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ここでは最近読んだスペイン語の本を時系列で並べています。スペイン文学だったりラテンアメリカ文学だったり。たまに男性向け話し方の本だったり、フェミニズムのエッセイだったり。昔の方が当たりの名作に遭遇することが多かったので、そのうち昔読んだ本のページも作ろうと思っています。
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■再読希望!
本棚も人生ももう一度読みたい本で満ちている。「ドン・キホーテ」「薔薇の名前」「やし酒飲み」などなどなど。
■あな楽し哉、博物学
ロバや野うさぎを素朴なフランス語で描写したルナールの「博物誌」も博物学なら、マルコ・ポーロの「東方見聞録」も博物学の産物なのだ。
■装丁買い!
美しい装丁の魅力には抗いがたい。ちょっと抗ってはみるけれど、無駄な抵抗である。かくして、今日も衝動買いはとまらない・・・。
■ヨーロッパはまだまだおくが深い
遅刻のイェッタトーレってなに?ドイツ人の夏休みが2ヶ月もあるって知ってた?などなど。まだまだ追加していきます・・・。
■わたしの好きな本屋さん
南阿佐ヶ谷の書原、国立・銀杏書房、京都・三月書房、バルセロナのあの本屋、マドリッドのこの本屋・・。
■怖い本
江戸川乱歩、エドガー・アラン・ポー、夢野久作、ラブクラフトから「ぼっけえきょうてえ」やドストエフスキー、カフカまで。
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■「La ciudad de los prodigios」
Eduardo Mendoza著
この小説は数年前書店に並んだ頃たぶんベストセラーだった。今も売れ続けているようで評価も高いようだ。19世紀の終わりから20世紀の中盤にかけて、バルセロナの発展を背景に、事業で成功した男を主人公にした、おそらく社会派ピカレスク小説。ただいま読書中。 Jun_2006
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■「Como sobrevivir al Restaurante Diario」
Magda Carlas著
これもEU統合のツケのひとつか、つい最近までお昼は家に帰って食べるのが当たり前だったいわゆるスローフードな国のスペインにもいよいよ時代の波が押し寄せている。
今でも地方都市はシエスタの習慣があるみたいだけど、マドリッドやバルセロナで働く現代を生きるスペイン人は、いまやお昼休みや1時間、レストランで軽くランチを済ませるのが結構常識なのだ。だけど、その世知辛さを生き抜くためのこのようなハウツー本が出てしまうところが、やっぱりスペインなのだ。今を生きるスペイン人の生活におけるComida(ランチ)やSiestaの位置づけは?スペイン人にとって食べるとはどういうことであり続け、何が変化しているのか。
本音としては個性的であり続けて欲しいスペインの今を確認するため、現在読書中。(まだ全部読んでいません。) Jun_2006
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■「スペイン七千一夜」
堀越千秋著
堀越千秋さんはもともとは画家(この下に紹介している「ラサリーリョ・デ・トルメスの新しい遍歴」の表紙絵も堀越さんのものだ)だけど、プロ級にカンテを歌い、本をたくさん書いているのでプロのエッセイストとも呼ばれるマルチな人だ。マドリッドに住み続けて約七千一夜、というのがタイトルの意味だそうである。実際には何かの雑誌に連載していた日々の生活を文庫本にまとめたもの。
この方の書くものは雑誌などで折りに触れて読んではいたが、一冊というかたちでまとめて読むのは初めて。クスクス笑いながら読めるものが多くて、さすがにマルチな人だけあって文章もうまい。でも、題材がスペイン生活なのでネタに事欠かず、おかしなエッセイが書きやすいのかもしれない。面白い箇所をいくつか引用してみると・・・。
