【「不登校」と「登校拒否」について】

【プラス思考で不登校を受けとめる】

【「問題行動」へと追い込む周囲の無理解】

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野村 俊幸
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 最後になりますが、私は今、自分の生き方を問い直す契機を与えてくれたという意 味で、そして、そのことを通じて多くの方々との素敵な出会いを与えてくれたという 意味からも、「登校拒否」は娘たちから親への素敵なプレゼントであった、と考えて います。

 それと 、このレポートでは、「不登校」ではなく「登校拒否」という言葉を用い ています。文部省は「不登校」という用語を用いるようですが、これは「学校に行か ない」という状態を示すもので、価値判断抜きのソフトな表現と言えます。  しかし、学校に行こうとしても身体が拒否して行けない、学校を拒否せざるを得な いところに追い込まれている子どもたちが膨大に登場していること、更に、まだ少数 派かもしれませんが「学校システム自体が自分には合わない、意味がない」として 「登校しない選択」をする子どもたちも増えている現状を考えると、「登校拒否」 (=登校はいやだ)という言葉の方が、子どもたちの叫びがリアルに伝わってくるよ うに思われます。

 また、不登校については、精神病理的(学校恐怖症など)あるいは家族病理的(母 子分離不安など)アプローチの時代が長く続き、このことが不登校への偏見を助長 し、本人・家族をどれだけ苦しめてきたか図りしれません。  しかし、多くの不登校児やその家族は、様々な模索を続けながらそのような偏見を 是正するための実践や活動に取り組んできました。もはやそのような見方では説明の つかない急増ぶりに、さすがの文部省も「不登校は誰にでも起こりうる」という見解 を打ち出しましたが、基本的には未だ学校復帰が解決であり、そのための「対策」と いう発想の枠内にとどまっているように思われます。  不登校13万人(実数はもっと多いと思われますが)時代を迎え、むしろこのこと を、受験や過度の競争からくる歪んだ社会を変えていくためのエネルギーにしていく という、前向きの発想が求められれいるのでははないでしょうか。

 そもそも登校拒否は「問題行動」なのでしょうか? 私自身が体験し見聞きした、 限られた事例からの意見ではありますが、家庭・学校・地域などその子どもの周囲 が、登校拒否を「問題行動」であると考え、克服や治療・矯正などの対象としてその 子に関わることこそ「問題行動」だと思うのです。  なぜならば、「克服」して学校に戻そうという行動は、子どもによって「拒否」さ れた学校の現状や本質を問い直すことなく、「学校に行けない=社会に適応できな い」弱さであると子どもを責めることに帰結します。また「治療・矯正」というの は、学校に行かないことをもっぱら子ども自身の問題とする考え方であり、子どもが 提起している学校システムの問題点(教師にとっても子どもにとっても)を理解しよ うとしない姿勢につながっていきます。  そして、子どもはこのような理不尽な抑圧に対し、それを自分自身へと転化させれ ば「ひきこもり」や「自傷行為」などへと追い込まれます。外に向かえば「家庭内暴 力」や「校内暴力」など、攻撃的な「問題行動」へと転嫁させる場合もあります。大 人たちのこういった「問題行動」が子どもたちを「問題行動」へと追いつめているの ではないでしょうか。  しかし、問題行動などではなく、その子はともかく一休みしたい状態であり、場合 によっては学校という場を通らずに成長することが、その子らしい生き方なのかもし れないくらいにおおらかに考えて、丸ごとその子を受け止めることから出発すれば問 題行動には至らず、元気な生活を続けるケースが大半であるように見受けられます。

4 まとめ:登校拒否は「問題行動」か

(4)進路選択の自己決定を

 現在の進路指導は、「どこかの高校に入れる」ことを第一の目標としているよう に見受けられ ます。このままでは、高校段階での登校拒否や中退が、更に増え続け るでしょう。もちろん、高 校側でも魅力ある学校づくりの努力はされているので しょうが、回り道のようでも、子どもと親、 学校が「何のために進学するのか」と いうことを率直に話し合い、進路は学校ではなく、自分た ちの責任で決めるという ように意識改革を進める必要があると思います。   そのためにも、まず親自身が、今回のバブル崩壊を奇禍として、「良い大学→良 い就職→良い 生活」という学歴信仰は、もはや幻想であることに早く気がつくこと が大切でしょうし、学校も また、過度の進学競争を煽るような進路指導は控えてい ただきたいと願っています。

