戦争責任をどう考えるか

 とても重い、けれども避けてとおれない問題について、少しだけ考えてみよう。手がかりとして高橋哲哉さんの『戦後責任論』(講談社、1999)を使うことにする。高橋さんは最近たくさん本を出したり、座談会などに出たりで、大活躍の哲学者だ。フランスの哲学者デリダの専門家だけれれど、流行の脱構築などを安易に取り入れたりせず、とても地道に着実に従軍慰安婦問題などの問題に取り組んでいる。ドイツの戦争責任問題にも詳しく、いわゆる「新自由主義史観」批判の先頭にも立っている。一度だけお会いしたことがあるけれど、ほんとうにまじめで、信頼できる誠実な人柄で、とても心優しい人だとも思う。

 だけど、『戦後責任論』を読むと、なんだかちょっと原理主義的な感じで、気が滅入ってしまう。こんなかたちでしか、戦争/戦後責任を考えることはできないのだろうか。もっと違う可能性があるんじゃあないだろうか。そのあたりを考えてみたい。『戦後責任論』はいくつかの論文を集めたものだけれど、ここでは最初の「「戦後責任」再考」を中心に見ることにする。これは講演記録だけど、割合平易に高橋さんの考えがまとめて述べてあると考えられるからだ。

 高橋さんはこの講演で、まず、「もはや戦後ではない」どころか「戦後はいまようやく始まった」と言っている。「冷戦構造といういわば最後の“アリバイ”が崩れることで、日本はいまや、どんな弁解もできない形で、ようやく直接「戦後責任」を問われることになったのである」(p.21)。冷戦構造が崩れることで、いままで政治的なバランスのために不問に付されていた問題が露わになった。これは広い意味で「オウム以後」的状況の問題だ。

 では、責任とは何だろうか。高橋さんはそれを、英語のresponsibilityというところから、応答可能性である、という。つまり、相手からの問いかけに対して、どう答えるか、ということだ。問いかけられたら答えなければならない。それが責任というものだ。これも認めていい考えかただ。

 では、どういうときに応答可能性=責任が生ずるのだろうか。高橋さんは、「(テレビや新聞で、)世界中で苦しんでいる人々の叫びや、きや呟きが次々に飛び込んで」(pp.33―34)くるとき、もう「呼びかけを聞いてしまっている」という。この責任には「原理的に国境という境界はありません。呼びかけが聞こえるかぎり、そして、呼びかけが聞けさえすれば、この責任は生じるのです」(p.44)と言う。だから、「ホロコーストについての応答責任は加害者側のドイツ人と被害者側のユダヤ人にだけ生じるのではない。同様に日本の戦争についての応答責任も、日本人とアジア各国の人々、あるいは日本人と交戦国の人々にだけ生じるのではない」(p.37)。つまり、あらゆる人が、あらゆることに対して、何らかのかたちでそれを知ったときには責任が生ずることになる。これを「普遍的責任論」と呼ぶことにしよう。

 それでは、もし知らなかったら責任は生じないのであろうか。テレビも新聞も見ない。あるいは、芸能欄しか見ないという人は責任が生じないのだろうか。たぶんそういうことになるのだろうけれど、この点、高橋さんの考えはよく分からない。

 では、具体的に日本の戦争/戦後責任とは何だろうか。高橋さんはその最大の問題として、「戦争犯罪者の不処罰」ということを挙げる(p.39)。つまり、「実行行為者を処罰すること、そして犯罪の被害者に償いをすること」(p.30)がなされていないことだというのである。要するに、戦争責任とは何よりも「法的・政治的次元を経由せずには不可能」(まえがき、p.9)だというのである。これを「法・政治優先論」と呼ぶことにしよう。