私は、初めてスペインに来たとき、ここはピカソの国だ、ピカソと同じ人々がいるのだ、と思って、町で見かける人々をみな尊敬した。バルで手ぶりもオーバーに、口角泡を飛ばして議論する男たちを見ても(後年わかったことだが、彼らは、太陽のほうが月よりも遠いとか近いとか、十年前のメトロの運賃は三ペセタだった、いや五ペセタだった、とかを延々と論じているのである)(・・・)郵便局員が足し算しか出来ず、切手をナナメに貼っても、バルのボーイが小銭をボッても、銀行員が客を窓口に残してコーヒーを飲みに出ていってしまっても、(・・・)何度も日本人だと言ってるのに「君たち中国人は」と言われても、日本はトルコのこっちか向こうかと問われても(・・・)そんなことは、文字で得た知識をちょっと少なく持っているからにすぎず、その分、つまりキャベツの少ない分だけニラの多く入った餃子のように、文字文化以外のエネルギー、エレキ、霊力、人間力が露に放電するのである。そしてそれがピカソの絵の持つ呪力と同質なのを、私は見出したのである。
この文章は長いが、主旨は最初と最後を読めば分かる。であるが、私に受けたのはむしろ、真ん中に延々と続くサンプリングである。(長いのでここではだいぶ割愛したが。)そう、わたしもバルで繰り広げられる議論の主題の数々はよく知っている。窓口に客を残してコーヒーを飲みにいく銀行員だって何人も見てきた。足し算しか出来ない郵便局員も何人も知っていたし、何度も日本人だと言っているのに「君たち中国人は」と言われたたくさんの経験をふんだんに持っているからである。
スペイン人には「はい」と言ってはいけない、という。「NO」こそ存在証明であり、会話の始まりであるという。たしかにその通り。でも、わたし達日本人は人が良いので「スペインは好きか」と問われるとつい(本当に好きなんだし)「Si」と肯定してしまう。そこで「NO」と言ってこそ、とたんにスペイン人の目は生き生きと輝き出す。まさにその通り!
故郷礼賛、家族礼賛、自己礼賛の三大叙事詩はスペイン人の永遠のテーマである。割り込みはスペイン人のお家芸。そのほかにもお家芸はたくさんあって、その名は「言いくるめ」「空手形」「現金」「泥棒の恩着せ」などなど。そうはいっても、昔はただの「スペイン人」だった彼らも今や「ヨーロッパ人」となり、結構忙しくなっているとのこと。今じゃバルは夜の12時に閉まるという。せちがらくなりました。
フラメンコの魂ドゥエンデの為せるワザか、この方の文章には凄みのある表現がときたま顔を覗かせてそれがまたおかしい。アラブ人のおばあさんである大家さんが、前歯を「墓石のように」ぐらぐらとゆすってみたり、イベリア上空を「死者の魂のように」西に向かってみたり。 Mar_2006
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■「ラサリーリョ・デ・トルメスの新しい遍歴」
カミロ・ホセ・セラ著
これは日本語の本だけど、思いっきりスペインの本なのでこのページに置こう。購入したのはもう8年も前、本に貼られたシールを見ると、平野書店とかいう古本屋である。(高田馬場) この本もご多分に漏れず、品切れ、または絶版になってしまっているようなので、あの時買っておいてよかった。ずっと本棚の奥で熟成していた本書をなぜ手にとったのかよく分からない。けれど、この頃気分が大変カミロ・ホセ・セラなのである。その一方で、気分がピカレスクロマンでもあるのだ。
学生のとき教科で「ラサリーリョ・デ・トルメス」を部分的に読んで、そのインパクトは強くわたしの心に刻み込まれた。なにせ痛快な印象だった。たぶん、日本語で読んだような気がする。例の盲人の主人に仕える部分だ。以来、作者不詳のこのスペインの古典名作を、いつかちゃんと読もうと思って月日が流れてしまっていた。
主人公のラサロは、上記の名作ラサリージョの孫を自認してはいるが、物語の時代背景は不明。スペインがキューバを手放したことをほのめかすくだりがあったり、主人公が最後の方にマドリッドで初めて自動車に乗ったりするので、20世紀前後が舞台背景になっていると思われる。ラサロが仕えるのは、楽師の姿をして実はどろぼうの3人組みだったり、修行者だったり、フランス人のサーカス団だったり、占い師の魔女だったり。どの登場人物もまるでゴヤの黒い絵のシリーズを見るようにピカロな個性を強烈に放っていてなかなか面白い。
しかし、残念なのはこの手の作品にしては、なんといってもやや物語が短く、ちょっとあっけなく終わってしまうこと。わたしはまだまだラサロの冒険譚に同行したい気分だった。本家の方はもっとずっと長編であることを期待する。 Oct_2005
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■「Memoria de mis putas tristes」Gabriel Garcia Marquez
