生 老 病 死

 人生、悩んでいるのならば、仏教でも勉強したら、なんて言われてしまったけれど、ああいう抹香臭いのはどうもやだなあ。なんだかしかめっつらしいし。

 でも、お釈迦様って、やっぱりいいとこある。人生の最大問題は生老病死だなんて、言えてるよね。政治だの、経済だの、倫理だの、存在論だの、めんどうくさい問題をいっさい持ち出さないで、端的にそのとおり、って感じ。要するに、他の人がどうこうじゃなくて、肝腎なのは自分の問題だよね。

 政治の季節が終わり、宗教の季節が終わり、そういう外の言葉でごまかすことができなくなった。そうなれば、自分の問題に戻るほかない。剥き出しの形で、人生の問題が正面に飛び出してくる。それがオウム以後の状況だ。それって、まさにお釈迦様が言った生老病死の問題じゃないか。

 もちろん、そういう人生の問題はずっと哲学や宗教の問題だった。あるいは文学においても中心の主題だった。だけど、かつてはそういう人生問題はもっと大きな問題の中に吸収されていた。たとえば、宗教ならば、人生の問題を包み込んで、もっと大きな価値が考えられて、所詮この世の人生なんてその一部に過ぎなかった。だから、もっと大きな価値のために生きることこそ大事で、この世の人生はその限りでのみ意味を持つものだった。

 あるいは、飢えて日々の食事が満足に得られない人たちの問題が最大の問題だった時代には、まず物質的な最低生活の確立こそ最大の課題だった。経済闘争こそ、この世界の最大の課題だと考えられた時代もあった。もちろん、経済問題が消えるわけではないけれど、また、それだけですべての人生問題が解決するわけでないことも明らかだ。

 死と関わる病気の問題は、ガンの告知問題と関係して浮かび上がってきた。岸本英夫という宗教学者が60年代にアメリカでガン告知を受け、死を見つめながら、既成の宗教に逃げ込まず、いかに生きるかを追及したのは、おそらく先駆的なことだった。『死を見つめる心』(1964)という本は当時大きな反響を呼んだ。岸本さんはアメリカに滞在していたから、はっきりと告知を受けたけれど、その頃は日本では告知しないことが当然と考えられていた時代だ。だから、ガンをはっきりと認識しながら最期まで仕事に打ち込み、死を「別れ」として捉えた岸本さんの生き方が感動を呼んだのだ。

 でも、今日では告知は当然のこととなりつつある。それを宗教によって受け止めるということももちろん考えられるけれど、必ずしも宗教によらず、あるいは宗教だけによらずに、ガンを生き抜く人だって、それほど珍しくなくなった。岸本さんのように、宗教学を勉強した特別の人でなくっても、ごく普通の人でも、必ずしも悲壮にならずに、死を見つめながら、自分の行き方を貫くことが可能となってきた。大きな要因は、ガンの治療が進み、早期ガンならば治るし、末期でも、やり方次第では苦痛を緩和しながら日常の生活をかなり保てるようになった、ということがあるだろう。

 もちろん、それですべて解決するわけではないけれど、あえてデス・エデュケーション(死の教育)なんて大げさに言わなくても、もっと日常の場で死が受け止められるようになってきた。

 老の問題は、ちょっと遅れている。老齢化が進み、特に介護の問題が、介護保険によって危なっかしい形で進行中で、もう少し経たないと方向が見えない。確かにこういうところは経済的な問題が大きく関わってくる。

 生の問題は、性・出産・育児の問題が関わってくる。これもずっと古くからの問題だけれど、フェミニズム以後、ジェンダーの問題と関わって考えなければならなくなった。これも安易に宗教に逃げ込むことができなくなった。

 かつて実存主義というのがはやった頃、生老病死みたいなのは、それなりに重視された。ヤスパースが「限界状況」と呼んだり、あるいはハイデガーが「死への先駆」とか言って、そこから何か本来的な人間のあり方に到達することができるみたいに考えられた。でも、今日そんな本来性を前提とするのは、どうも無理そうな感じになってきた。生老病死は、そんな高尚な問題ではなくて、もっと日常の中に、あたりまえの顔をして居据わるようになってきた。

 悟りとか救いとかいうご大層なことじゃない。「最終解脱」なんて、麻原彰晃にでも任せておけばいい。もっと具体的に、告知された人生をどう生き、あるいはどう老いた親を介護するか、というすごく現実的な問題として対処していくことが問題だ。現実を見つめ、試行錯誤しながら、知恵を積み重ねていくのはいいことだと思う。情報を交換しながら進めば、ひとりだけの問題でありながら、同時にその問題を共有できる。

 この頃の少年犯罪は確かにすごく深刻だけど、それもまた、試行錯誤の時期に付随する必然的な現象だとも言える。大人だって試行錯誤をしながら自信がなく生きているのに、子供たちに自信を持った生き方を要求するのは無理なことだ。若者の犯罪を減らすには、国家の危機を煽り、戦争を起こすのがいちばんだ。そうすれば、他のことなど考えられなくなるし、凶暴性を正義の名のもとに発揮することだってできる。でも、もしそうでなければ、大人と一緒に子供たちだって、自分たちの生き方を自分たちで考えていかなければならない。

 それは確かに厄介な時代だ。でも、考えようによっては、とてもおもしろい時代じゃないだろうか。与えられた価値観を鵜呑みにして、その中に自分を当てはめていくのじゃなくて、自分で試行錯誤しながら、自分の生き方を作っていくというのは、とてもいいことじゃないだろうか。

 お釈迦様は、生老病死に加えて、愛別離苦(愛している人と別れる苦しみ)とか、怨憎会苦(いやなやつと会う苦しみ)とか、求不得苦(欲しい物が得られない苦しみ)とかも挙げているけれど、これもすごく具体的だね。いつの時代でも所詮人生変わらないんだ。逃げないで、だからと言って、あまり悲壮にもならず、たとえ流されながらだっていい、それなりに自分の生き方を作っていくことができれば、それはやっぱりすばらしいことだと思う。

2000.5.13

HOME目次