 では、そのような責任は、あらゆる人に同等にかかってくるものだろうか。高橋さんは、「国境を知らないユニヴァーサルな応答責任としてだけでなく、「日本人として」もその責任を負っている」(p.46)という。その際、日本人とは何だろうか。「国籍法によって日本国民の一員であり、日本国憲法によって日本国家の政治的主権者である人」(p.45)であるという。こうして、「日本人としての責任」は、「日本国家が戦後責任をきちんと果たすように日本国家のあり方を変えていく責任」(p.51)だというのである。ここでも、法・政治が優先される。

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 以上、高橋さんの論文(講演録)の要旨をまとめてみた。もう一度要点を箇条書きにしてみよう。

1、いまこそ本当の意味での戦後が始まり、戦争/戦後責任が問われるべきである。

2、責任とは基本的に応答可能性である。

3、責任はそれを知った人すべてに、すべてのことに関してかかってくる(普遍的責任論)。

4、しかし、直接には、法的・政治的な「日本人」が法的・政治的な問題に関して負うべきものである(法・政治優先論)。

 このうち、1、2はその通りだと思う。特に第2についてはまったく同感だ。具体的に他者と関わるところにしか責任という問題は出てこない。その具体的な場を捨てて、抽象的な責任は考えられない。ただ、高橋さんの考えは、進んでいくとどうも少し抽象的になっちゃいそうな感じがして、ちょっと不安だ。

 第1については、まったくその通りだけれど、だけど、それでもなお、政治によって問題が歪められるということがあることは気をつけるべきだろう。特に中国に関する問題は、いつも微妙な政治問題が絡むから難しい。例えば、中国における南京大虐殺に関する情報は、明らかに政治的に反日本感情をあおるという側面を持っている。南京大逆説を否定するのはいけないが、だからと言って、中国側の言うのを鵜呑みにしてもいけない。このあたり、相互に冷静に議論しながら進めていかなければならない。

 もうひとつは、国民感情という面倒な問題がある。中国や韓国のナショナリズムはかなり強い。こうした感情論は理屈だけで解決しない。それをどう解きほぐしていくかはかなりしんどい問題だ。それから、応答可能性という以上、こちら側の応答だけでなく、相手の方の反応も考えなければならない。両方でやりとりしながら進展していくわけだ。だけど、高橋さんの議論では、そのやりとりの面が見えてこない。なんか向こう側の問いかけを一方的にこちらがどう答えるかという一方通行しか見えてこないような気がする。どうだろうか。

 こうした問題については、読書ノート3月10日に書いた孫歌さんの「日中戦争 感情と記憶の構図」(『世界』2000年4月号)がとてもいい。たとえ良心的であろうとしても、相互に行き違ってしまうことがある。孫歌さんはそこを冷静に分析している。それを調整するのは、相互の対話を通じてだけだ。高橋さんの論では、応答ということは説かれているけれど、対話ということは説かれていない。それでいいんだろうか。

 次に第3点。つまり、あらゆる人があらゆる問題に責任を持つという普遍的責任論の適否。〈私〉が分裂する!で書いたように、すでに明治時代に清沢満之という哲学者が、「自分は世界中のあらゆることに責任があるんだ。だけど、実際にはとても全部責任は取りきれない。だから、もう世俗の力じゃあどうにもならないから、すべて阿弥陀様にお任せしちゃえ」というすごい論理を展開して、一気に責任論を宗教論に持っていってしまった。それもおもしろいけれど、一気にそこまでいっちゃうと、ちょっと待てよ、ということになる。でも、高橋さん的な論理でいくと、そこまでいかないという歯止めがあるんだろうか。どうもそこが分からない。

 ボクはそれに対して、部分責任、分限責任でいいんじゃないか、と考える。例えば、ボスニアにもパレスチナにも、アフリカや北朝鮮の飢餓についても、すべてについてボクらは責任があるといってもいい。でも、だからと言って、そのすべてに関わらなければならないといわれても参ってしまうだけだ。そんなことばかり考えていたら滅入ってしまう。募金に応じるだけで勘弁してもらおうという場合があってもしかたないと思う。自分にできる範囲のことをすればいいので、無理な背伸びはしなくていいと思う。無理をすれば、必ずどこかにひずみが出て挫折する。

