自殺について少しだけ考える
「なぜ人を殺してはいけないのか?」を書いたとき、自殺の問題にまでいたって、尻切れとんぼになってしまった。ほんとうは人を殺すことよりも、自殺の問題の方に、ボクは関心がある。
ある雑誌に実名で出したエッセーで、ボクはボク自身の若い頃の自殺願望について、ちょっと書いた。いずれそれもサイトにのせようと思うけれど、実名で雑誌に出したものをそのまますぐにこっちに出していいのかどうか、ちょっと迷うところがあるから、しばらく待つことにする。
ともかく、ボクは若い頃、ひどい自殺願望があった。でも未遂にも至らなかったから、ひどいといっても、本当はそれほど重症ではなかったわけだ。でも、現実に適応できないまま、自殺にあこがれ続けた長い期間があった。苦しかった。いろいろ理由は考えられるが、それについてはまたいずれ考えてみたい。
年を取って、いまは自分で自殺しようという気はあまりない。でも、自殺という問題はずっと気になっている。執行猶予みたいな気分だ。『完全自殺マニュアル』こそ持っていないけれど、山田花子の『自殺直前日記』なんて、だいぶ入れこんで読んだ。
その中で、『別冊宝島』の『自殺したい人びと』は最近の出色だと思う。いままで知らなかった自殺関係のあれこれの情報が豊富で、「こんなのもありかよ」という感じ。スゴイ、感動的だ。
自殺といえば筆頭ブランドのドクターキリコは言うまでもないけれど、13年前に自殺した岡田有希子のファンクラブがますます健在だとか、リストカットごっこに興じる女子高生たちとか、未遂を繰り返したネットアイドルの女子高生が本当に自殺してしまった遺稿とか、本当に圧倒される。未遂者たちの座談会もホンネがもろに出ている感じで、引き込まれる。村石雅也も出ていて、『ファザーレス』は一度見に行かなければいけないな。あちさんの「哲学の館」は見ているよ。
ただ、本作りのコンセプトが、当然とは言いながら、「健全な人向け」になっているのは、ちょっと違和感を覚える。こんな本、本当に健全な人が買うのだろうか。やっぱり多少なりとも自殺に魅力を感じる人が手に取るんじゃないか。なのに、書き手たちのルポライターたちが、自分は健全であって、こういう不健全な自殺願望者がいますと、もの珍しげにひとごととして書くのは、ボクら健全になれない人間にとって、何だか動物園の見世物扱いされているような、いやな感じがする。
巻頭のIntroductionが、「「他人」と「差」がつく「自殺」の時代!?」と、本書の主題を提示するのは、なるほどなあ、という感じ。その通りだ。若い頃、ボクも「お守り」としての青酸カリが欲しかった。それは確かに「「他人」と「差」がつく」一種の特権だ。自殺なんて思いもしない人間より、一度でも自殺を思った人間の方が、より人間や世界の真相に近づいていると、ボクは思う。
だから、そのIntroductionで次のように書かれると、これはちょっとひどいではないか、と抗議したくなる。
「自殺の記号、シグナルは、普段そんなことを考えもしない多くの人々にとっては脅威である。それは「命が大切」だからではない。もし、近くで本当に自殺されると、それを救えなかった人間は人殺しになってしまうからだ。
このように考えてみれば、件の「死なないためのお守り=青酸カリ」の正体が透けて見えてくる。それは、「自分」が周囲に対し、否、世界に対し、無条件で「高み」に立つための究極の消費財なのだ。そうして手に入れた「高み」が無条件に保証されてゆけば、「死なない」。草壁竜次は、そのレトリックを見つけた自分に酔っていたのだろう。しかし、自決した彼の愚かさは、自分が極めて具体的な人殺しになる可能性を計算できなかったことだ……。
この本は、徹頭徹尾、そのバカさ加減の社会に対する転移を阻むために刊行されたものである。」
確かに、身近に自殺未遂常習犯がいたら、迷惑この上もない。ボクの友人にもそういう男がいて、最後は本当に自殺してしまったが、彼が木造アパートでガス自殺を図ったときは、爆発でもしていたらと、周囲の皆が青くなった。身内に、例えば、自分の子供がそんなだったら、たまらないだろう、と子を持つ親の年代になって思う(ボクには子供はないけれど)。
それに、ドクター・キリコ=草壁竜次に本質的な誤算があっただろうということも見当がつく。だが、彼を「バカさ加減」の一言で片付けていいのか。「徹頭徹尾」と強調すればするほど、「健全な社会」に媚びる姿勢がいかにも卑しく見えるのは、ボクのヒガメだろうか。
健全でなくてもいいのだ、と改めてボクは言いたい。なるべく人に迷惑をかけてはいけないし、たしかに自殺未遂を繰り返すようなところには、ずるさも甘えもあるだろう。それでも、それが「自殺語り」「自殺ごっこ」だとしても、そういう形でしか表現できないところに、とても大事なことがあるのではないだろうか。それを、「バカさ加減」と単純明快に切る健全な常識にこそ、おかしさがある。
本質的な問題に至らないうちに、またまた少し長くなってしまったから、きょうはここらでうち止めにしよう。この問題は、いくどか繰り返して論じていかなければならないようだ。
1999.7.20