10年ぶりの新作発表だったとのことなので、早速amazon経由で購入、心して読んだ。しかし、のっけから川端康成の「眠れる美女」が引用してあったので、一歩後ろに引いてしまった。この作品を読んだのは大学生の頃だったので、その頃の印象を今のわたしが抱くかどうかは分からないけれど、それにしても正直大変ニガテだったからである。老人文学が一様にニガテとは限らない。(どちらかというと、得意ではないけれど。)内田百閧竏苺囑嵩なんかは大変好きだ。老人文学にくくっていいのかどうか分からないけど、ファンキーなじいさんの金字塔である植草甚一なんかも大好きである。きっと老人のエロス文学がニガテなんだな。若い女性だったわたしとしては、自然なことだろう。
話は90歳の老人が一人称で日常をつづり、91歳を迎えるまでの1年間を描いたものである。生まれた時からその年齢に至るまで両親から受け継いだ立派なコロニアル風の家に住んでいるが、実はすでに大変な貧乏で、蔵書をそろえた図書室も嵐が来れば雨漏りする始末。若い頃から身の周りの世話をしてもらっている女中兼愛人のDamianaもすでに70歳を超えた年齢で(おそらく)、実はかつては彼に恋心を抱いたこともあり、その感情の化石のようなものを体内に残していたりもする。
90歳の誕生日に、老人は処女との一夜を自分にプレゼントしようと思い立つ。そして、ずっとご無沙汰だった娼家の女主人ロサ・カバルカスの取り持ちで、眠れる14歳の娼婦Delgadinaと出会う。(出会う、といっても、彼女はずっと眠っているのだけれど。)
老いらくの恋の情けなさや、老いへのとまどいが、南国の港町のおだやかな日常の中で語られる。
10年ぶりの新作はびっくりするような大作とは違っていた。もし、ガルシア・マルケスを初めて読むというならば、やはり「百年の孤独」とか「青い目の犬」を人には薦めたい。 Sep_2005
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■「Al Volver la Esquina」Carmen Laforet
去年マドリッドのCasa del Libroでこの本を見つけたときは小躍りものだった。Carmen Laforetは「Nada」がその唯一の作品なのだと長らく思っていたからだ。昨年(おそらく)この著者が亡くなったために、それで70年代に書かれた作品があらためて販売されることになったのだと思う。ついでに、Nadaとこの作品以外にも2、3の作品が出版されていることを知った。それにしても生涯で5本の指に入るくらいしか作品を残していない。大変寡作な作家だったのだ。
「Nada」が非常に面白い作品だったので、大変な期待を寄せていた。が、結論から言うと期待を裏切られてしまった。一縷の望みを持って最後まで忍耐強く読み通したが、一言で言ってとりとめがなく、よく意図の分からない作品だった。「クリシーの静かな日々」や「日はまた昇る」などのとりとめのなさをこよなく愛するわたしだけれど。「Nada」では人物の描写のワザがいかんなく発揮されていたにも関わらず、この作品では主人公の画家Martinをはじめとして、全ての登場人物がぼんやりととりとめがない。かろうじてAnitaのきらきら光る目と、ボヘミアンな中年男Amandoのうさんくささぶりが生き生きと記憶に残っている程度だ。
この作品は非常にミステリアスな証言からスタートする。その証言者によると、主人公Martinは、神隠しにあったように行方不明になる。自分の家を訪ねてきた彼が、帰り道曲がり角のところで振り向いて、窓から見送っている娘たちに手を振る。その姿が彼を見た最後で、そのあと彼の消息を知るものはいない、という証言なのだ。その後の彼はトレドに趣き、大雨の夜に昔の女ともだちAnitaと再開する。彼女を通じて裕福な一族やその友人など、周囲のいろいろな人たちに知り合い、とりとめもなく過ごす日々を描いたものでMartin自身自分がこの時期「行方不明」であったことを随所で自覚している。
随所に繰り返される「グラナダの夜」(Noche Toledana)は「長い夜」という意味を表す熟語らしく、「グラナダの夜」を通して神隠しにあった若い男の話とくれば期待は高まってもしかたない。しかし、読後感はさんざんであった。
