続・なぜ人を殺してはいけないのか?

 以前、なぜ人を殺してはいけないのか?について書いたけれど、ちょっと中途半端で終ってしまった。もう少し書きたいと思いながら、考えがまとまらず、時間が経ってしまった。だいたい自分の考えが整理できたから、書いておこう。

 先には「なぜ人を殺してはいけないのか?」には「いけない」という答えは出せないことを言った。それならば、「なぜ人を殺してはいけないのか?」ではなく、「なぜ人を殺してはいけないのか?といま問題にされるのか?」という問題のほうが考えてもおもしろそうだ。あるいは、「なぜ人を殺してはいけないのか?という問いがいま問題にされて、その問いそのものの正当性が問われないのか?」ということのほうが不思議だ。こんなことを考えるボクはよほどひねくれているんだろうか?でも、ちょっと変に見えるかもしれないけれど、ボクの疑問はじつはそれほどおかしくはないのだ。

 おもしろいことに、「なぜ人を殺してはいけないのか?」なんて疑問は、意外にも歴史上あまり問われていない。もちろん、「汝殺すなかれ」はモーセの十戒に説かれるし、インドでも古くから見える。仏教の戒律でも「不殺生」はいちばん最初に挙げられる。でも、そこでは「なぜ?」という疑問は出てこない。当たり前のことだから?でも、それほど当たり前だろうか?

 じつはこれがぜんぜん当たり前でない。例えば日本の歴史を考えてみよう。鎌倉時代から江戸時代まで権力を握っていたのは武士だ。では、武士とは何か?基本的にいえば、人を殺すことを職業としている人たちだ。互いに殺しあって、勝ち残ったものが権力を握る。そこでは、「なぜ人を殺してはいけないのか?」なんて問いが出てくるわけもない。中世に武士が殺し合いに無常を感じて出家したりする。でも、殺すことに罪を感じて、というのはあまりない。『歎異抄』に「悪人正機」がとかれることは有名だ。でも、『歎異抄』で言われる「悪」は、魚を獲ったり、獣を狩したり、というのであって、人を殺すことは挙げられていない。何だか変だけど、当時はそう考えられていたんだろう。

 人を殺すのを職業としているのだから、そこにはモラルがない、などと言ってはいけない。人殺しにもちゃんとモラルがある。めったやたらに殺すのはいけない。しかるべき場で、正々堂々と殺しあわなければいけない。『平家物語』を読めば、武士たちが、いかに繊細な感覚とすぐれた倫理観をもって、戦に望んでいたか知ることができるだろう。そこには現代のスポーツ選手の潔さに通ずるものがある。それが江戸時代には「武士道」に結実する。ただ、江戸時代には、実際の戦争は少なく、理念化してしまうために、だいぶ変容してしまう。

 明治以後も「軍人魂」というのはかなり理想化された。乃木将軍なんてのがその典型で、彼の明治天皇に対する殉死は軍人だけでなく、多くの日本人に衝撃を与えた。男の子なら誰もが軍人さんにあこがれた時代もあったのだ。

 だから、そういう時代には、「なぜ人を殺してはいけないのか?」なんて問いは発しえない。せいぜい「なぜ正当な理由がなくて人を殺してはいけないのか?」という条件付の問いしか出てこない。それが今日、その条件を外して、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いが立てられるようになった。そのことは大いに驚かれなければいけない。平和が続いて、人が殺しあわなければ生きていけない時代から遠く離れてしまったのだ。今日、自衛隊があっても、どこか日陰者的で正当に位置付けられない。その点では、今日、無条件に「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いが立てられるようになったことは、喜ばしいことだといえる。けれども一方で、殺しあわなければ生きていけない状況もありうるという厳しさを認識していないと、いわゆる平和ボケしてしまうことになる。アメリカのように、市民でも殺人能力の高い武器を所持し、使うことが認められている厳しい社会だってある。

 もうひとつ重要なことがある。江戸時代に人殺しを正統的に認められたのは、支配階層である武士だけで、一般庶民には認められなかった。実際に殺さなくても、刀を持ち歩くというシンボル的行為で、自分たちだけが殺人を認められた階層であることを誇示した。実際に、切捨て御免で、被支配層に無礼があったときは、武士には殺すことが許されていた。他方、一般庶民は、殺人はもとより、十両盗めば首が飛ぶと言われたように、犯罪に対しては厳しい処刑が待っていた。武士の犯罪に対しては、殺害ではなく、自死が認められたのに対して、庶民の犯罪は「殺される」ことによって報いられた。つまり、殺人は、権力、及び権力を有する階層によってのみ公認されるのであり、誰にも認められるものではなかった。殺人の権利は独占されていたのだ。

 これもまた、近代になって変形しても持続した。むしろ殺人の独占は中央の権力により一層集中し、独占された。武器を持つことが許されるのは、国家権力の表出としての軍人、警察に限られた。そのことは、戦後社会になっても今日まで続いている。そしてまた、死刑という名の殺人は、国家権力のみが独占している。死刑は個人が殺すのではない。国という非人格的な主体が殺すのだ。

 この点からしても、「なぜ人を殺してはいけないのか?」がこんにち無条件に問われるということは、非常に特異なことだ。もちろん、それほど権力の影に怯えなくていい、ということでは、これもいいことなのだろう。戦後の民主制度が定着したからこそ、と言える。だけど、ほんとうは権力の殺人独占がなくなっているわけではない。このことも念頭に置いておかなければならない。

 もう一点、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いの曖昧さを挙げておこう。「それならば、人以外の生物ならば殺してもいいのですか?」という問いが当然予想されるだろう。それに対して、「生命はどんな小さなものでも大切だ」なんて模範的な答えが返ってきそうだけど、これはかなり怪しい。

 そもそも、キリスト教では、人とその他の動物とは決定的に違うとされるから、「人」だけが問題になって、それ以外の生物については、人が生きるための道具であり、道具として重視されても、人の生命とは同一視はされない。中国の儒教でも、人は倫理があり、倫理のない動物とは決定的に違うとされる。いちばん厄介なのがインド系の考えかただ。インドでは、人だけが特権視されない。だから、生物を殺すことは人を殺すことと同じくらい重い罪になる。インドの人は今でも菜食主義者が多いけれど、その理由による。それを積極的に推し進めたのが、ガンディーの運動だ。

 でも、それでも動物と植物との間には一線が引かれるじゃあないか、という問題が出てくる。菜食主義をとっても、植物を食べないことには死んでしまう。じつはその極端までいった宗教がある。それはジャイナ教という宗教で、餓死することが最高の理想とされている。

 こんにち、「人」以外の生命の問題は、エコロジーの問題として提起されている。ディープ・エコロジーといわれる系統では、植物どころか、「岩の権利」なんて言うこともいうらしい。生物と無生物との境まで取り払ってしまうのだ。

 でも、ほんとうに人を殺すのと、それ以外の動物を殺すのは同一視できるだろうか。実際には、菜食主義は必ずしも誰にでも通用するものではないから、これは困難だ。でもまた、「人」だけ特権化できるかというと、その理由を探すのもまた難しい。いまさら、人は神が自らに似せてつくったので、動物はそうじゃない、なんて理屈が通用するはずもないからだ。

 そんなわけで、一見自明に見える「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いそのものが、じつはきわめて曖昧で、また、時代性を帯びた相対的な問いだということがわかる。考えてみると、なかなか奥が深いものだ。

2000.10.6

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