、それをもっと大きな「イワガミ」的な視点から捉えなおし、あるいは、「被爆のマリア」の主人公みたいなところでもなお生きていくのでなければならないのではないでしょうか。ヒロシマやナガサキが記憶として過去のものとしてやがて忘れられていくのでないためには、むしろヒロシマやナガサキが救いであり、安らぎとなることも必要なのではないでしょうか。
そんな意味で、ボクはランディさんの小説を、これまでのヒロシマ・ナガサキ論と異なる新しい可能性を開いたものとして、高く評価したいと思います。この志を受け継いでいくことができるためには、どうしたらいいのでしょう。ボクはやはり宗教の役割が大きいと思います。ナガサキには浦上天主堂があり、まさしくそこに被爆のマリア様がいます。ヤスクニは問題はあるけれど、神様はただ戦いへと人々を駆り立てるだけでなくて、やがて安らぎへと導いてくれるでしょう。ヒロシマにはそれがない。それがヒロシマのいちばん大きな問題なのではないでしょうか。ナガサキでキリスト教が、ヤスクニで神道が中心になって死者とかかわっているのならば、ヒロシマではせめて仏教がもう少ししっかりとしなければいけないのではないか、政治から死者を取り戻さなければいけないのではないか、とこの頃とても強く思うのです。
2006.8.26