Carmen Laforetは「Nada」で全才能を使い果たしてしまったのだろうか。そういえば「Nada」で描かれたBarcelonaの路地は素晴らしかったが、MadridおよびToledoを舞台にしたこちらの作品には、わたしの大好きなMadridは全く息づいていないのであった。通りの名前がむなしく羅列されてはいたが。 Aug_2005
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■「Toda la casa era una ventana」Emma Cohen
マドリッドを舞台に1980年代初頭に書かれた作品。きっと留学時代に買ったんだろう古ぼけた版を最近本棚で発見した。若い頃の私は「窓」というモチーフに大変興味があったのだ。81年にはじめてマドリッドを訪れたときのイメージは今から考えると隔世の感がある。そのマドリッドの様子を彷彿とさせるところもあるので、その限りではまあなんとか○。でも、なんだか学芸会の作品を読んでいるような、どちらかというと幼稚な作品と思えた。
主人公Carmenはバダホスのいなかに暮らす素朴な(たぶん美人の)若い女性。恋人は片目の靴職人El Desi。Gaseosaという村のbobo(頭の弱い人)も、Carmenを大変慕っている。年老いた父親とふたりでひっそり暮らしていたCarmenだが、その父親が死を迎え、Gaseosaに嫉妬したEl
DesiがCarmenの家に火をつけるに至り、なんだかんだで村にいられなくなったCarmenがMadridに出て行くまでの展開は、まあ唐突なところもあるにせよ、その先を知りたいというわくわく感を誘う。Madridのお屋敷に雇われてお手伝いさんとして働き出すあたりも、まるでAngela
Molinaあたりが主役の定番の映画にもありそうだ。しかし、その雇われたお屋敷にはいろいろ影があり、奥さんを自殺に至らせる悪いやつのくせに、おもわせぶりな態度でCarmenにも無言のセックスアピールをしかけるCarlosというおやじや、夫の浮気を気に病んで、ゆり椅子にひねもす揺られて部屋に閉じこもり、途中で窓から身投げ自殺をしてしまうくらーい奥さん(この小説が「窓」であるゆえんである。)のほか、ごく普通の明るいふたりのティーンエイジの男の子、そしておきゃんで、ある意味家の切り盛りを一手に引き受けている末娘のCarlota(Lota)という5人家族で構成されている。そして、Carlosのナゾの恋人Aurolaの不在が影を落とす、全体に暗く妙な雰囲気。映画であれば、いやなおやじのCarlosもさしずめフェルナンド・レイなどが演じて中年の魅力を振りまくことになるのかもしれないけれど、筆力でその魅力を表現されてはおらず、ただ、いやなやつなだけであった。物語の終盤に待っているサプライズは、窓から身を投げるAurola。でも、本当は背後から彼女を押したのはLotaであり、それを見ていたのはCarmenだけだった、という筋書き。
ああ、これは、「悲しみよ、こんにちは」に手が届かなかった努力賞だろうか。
写真で見ると美人のEmma Cohenが今どうしているのかはちょっと気になる、今ひとつな作品でした。私は常々名作よりも時代や空気を宿す隠れた作品を発見したい、と思っているが、久しぶりに良い作品と出会いたくもなってしまった。
abr_2005
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■「Piscinas(Relatos pasados por agua, en unas piscinas
de fondo y trasfondo variable)」
全部で100ページに満たない短編集なので読みやすいだろう、と思ったこともあるけど、なによりそのタイトルに引かれて買い求めた。おなじみのCasa
del Libro (Madrid)で、今年の夏に。今年の新刊書だ。執筆者は6人で、ひとりも知る名前がないが、Carlos Meneses
Nebot、Lazaro Covadlo、Asdrubal Hernandez、Javier Tomeo、Miguel Herraez、Alejandro
Gonzalez Foersterという面々である。現在活躍中の作家なんだろうか。El
editor(編集者)と名乗る人の解説によると、6人の作家に「プール」というお題でなんか好きに書いてちょ、と依頼したところ、これらの多種多様な短編小説が集まった、ということらしい。