 「不登校対策」という発想自体を転換してほしいのです。問われているのは「学 校システム」 であり、大人たちの「子ども観」、さらには大人社会そのものではな いでしょうか。このごろは 特に、「最近の子どもは」云々という言い方が流布され ていますが、子ども社会の歪みは、大人 社会の歪みの反映であることを、大人の側 がまず自覚することから始めなくてはならないと思い ます。例えば「いじめ」とし か言えないようなリストラを放置して、子どもに「いじめをやめよ う」などと説教 しても、いかにも説得力が弱いのではないでしょうか

(3)「学校システム」自体の問い直しを

(2)「学校の役割」の見直しを

  その一環として、「親の会」やフリースペースなどとも交流し、場合によっては これらの「社 会資源」を積極的に活用することも検討してほしいと思います。それ は決して学校の責任放棄で はないし、むしろ今求められいるのは、父母たちと率直 に話し合いを行いながら、「学校として 対応できること、できないこと」について はっきりさせ、学校が過重な役割を背負い込むのを避 けることではないでしょう か。この背負い込みが、果てしない規則の制定などの管理強化につな がり、子ども たちをさらに追いつめるという悪循環になっているように思われます。 。

 02年1月28日、鹿児島地裁は、知覧町の中学3年生村方勝巳さんが集団暴行な どのいじめにより自殺し、両親が加害者5人と中学校設置者の知覧町に対し損害賠償 を求めていた民事訴訟で、いじめの事実を全面的に認め、5人のもと生徒に4483 万円、町に対し1320万円の支払を命じる判決を言い渡しました。この中で、もと 同級生らの責任の割合に関して、原告両親は、自殺の前日に勝巳さんから被告生徒ら の暴行を受けていることを聞いていたが、加害者とその親が勝巳さん方を訪問し、形 ばかりの仲直りをさせたことをもって解決したと考え、自殺当日の朝にも学校に行く ように説得したことなどを「原告両親の過失」と認定し、損害賠償額から4割を過失 相殺で減額しました。 子どもを守るために学校を休むことは権利であり、大切な選択肢であるということ についての理解が社会に十分浸透していない現状において、子どもを学校に行かせた 両親の過失を4割も認めるのは妥当かどうかという疑問はありますが、学校復帰を 「不登校対策」の柱とするような学校現場や教育行政のあり方に警鐘をならすもので あると思います。あわせて、親にとっても、子どもが学校生活を巡って何らかの葛藤 や悩みを抱えている時に、「何のために子どもを学校に行かせようとするのか」が問 われているのだと思います。繰り返しになりますが、学校は命を削ってまで、人間と しての権利や尊厳を否定されたまで行くところではありません。

(1)「学校に行かない」選択肢の受容を

3 学校や教育行政に望むこと

※「いじめ」問題との関連での補足  いじめに遭って自ら命を絶つ悲報が今も絶えず、その度に暗澹たる思いにかられま す。きつい言い方になりますが、「学校は命を削ってまで行くところではない」と思 います。確かに、いじめは決して許されることではなく、いじめを防ぐ努力、いじめ られた子どもたちのサポート、更にはいじめに走らざるをえなかった子どもたちへの ケアは学校の責務であり、家庭をはじめ関係者がいじめに真正面から立ち向かう努力 は大切なことでしょう。  しかしまず第一に大切なのは、いじめをうけている子どもを守ることです。そのた めにも、もっと気軽に学校を休める環境づくり(子ども・保護者・学校などの意識改 革、欠席扱いにしないといった仕組みなど)が必要ではないでしょうか。いじめは明 らかな人権侵害であり、人権侵害が行われているような場所に行くことを拒否する権 利が子どもにはありますし、行かせないことは子どもを守る親の義務でもあると思う のです。  いじめを受けて登校できなくなった場合は、「いじめを無くして登校できるように することが子どもの権利を守ることである」というのは正論かもしれませんが、解決 までは時間もかかるでしょう。一般に、何か事故や危険があった場合、その原因が明 らかにされ安全が確認されるまで、その施設や用具を使わない、あるいは現場に立ち 入らないというのは、事故防止の鉄則です。同様に、「今後はいじめられない」とい うことを確信できない間は、堂々と学校を休む方が賢明であると思います。「君子、 危うきに近寄らず」の格言も一理あるのではないでしょうか。「学校を休んではいけ ない」という信仰が未だに強いために、結果的子どもを危険に晒すことになってしま うように思われてなりません。

