なぜ人を殺してはいけないのか?

 『なぜ人を殺してはいけないのか?』(河出書房新社)という本を読んだ。永井均と小泉義之というふたりの哲学者の対談と、その後に対談をもとにしてそのふたりがそれぞれ自説を展開している。

 神戸の少年による猟奇的殺人事件があった後で、ある総合雑誌が、この問題を特集して、話題になったことがある。本書はその特集をもとに、ふたりの哲学者が問題を深めて検討したものだ。

 帯に、「14歳の中学生に「なぜ人を殺してはいけないの?」と聞かれたら、あなたは何と答えますか」とある。実はこれはボク自身のことだ。ボクは中学生の頃、同じ問題にすごく苦しんだ。大江健三郎さんによると、そういう問いを立てること自体が品位がないんだそうだが、そうとすれば、ボクは随分品位のない子供だったわけだ。もっとも大江さんの若い頃のセックスばかりの小説が、それほど品位があるとは思わないけれどね。どっちにせよ、そんなことを問題にする少年は自分では殺すほどの勇気もないから大丈夫だ。

 ふたりの対談はおよそ噛み合っていない。ボクは、ニーチェを持ち出して、殺したっていいじゃないか、的な議論に持ってゆく永井さんの方が好きだ。でも、後の永井さんの文章はひどい。この問題は他の本で論じたから、そっちを見てくれ、なんて自分の本の宣伝ばかり書いてあって、これだけではさっぱり分からない。自明の論理だ、みたいなことが書いてあるけれど、ちっとも自明でない。

 その点、小泉さんの論のほうが誠実だ。レヴィナスを持ち出して、大体の方向は分かる。でもなんてしち面倒くさい議論をするのだろう。途中で投げ出した。こんなに面倒な議論が本当に必要なんだろうか。

 結局、この本は見掛け倒しだ。ちっとも本質的な問題になっていない。

 結論は簡単だ。人を殺してはいけないという論理などない。現に戦争が起これば必ず人殺しが行われる。死刑という合法的な殺人だってある。そういうのを否定する論理があるのだろうか。例えば戦争はいけないという。でも、すべての戦争がいけないのだろうか。日本軍の侵略に対して戦った中国の抗日戦の正当性を誰も否定できないだろう。

 殺人を認めれば、人はみな殺しあって秩序が保たれない、と言うかもしれない。だから社会では通常殺人は厳しく罰せられる。罰則が十分機能しなければ、自分のみは自分で守らなければならなくなる。アメリカの銃社会が典型だ。目には目を、というわけだ。だから、殺人がいけないという先験的な規則があるわけではない。やむをえない殺人もある。

 それならば、やむをえない殺人は仕方がないが、不必要な殺人はいけないというかもしれない。でも、条件をつけてしまえば、もう殺人が絶対的にいけないということではなくなる。あくまで相対的な問題でしかない。「理由なき殺人」は、その理由がないことの中に理由があるのかもしれない。カミュの『異邦人』が提起した問題だ。

 だから、14歳の少年が「なぜ人を殺してはいけないの?」と尋ねたら、その答は決して一義的には決まらない。具体的な場に応じて、いろいろな答え方が可能だ。それは哲学的な問題であるよりは、状況に応じたカウンセリングの問題だろう。

 まず人を殺しそうもない少年がこう尋ねたら、それは哲学的な問題として、それこそニーチェでも読ませればいい。でも、もし本当に危なそうな少年だったら、これはその少年の心理とか、家庭背景とかをしっかり押さえて、カウンセリングが必要になる。

 この間、動物生態学の研究者のおもしろい発表を聞いた。人間のどの社会をとっても、殺人の割合が最も高いのは二十代の男性だと言う。これは他の動物と同じで、メスを求めるオス同士は常に生命をかけて闘いあう。だから、動物学的な法則からいっても、これは納得のいく状況だ。

 ところが、今までの統計上で、唯一の例外がある。それは戦後の日本だ。戦後の日本は二十代の男性の殺人率が低く、戦後すぐの生まれの男性(今の五十代)がずっと高い率を示しつづけていると言う。つまり、統計的にいうと、今の日本の若者は、特別キレやすいわけではなく、むしろ標準よりもずっとおとなしくて、殺人傾向が少ないのだ。

 戦後の日本は動物学的な法則に合致していないのだ。これはいいことだろうか。動物の自然状況からあまりに離れてしまっているのではないか、などと不安にもなる。そう考えると、殺人にも動物学的な意味があるとも言えるかもしれない。

 ともあれ、問題は人を殺していいのか、悪いのか、ということではない。それは哲学の問題ではない。それはより実際的な社会の規則の問題だ。それなら、何が哲学の問題なのか。殺すか殺さないか、ではなく、たとえ殺しても殺さなくても、人は他者と関わらずには生きられない、ということが問題なのだと思う。殺すとき、それは殺すという方法で他者と関わっている。どんな形であれ、他者と関わらずには生きられない。生きるということは、他者と関わるということだ。

 他者とは何か。これこそ厄介な問題だ。他者は私にとって不可避の存在であるともに、同時に邪魔でうるさい存在だ。だから、一方で他者との共存を求めるとともに、いつも他者の抹殺への欲望がうずまくことになる。人を殺そうとまでは思わなくても、ある人がいなければいいのに、と思うことは誰でもあるはずだ。「お父さんなんていなければいいのに」とか、「○○君なんか死んでしまえ」なんてことを一度も思ったことのない子供はいないだろう。

 こうした他者との関わりがすべて煩わしくなれば、自分の存在を抹殺するほかない。自殺だ。自殺と殺人は同類のものだろうか。確かに生命を抹殺する点では同じだ。だが、殺人がある特定(あるいは不特定)の人の抹殺に限定されるのに対して、自殺は世界そのものを抹殺しようとすることだ。全世界を抹殺できなければ、その世界を認識する自分を消してしまえばいい。

 だから、自殺と殺人は同一視できない。次元の違う問題だと思う。

 

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