素晴らしい傑作には出会えなかった気がするけれど、干上がっていて入れなかった砂漠の一軒家のプールや、警察の追っ手を逃れて飛び込んだ窒息死寸前のプールの底も含めて、モチーフがプールなだけに気分のいい短編集になっている。 dic_2004
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■「Jose Guadalupe POSADA - Illustrador de Cuadernos
Populares」
会社から近いので、たまにワタリウム美術館のブックショップに立ち寄る。高い天井まで届く棚、ホコリくさい多国籍な本の数々は、隅々まで目を通せば思いがけない出会いもありそうな予感が充満する、大変お気に入りの場所である。そのワタリウムで新入荷のおすすめ商品の中に見つけたのがこちら。
Jose Guadalupe Posadaは19世紀後半から20世紀初頭にかけてメキシコで活躍した民衆挿絵画家だそうだ。10年ほど前にメキシコ旅行をしたとき、その名に触れることはなかったが、ディエゴ・リベラやフリーダ・カーロにも影響を与えた画家なのだそうである。まずなんとも引き付けられたのがこの赤。これは当時主に女性と子供を読者に想定して出版されていた安価な挿絵本のシリーズで、この赤とスミの2色で印刷されることが多かったのだそうだ。というようなことがほとんどスペイン語で、たまに英語版のページも交えつつ解説されている。
冒険譚、寓話、風俗、歌集などの挿絵を眺めるだけでも飽きないし、Antonio Vanegas Arroyoという発行人によって出版されたというこれらの大衆向け出版物の数々は、本の歴史という観点から見ても大変面白い。かすれた活字を指で追い、物語の続きを想像しつつ挿絵を堪能している。19世紀の、しかもメキシコの出版物であっても読むことができる。こんなとき、スペイン語がわかってよかった、と思う。
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■「Un Largo Silencio」 Angeles Caso
昨年(2003年)の夏、Madrid、St. DomingoのVipsで買ったようだ。Editorial
Planeta社のこのシリーズがちょうど新刊で平積みの棚を占拠しているときだった。現代の作家の作品を集めたもののようで、他にも何冊か購入したと思う。(どっかにあるはず・・。)スペインの書籍の装丁はイマイチだとかねがね思っているが(だってたいていは有名どころの絵画作品をプリントしただけのものだ)、でもこの装丁はなかなか悪くないでしょ。
こちらの作品は2000年度Fernando Lara賞という賞を受賞しているので、やはり最近の作品であるようだが、時代は市民戦争前後、Castrollano(どこ?Valenciaの方の港町かな〜、と思いながら読んでいたんだけど)を舞台とした、ある家族の物語。中流の、しかし教養のあるこのVega一家が、共和派であったために辿る辛い運命と、残された女たちが力を合わせて生きる様を描く。
物語はある地方都市(のちにCastrollanoであると判明)で雨の中行われる聖週間のプロセッションとそれを見守る群衆を描くことから始まる。この一大宗教行事の俯瞰図を突然斜めに切り裂くように一台の列車が駅に到着、疎開地から故郷に帰ってきた主人公たちが疲れきって客車を降りる、という演出で物語は始まる。この視点のダイナミックな動きは鮮やかで、読者はあっという間に作品世界に引きずり込まれる。著者はこのワザが得意らしく、読者は作品中何度か同じような遠近法を体験することになる。
描かれる人々は、物語のスタート時ではすでに亡くなっている父Publio、一環して共和主義者だった父は非常に人格者で人望が厚かった。母Letritaは、教養があり誇り高い、新しいタイプの女性。たぶん生まれるのが早すぎたのが、この人にとっての不幸だったのだろう。それから4人の子供たち、Maria
Luisa、Alegria、Miguel、Feda。そして子供たちを巡る伴侶たち。これらの人々の人生が章ごとに語られる。非常に強い意志と瞳を持ったMaria