  学校としての使命感や責任感はもちろん大切ですが、学校に行かないことも、 「ひとつの選択 肢」としてあるのだ、という柔軟な発想を持ってほしいと思いま す。学校復帰がその子のために なる子もいれば、学校以外で生きることがその子の ためになる子もいます。まずは、子どもが家 庭で「安心して休める」環境づくりを サポートしていただき、進路や生活のあり方などについて は、「指示」ではなく 「情報提供」をお願いしたいものです。

 ささやかな体験ではありますが、以上のようなことを基に、私は今、学校や教育行 政に対し、次のようなことを切に望んでいます。

今、学校に行かないことを選択する子どもたちが増えています。ここは不登校を 治したり、学校へ戻すことだけを目標にするところではありません。子どもたちに多様な居場 所を保証していきたいと思います。子どもたちが、自由に、自分の意志で選べる場の一つと して存在したいと思っています。

【6について】  学校との関わりについては、子どもにとって、まず家庭が「安心して自分が認めら れる居場所」となるよう親自身が心に決め、その考えと子どもの気持ち(何をして欲 しいか、あるいは、「何をして欲しくないか」)について、的確に学校に伝えること が大切だと思います。子どもの人生に第一に責任を負うのは親であり、学校ではあり ません。また、父親がいる場合は、父親も学校に関わっててほしいと思います。残念 ながら日本は未だ男性優位の社会であり、学校も特に父親の話はそれなりの重みを 持って受け止めてくれるように感じられます。それと、担任の先生だけではなく、校 長先生にも直接会ってお話をし、ご理解いただくことも大切であるように思います。

2 親たちの不安について

函館では、登校拒否と教育を考える親の会「アカシヤ会」が7年前から活動をして おり、私たち夫婦も参加させてもらっており、この会で多くのことを学び、大変に励 まされました。会では毎月例会を開いて、経験を語り合ったり、情報交換などを行っ ていますが、登校拒否をめ ぐる親の不安については、次のようなことが数多く話題にのぼります。
 1 学力が遅れ進学できないのではないか。
 2 学校に行かないと社会性や適応力が身につかないのではないか。
 3 学校くらい我慢できないと世の中に通用しないのではないか。
 4 何もしないでゴロゴロしていると無気力人間になるのではないか。
 5 学校に行かないのなら、せめて◯◯をしてほしい…。
 6 学校とどのように関わったらいいだろうか。

 学校に行かないわが子を毎日目の前にすると、親がこのような不安を持つのは当然 かもしれませんが、「親の会」での話し合いなどを通じて、私は次のように考えるよ うになりました。

【1について】  そもそも「学力」とはなんでしょうか?「より良い」進学のために高い点数を取る ことなら、そんなに意味あることとは思えません。大切なのは「生きる智恵・力」で はないでしょうか。それならば、今の学校以外にも、それを獲得する様々な場やルー トがあると思います。

【2について】  「学校」だけが社会性を身につけるところなのでしょうか。現在の学校システムや 秩序に「適応」できることが、それほど意味のあることだとは思えなませんし、現在 の学校という「時間と空間」に「合わない」子どもがいても不思議ではありません。 学校以外で自分らしさを発揮できる子どもがいてもいいし、現に、わが家の娘たちは そうであったと思います。

【3について】  必要な「がまん」もあれば、無意味な(場合によっては有害な)「がまん」もあり ます。確かに、学校もひとつの組織・機構ですから、一定の秩序やルールが必要だ し、その限りでは「がまん」する事を覚えるのは大切でしょう。問題は、具体的にど のような秩序やルールが求められているのか、それが子どもにとってどのような意味 があるのか、ということであり、その検証抜きに、がまん強さを求めるのは大人の傲 慢なのではないでしょうか。

【4について】  登校拒否は「無気力」なのでしょうか? 実は、みんなが普通に行っている(最近 はイヤイヤ、無理に行っているという子どもが激増しているようですが)学校に、 「行かないという行為」をすることは、ものすごいエネルギーのいることなのです。 それが自覚的な選択として本人に意識されていないから、「頭が痛い、お腹が痛い」 などという形で身体の不調として表現されるのであり、これは生理的な身体防御反応 なのです。その子どもは、ものすごい力を振り絞って「学校に行かないことをしてい る」のだ、ということを理解してほしいと思います。

