自由人であることはとても難しい
歴史上の人物で、ボクがいちばん好きなのは誰かと言うと、じつは有名な哲学者でも宗教家でもない。宗教家といえば言えるかもしれないけれど、最後は坊主をやめてしまったひとりの坊主だ。彼の名を売茶翁と言う。「まいさおう」とも読むけれど、ボクは「ばいさおう」と読んでいる。
そんな名前、聞いたこともないだろう。知っている人は、よほどの変人だね。もっとも煎茶道の開祖とされるから、そっちの方から知っている人が、たまにいるかもしれないけれど。
1675年にいまの佐賀県で生まれ、1763年に京都で亡くなっている。89歳だから、当時としてはとても高齢だ。どういういう人かというと、若いころは月海元昭という名のまじめな禅坊主だった。諸国をめぐって修行して、それから地元の黄檗宗のお寺でずっと師匠に仕えて、お寺の仕事に精を出した。
ところが、46歳のときに師匠が亡くなったあとの彼の行動が奇妙だ。当然、師匠の後を継いで住職になるものと思われていたのに、それを弟弟子に譲って旅立ってしまう。その弟弟子というのも、大潮元皓と言って漢詩人として知られ、住職になるよりは、自由な活動をしていたかったらしいから、どっちもどっちだが。
10年間くらいの行動はよく分からないが、56歳頃には京都に住み、さらに60歳頃にいよいよ彼の求める自由な生活に入った。それが売茶だ。簡単に言えば、屋台の移動喫茶店。お寺の門前などに茶道具を担いで行っては、店開きをして、参詣の人たちに飲ませた。いまで言えば、ライトバンで移動する縁日のヤキソバ屋みたいなものだ。
でも、いくらでもいい、お金のない人はタダでもいい、なんて言っているから、いつも貧乏。長屋に住んで、お米がなくなって、隣の人に恵んでもらうような生活だ。でも、不思議なことに、彼の周りにいろいろな京都の芸術家や学者たちが集まってくる。
68歳のときに、とうとう還俗、つまり坊さんをやめて、俗人になってしまう。そのときに売茶翁を名乗った。名は高遊外。世俗の外に高く遊ぶ、というわけだ。最後は、老齢で茶道具を担ぐこともできなくなって、ひっそりとひとりで死んだ。
売茶翁は、百首ほどの漢詩を残しているが、面白いことに、すべて売茶生活を始めてからのものだ。これがとてもいい。ボクは大好きだ。ただ、漢詩というのは、説明なしだとちょっとわかりにくいから、ここにそのまま出すことはやめて、下手な意訳でひとつだけお目にかけよう。
夢の中で作る
すっからかんで何にもなし
貧乏もいいさ この一生
破れ窓から寒月が
禅の心と照らしあう
ちょっといいだろう。
売茶翁は、言ってみれば、それなりの中堅企業に勤めながら、出世(社長就任)を前に退職し、何の保証もない孤独で貧しく、浮世離れした自由人として老後を楽しんだ。スゴイじゃないか。
江戸時代にはいろいろな自由人がいた。芭蕉なんてのもそうだけど、彼はそれなりに俳諧の師匠として生活の保証はあったし、たくさんの弟子に囲まれていた。本当に貧しく、孤独だった点で、売茶翁と似ているのはむしろ良寛あたりかもしれない。彼ももともと禅寺でまじめな修行をしていたのだけれど、それについて行けなくて、故郷で生活の保障のない自由人であることを選んだ。明治以後になってからは、種田山頭火なんてのが似ているかな。みんな仏教に縁があるのがちょっとおもしろい。
でも、こんな売茶翁みたいな生活、憧れはするけれど、自分にはちょっと難しいかな、と思う。けっきょく、大学で暮していると、企業にいるのと同じで、臆病になるんだね。やっぱり生活保障がほしい、老後の保障が欲しい、病気になったらどうしよう、なんて思ってしまう。寂しいサラリーマン根性だ。定年退職してからならば、ということもあるけれど、ここまでとても思いきれないだろう。
悔しいね。自由人であろうとしたら、やっぱり並大抵のことではできない。自由はそれと引き換えの犠牲を伴う。そこまで徹底できた人だけが得られる世界がある。
でも、そこまで極端に行かなくても、世の中と自分がどこかズレていると感じたら、そのズレを大事にして行けば、何か開けてくるところがあるんじゃないか。自分が世間にうまく当てはまらないことはとても苦痛だ。いつも劣等感のかたまりになってしまう。
でも、だからこそ、世間にどっぷりつかって、うまくやっている連中に見えない何かが見えることもある。せめてそれを大事にしてみよう。心まで売り渡したらいけない。無理に心を世間に合わせることはない。せめて心だけは本当の自由を求めていたい。たとえそれが幻想だとしても。
1999.7.24