短歌はやっぱりマイナーでいい

 岩波から『岩波現代短歌辞典』というのが昨年末に出た。短歌辞典なんていうと、小さな出版社から特殊な愛好者向けのものはあるかもしれないけれど、こういうメジャーな出版社から出た一般的なものはなかったから、出版を楽しみにしていた。最近、岩波からは『現代中国事典』なんてのも出ているから、そういう一連のもので、辞典といっても、長く使えるものというよりは、まさに現代の状況を取り込もうというもので、読む要素が大きい。

 項目は大きく二種類で、固有名詞(人名・書名など)を中心とした短歌史的なものと、それから短歌に使われている用語、つまり歌語からなる。歌語の選択など、結構工夫が見られておもしろい。ただ、性質の違う二つの種類の項目がごっちゃに入っているのは、ちょっと見にくい感じ。やっぱりはっきり分けてしまったほうがよかったんじゃあないだろうか。

 各項目は署名入りで、これはとてもいい。歌語はもちろん、短歌史的な項目でも、いわゆる辞書的な客観的記述でなく、かなり執筆者の自由な見方が入っているから、なかなかおもしろい。岡井隆の監修だが、編集委員や執筆者が比較的若く、結社の枠にとらわれていないから、かなり大胆なことを言っている。見開き二頁を使った大項目は、ほとんど一篇のエッセーといっていい。巻末には引用歌一覧があるが、これはちょっとした秀歌アンソロジーとして便利。

 と、まあ、少し宣伝的にいいことを書いたから、こんどは少し批判的なことを書こう。客観性を意図したものでないから、辞書といっても、一つの立場があってもいいけれど、監修が岡井隆で、編集委員の顔ぶれを見ても、大体の傾向は分かる。このことは、例えば三枝昂之執筆の「近代短歌と現代短歌」なんて項目を見るとよく分かる。つまり、前衛短歌以後を中心に現代短歌を見ているのだ。もっとも、これは今の歌壇の常識かもしれない。

 ボクの不満は、いわゆる戦後派、つまり新歌人集団などと言われる歌人たちの扱いがちょっと軽すぎるんではないかということだ。ボクなんか、佐藤佐太郎、宮柊二、近藤芳美あたりから出発していて、短歌というはこういうものだという観念をそのへんで作っているから、あんまりそこらが軽いと、短歌観そのものがちょっと違うんじゃないか、って感じてしまう。

 大項目で取られている歌人を見ると、そのへんはまったく無視されて、塚本邦雄、岡井隆はともかく、斎藤史、葛原妙子、馬場あき子と並ぶと、もうちょっと別の選択があったんじゃあないかと思ってしまう。

 ボクなんかが一番影響を受けた歌人たちは、戦後のいわば生活派ともいうようなグループだ。佐藤、宮、近藤のほかに、もちろん大御所として土屋文明がいて、アララギの文明選歌欄がその最先端だったし、窪田章一郎一派も無視できない。戦後の貧しさの中で立ちあがろうとする民衆の生活に密着したところから、戦後短歌は始まったんだと思う。それはとても大事なことだ。

 前衛短歌はそのアンチテーゼとして出発した。ボクも塚本や寺山修司はとても好きだ。でも、塚本の営為はあくまで孤独なもので、その孤高の中の磨きぬかれた表現は、「前衛短歌」なんて、運動の中に埋没してしまうものではない。寺山はまたまったく別で、歌人というよりは、「職業は寺山修司」と言うように、オールラウンドの魅力の中に、その短歌も含まれる。

 前衛短歌が何か運動のように捉えられるのは、多分岡井隆あたりの力が大きいんだろう。別に岡井さんに恨みはないけれど、正直言って、岡井はあまり好きになれない。塚本や寺山が、短歌という枠を突き破ってしまったのを、また短歌の世界に矮小化してしまったような感じがするのだ。だいたい、戦後ずいぶん経ってから、いまさら前衛運動なんて、共産党ではあるまいし、ちょっと恥ずかしいんじゃないか。

 やはり大項目の「第二芸術論」で、三枝昂之は、第二芸術論をずいぶんけなしているけれど、ボクはやっぱり第二芸術ということはあると思うし、それはそれで大事なことじゃあないかと思う。短詩形には、書道・華道・茶道などのいわゆるお稽古事の世界に近いところがある。よく言われるけど、結社なんて一種の家元制度だね。

 その一方で、短歌を芸術表現として高めようという方向があるのは当然だし、塚本なんてその極限にいる。極限化するとき、短詩形はその短さ故に、現代詩以上に濃縮した表現が可能になることも事実だ。

 一方でそうした世界を認めながら、他方で、新聞歌壇や結社が切り開いた大衆性を無視しては短歌を語ることはできないと思う。むしろボクが思うのは、前衛短歌から現代短歌という流れよりも、むしろ新聞歌壇や結社型の大衆性(そこに戦後派が展開した)から俵万智によって一気に開花した新しいタイプの大衆性へ、という展開を重視すべきではないかと思う。

 俵万智の影響の大きさは、この辞典でも「『サラダ記念日』の出現」して大項目になっているけれど、たしかに画期的なものだったと思う。それは、従来の結社型がいわば閉じられた空間の中で動いていたのが(新聞歌壇にしても、開かれているようでもやはり一部愛好者のものだった)、一気に誰でもできる開かれた世界を作り出してしまったことだ。

 それは何と言っても、口語を自由に使い、また、今の日常の語彙をそのままつかえるということが大きかった。その先蹤を求めるとすれば、短歌の世界よりもむしろ広告コピーだと思う。そう言えば、缶入り茶のメーカーが広告俳句を募集していたけれど、それなんかなるほどと思う。短歌と俳句はまたちょっと違うところがあるけれど、まあそれはともかく、ちょうど商業イラストやマンガがお高くとまった美術の世界を一気に大衆化したのと近いところがあるだろう。

 どうも短歌の世界のいやなところは、仲間うちだけで何だか理屈をつけて、所詮はコップの中の嵐に過ぎないのに、何だか大文学を論じているようにシチ面倒くさい議論をするところだ。俵万智や寺山修司ならば誰でも知っている。でも、塚本邦雄や岡井隆なんて名を知っている人がどれだけいるだろうか。無名でいいんだと思う。無名だからこそいいんだと思う。それなのに、塚本、岡井というと、何か大有名人のように思うのは、歌人たちの世界の矮小さを証明しているだけのことだ。

 所詮マイナーで、第二芸術でいいんじゃないか。それへのコンプレックスがあるから、単に軽く歌うだけのことを、ライトバースだとかなんだとか、難しい名前をつけたり、もったいぶった議論を展開して、背伸びをしようとするのだ。俵万智のエライところは、そういうシチ面倒くささを捨て去って、誰にでもわかりやすく表現したことだ。

 マイナーだからこそ、そうでなければ消えてしまうささやかな声を聞きとめ、書きとめることができるのだ。それはすばらしいことじゃあないか。ボクが大好きな歌人大西民子なんて、『現代短歌辞典』ではほんのちょびっとしか出てこない。でも、分かる人には分かる。そういうものだと思う。

 ちなみに、この機会に、以前買ったまま読んでいなかった大野道夫『短歌の社会学』(はる書房、1999)をざっとだけど目を通した。こういう方法のほうが、お高くとまった芸術論よりも短歌の本質をついているところがあると思う。『現代短歌辞典』は、ちょっと短歌の大衆性を見くびりすぎているように思う。

2000.1.11

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