【5について】  そのような状態の子どもに対し、「学校に行かないのなら、その代わりに何かをや りなさい」と言うのは、無理な要求であると思います。まして、「どこそこへ行けば 出席に日数にカウントされるから」などいう理由で、どこかに行かせようというの は、ますます子どもを追いつめるだけです。登校拒否していた子どもたちの多くが、 その時を振り返り、異口同音に「あのときの時間は自分にとってとても大切な時間で あった」と語っていることを大切に受けとめたいと思います。「繭ごもり」の時間 は、人それぞれであり、じっくりと子どもの成長を待つ心のゆとりを、大人の側が持 ちたいものです。

 函館でもこの4月から、待望のフリースペース「自由高原」(この素敵な名前は、 参加している子どもたち自身が付けたものです)がオープンし、私も微力ながら少し お手伝いしていますが、その「設立の趣旨」では、次のようにうたっています。

(2)「明るく元気な登校拒否」を歩む次女

 次女の場合は小学4年生から登校拒否となり、中学進学時に2ヶ月ほど通学しまし たが、その後は全く行かないで、99年春に、中学を無事卒業しました。  長女には誠に申し訳ないのですが、長女の教訓から、学校に行かないという生き方 が次女の個性なのかもしれないと受け止め、次女に対しては一切登校の働きかけはせ ず、学校にもそのことをきちんと話をし、登校刺激をしないようにお願いして、理解 してもらいました。次女は次女なりに様々な葛藤や悩みはあったでしょうが、親も本 人も登校拒否をプラス思考で考えたことで、お陰様で元気に成長し、現在は姉と同様 に通信制高校に在学、函館ダンスアカデミーに所属して、大会やイベントなどであち こち飛び回わり、2001年4月にはニューヨークの日本フェスティバルという行事 に招待され、カーネギーホールで踊るという貴重な体験もすることができました。 「登校拒否をしなかっらこんな体験できなかったよね」と話す次女は、「明るく元気 な登校拒否」ということになるのでしょう。
 実は、親にとっても、次女が中学校に行かなかったことですごく良かったことがあ ります。それは、受験生の親をやらずにすんだということで、学校のテストや通信簿 の成績とか、偏差値がどうのこうのといったことで一喜一憂しないですみ、そのよう なファクターで彼女を氷解しないですんだということで、私たちは気持のゆとりを 持って彼女を受けとめ、接することができたように思います。ただ、誤解のないよう に申し上げますが、私は受験勉強で頑張ることが無意味だとか、必要ないことだなど とは全く考えていません。自分の夢や目標を実現するために、一生懸命勉強に励み合 格を目指すという努力はとても貴重なものだと思います。わが家の場合はそのような 選択をしなかったというだけの話で、どちらが良いとか悪いとかの話ではありませ ん。子どもは一人ひとりみんな違うわけですから、自分に適した道をゆっくり選ぶ、 時には失敗したり、試行錯誤しながら進むことが大切なのだと思います。
 結果的にわが家の場合、通常の学校というルートを通らなくても、長女も次女も無 事に成長し、現在は元気に生活してます。むしろ、登校拒否を否定的に考えずに、学 校へのこだわりを捨てることで、より生き生きした生活を送ることができたようにさ え思います。

  ※「いじめ」問題との関連での補足
 恥ずかしいことですが、長女が登校拒否になったひとつのきっかけに、相当にひ どい「いじめ」があったことを、かなり後になってから知りました。長女の話では、 クラスの女子生徒が幾つかのグループに分かれて、トイレに行くのも一緒といった行 動になじめず、どのグループにも属さなかったために、次第に無視され孤立していく 中で、何人かの男子生徒から執拗な言葉の暴力(時には物理的な暴力もあったとのこ と)によるいじめを受けたそうです。しかし、学校を休むということなど考えられ ず、「ここで負けては自分が駄目になる」と必死の思いで通学していたとのことであ り、「親に心配をかけたくない」「自分の弱さ見せたくない」などの思いから、親に は話しできなかったと言います。そんな状況を何も知らず、疲れ果てて登校できなく なった娘に対し、必死になって学校に行かせようとした自分の行為を、今更ながら後 悔しています。
 次女が中学校に通学したときも、周囲から「浮く」状態となり、いじめを受けまし た。小学高学年の時に登校していないので、学校内での「振る舞いの要領」が良くわ かず、例えば、授業で先生の質問の答えが分かったならば「手を挙げないと先生に悪 い」と思って必ず挙手するとか、音楽の授業で「元気に歌うように」と言われたので その通り声を出したら自分だけが目立ってしまったとか、色んなことがあって「変 わった子」と見られ、一部の女子グループからいじめられたようです。そんな次女の 様子を、ある先生が「君は帰国子女のようだから」と表現したそうですが、巧い例え だと感心した一方で、そのような子どもが住みにくい学校ならば、無理に行くことも ないと親も思うようになりましたし、次女はどちらかと言うと、自分から「学校を見 限った」という雰囲気でした。だから、登校しなくなってからも、いじめグループ以 外の仲の良いクラスメートとは、放課後や休日は一緒に遊んでいましたし、その交友 は今も続いています。