 それに、すぐに役に立つことだけを考えなくてもいいと思う。例えば、ボクのやっている仕事なんて、すぐには何の結果も出ない。でも、すぐに結果の出ることだけを求めるのは間違っているんじゃないだろうか。長い目で、きっとどこかでプラスの役に立つような、そんな漠然とした仕事というのも大事だと思う。

 ひとりの人間にできることなんてほんとうに小さい。傲慢になってはいけない。自分にできる小さなこと、ちょっとしたかかわりを大事にしていくことだと思う。例えば、ボクは中国という国が好きだ。わりあい親しい友人もいる。そうして付き合い、少し勉強していくと、どうしても戦争の問題に突き当たる。そこで、いやおうなく関わらなければならなくなる。それでいいんじゃあないだろうか。誰もが同じように責任を感じ、同じような責任行動をとらなければいけないと考えるのは無理じゃあないだろうか。人はみんな違う。違うところで違う応答があり、対話があり、責任がある。それでいいんじゃあないだろうか。

 第4に、戦争/戦後責任を法的/政治的責任に限るのはどうだろうか。もちろん、そういう面からの追求も必要だと思う。そして、高橋さんがその方面から攻めていくのはいいことだと思う。だけど、この場合も、あらゆる人に同じような思考や行動を求めるのはおかしくないだろうか。

 例えば、ボクは政治や法律は苦手だ。だから、違う方向から考えたい。ボクは近代の日本の思想ということをひとつの問題として考えている。いろいろ豊かな思想家がいて、さまざまな可能性がありながら、どうして戦争に突っ込んじゃったんだろう、どうして侵略を止められなかったんだろうか、という問題だ。それはすごく複雑な議論をほぐしていかなければならないから、とても地味で時間がかかる。ボクはそういう仕事も大事だと思っている。

 すべてが政治じゃあない、すべてが法律じゃあない。法律や政治で片付かない問題だってたくさんある。それをすべて政治の問題に還元しようとする政治主義にボクは絶対に反対する。法律や政治でしか責任が取れないとしたら、余りに寂しいじゃないか。それでほんとうに他者と実りある関係が結べるのだろうか。

 それに、「日本人」ということにしても、「国籍法によって日本国民の一員であり、日本国憲法によって日本国家の政治的主権者である人」という法的な問題だけだろうか。ボクは法的にどうかということはあんまり考えたことがない。確かに法的に日本国民だけど、そんなことがいちばん大きな問題だろうか。ぜったい違う!

 もし法的・政治的問題がすべてだとしたら、法的・政治的問題が解決したら、もうそれで戦争責任がなくなるんだろうか。それはおかしい。断固違う! たとえ法的・政治的問題が片付いたとしても、どうして侵略に向かうことを誰も止められなかったのか、あるいは、とても豊かな可能性を持った思想家が、どうして侵略のお先棒を担ぐことになったのか、というような問題は決して解決されない。解決されなければ、同じような発想がまた戻ってこないとも限らない。そういうことをしっかり考えてゆくことも大事な責任のとり方だと思う。

 高橋さんが誠実に地道になさっている仕事を決してけなすつもりはない。でも、余りに自分の正しさだけを主張しすぎていないだろうか。もっと多様な考えを許容していいんじゃあないだろうか。

 それから、大きな問題として、高橋さんの本からは、例えば、中国の人たち、韓国の人たちと、これからどう積極的な未来の関わりを開いていこうとするのか、その展望が見えてこない。それは戦争/戦後責任をとってからだ、というかも知れない。でも、そうじゃなくて、未来へ向かって相互に関わりつつ、その中ではじめて過去を問い、戦争責任も問われていくのじゃあないだろうか。何かそのところが逆立ちしているように思うのだけれど。

2000.6.25

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