(1)長女を追いつめた学校へのこだわり

1 わが家の娘たちの場合

 現在25歳の長女が登校拒否を始めたのは、10数年前の中学2年の時でした。詳 しく書くと長くなるので省略しますが、当時は登校拒否についての情報も理解も乏し く、親は何としても学校に行ってもらいたいとの一心で、無理矢理車に乗せて連れて 行ったり、学校もまた熱心に学校復帰の働きかけをしました。中学3年になり、この ままでは高校へ行けないということで、留年してもう一年頑張ろうということになっ たのですが、このことが長女をますます追いつめることになってしまい、外出もでき ずに昼夜逆転の生活となり、気持ちも激しく落ち込むなど、心身ともにズタズタの状 態にしてしまいました。  私たちも娘の状態を見かねて、取りあえず「学校に行かなくてもいいよ」とは言っ たものの、子どもの感性は鋭いもので、本音のところでは学校に行ってほしいという 親の気持ちを娘は見抜いてしまい、そんな親の気持ちに応えられない自分を責めると いうことで、彼女をますます追いつめてしまいました。今でも当時を思い起こします と、長女には申し訳ない気持ちで一杯になります。  結局、私たちは「高校進学しなくてもいいのだ」ということに思い至り、タテマエ ではなく本音で学歴や進学へのこだわりをやめることで、彼女との信頼関係を取り戻 すことができたように思います。今でも「無理に高校に行かせることはないんだ」と 思い至った時の解放感〜孫悟空の頭を縛っていた輪が外れるような感覚とでも言いま しょうか〜を鮮明に覚えています。  このように言うと、何かもの分かりの良い親に聞こえそうですが、全然そんなこと はなくて、思い出してもゾッとする泥沼のようなやりとりを経て、まず妻が彼女を受 け入れることができるようになり、それから相当に遅れて私もだんだん気が付きはじ めるという状態でした。一般に、男親の理解が進まないのは、わが家に限らず一般的 な傾向のようで、これは「社会常識」なるものに男性の方がより深く絡め取られてい るからなのでしょうか。  その後、紆余曲折を経ながらも、彼女はアルバイトなどをしながら通信制の道立有 朋高校を卒業、社会人となり、良き伴侶を得て二児の母として元気に暮らしていま す。もし、私たちがあのまま学校にこだわり続けていたら、孫の顔を見られたかどう かわかりません。

野村 俊幸 (運営委員・函館・登校拒否と教育を考える親の会「アカシヤ会」)

  最近は、登校拒否についての理解もだいぶ進み、「何が何でも学校に戻さなければ」という考え方は小さくなってきたように思います。しかし、いざわが子が登校拒否をはじめると、親はそう冷静にはなれず、パニックに陥る方が大半だと思います。 学校の先生も「無理な登校刺激はまずい」ということは頭で理解しても、このままで いいのだろうかと悩むところでしょう。 そこで、以下、わが家の娘二人の登校拒否 体験を報告し、そのことを通して考えさせられた現在の教育をめぐる諸問題について 幾つか問題提起をさせていただきます。

これは、2000年1月、金沢市で開催された第49次教育研究全国集会「いじめ・ 不登校」分科会で報告したレポートに一部加筆したもので、「親の会」での懇談や、研修 会・講演会などの資料として提供しているものです。不登校でお悩みの方々や、このような問 題に関心をお持ちの皆さんの参考になれば幸いです。ご意見、ご批判をお待ちしております。

わが子の「登校拒否」から学んだこと

シンボルマーク
1 わが家の娘たちの場合
 (1)長女を追いつめた学校へのこだわり
 (2)「明るく元気な登校拒否」を歩む次女
2 親たちの不安について
3 学校や教育行政に望むこと
 (1)「学校に行かない」選択肢の受容を
 (2)「学校の役割」の見直しを
 (3)「学校システム」自体の問い直しを
 (4)進路選択の自己決定を
4 まとめ:登校拒否は「問題行動」か
 【「問題行動」へと追い込む周囲の無理解】
 【プラス思考で不登校を受けとめる】
 【「不登校」と「登校拒否」について】
目次