Luisaは繊細な音楽家Fernandoと恋に落ち幸せな結婚をするが、その後Fernandoは前線に行き、捕虜となって収容所から出て来ることができない。我慢強くおとなしいAlegriaは、ハンサムな警官Alfonsoと結婚するが、これがとんだ暴力男であることが分かる。Merceditaを授かることは出来るが、2番目の子供(双子)を夫の暴力のために失う、という悲劇に逢う。Miguelは写真家にして活動家。漁師たちの住む貧しい地区に住み、自由奔放に生きる魚売りの女Margaritaと結婚するが、まもなく戦場で死亡する。末娘のFedaには恋人がいたけれど、彼はFrancoの勝利とともに出世街道を約束された“ブルジョア”の若旦那で、そうした政治的立場の違いから、Fedaは失恋することになる。
残された家族の女たちはAlegriaのひとり娘、Merceditaの将来を案じている。“負け組”である共和派の烙印を押されていては、幼いときから辛い人生が待っていることは目に見えているからだ。辛い時代であっても人は与えられた時代の人生を生きていかなければならない。それでも一家はMercededitaが次の時代を生きるひとであることを知っている。そこに、ほんのちょっとの新しい風を予感しながら、物語は終結する。
わたしがはじめてスペインに行った1981年はまだFranco死亡のあとの政変が間もない頃で、まちを歩いているだけで暗い歴史の傷跡が実感として感じられたものだった。この物語はわたしがスペインで出会った多くのおじいさん、おばあさんが青春を過ごした時代の空気を伝えてくれる。時は過ぎて、スペインもいつの間にかずいぶん都会になったものだけど、きっと日本と同じように、負の遺産を語り継ぐ課題に直面しているタイミングなのだろう。
oct_2004
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■「La Ultima Noche que Pase Contigo」 Mayra Montero
昨年の夏、スペインに行った帰りBarajas空港で購入したもの。タイトルと表紙の絵が音楽的で、ちょうどCDを買うような気分で購入した。(たしかに作中多くのboleroが登場する。)作者はキューバで活躍するキューバ人だそう。
ハバナに住むCeliaとFernandoは推定年齢50代のわりと裕福な夫婦。娘を嫁がせたのを機に、カリブ海クルーズの旅に出かける。ここから先が大変渡辺淳一的。40代にとっくに突入しているわたしであるが、中高年の性的クライシス風のこのテのテーマはあまり好みではなく、問題意識も希薄なんだけど、でもとりあえず最後まで読んじゃった。南の風にあたって夫婦それぞれが妙に官能に芽生えたり、地元の黒人とのアバンチュールが描かれたり、ところどころエマニュエル婦人風でもある。(←実はちゃんと見たことはないのだが。)夫婦それぞれの過去の恋愛の記憶がフラッシュバックされ、そこに同船する謎の白髪女性(自称ハープ奏者)と彼女の心の傷、Fernandoの祖母の晩年の恋愛などが複雑に絡み合い、終わり方はちょっとホラー風でもあるテイスト。カットバックで挿入される祖母の恋愛の相手は同年輩の女性(つまりおばあさん)で、そこがやっぱり日本にはありえなさそうな設定ではある。枯れない人々の恋愛多重奏曲の、アクセントはシナモンの香り、白髪フェチ、そしてボレロ・・。
人生は短く、読みたい本は目白押し、という状況を考えると、わざわざ読まなくてもいいかもしれない一作です。
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■「Plaza del Diamante」 Merce Rodreda
原語はカタランで書かれたもののスペイン語訳。いつ、なぜこの本を購入したのかは全く記憶にない。かなり年季が入った汚れかたなので、きっとあちらに住んでいたころにでも買ったのだろう。予備知識もなく、装丁も好みではないので、なぜ買ったのかは分からない。それでそのまますっかり忘れられていたのだが、読むきっかけとなったのは、つい最近ドイツの現代思想家デュットマンという人のインタビュー記事を読んだこと。(最近初来日したらしいのだ。ちなみにこの人についての知識はゼロ。)この人は父親がドイツ人、母親がカタラン人で10代の頃をバルセロナで過ごしたらしいのだが、10代の頃一番感銘を受けた読書体験として、このタイトルを挙げていた。記憶の片鱗にかするものを感じて、本棚を探してみたらこの本が出てきたというわけ。ところで、読んでみて10代の男の子を感動させる内容とはほど遠いように思う。これは「Catcher
in The Rye」でも「人間失格」でもない。Nataliaという名前の平凡な女性が一人称の語り口で、結婚、出産、市民戦争の勃発、夫の死、再婚に至るまでの人生を語った小説で、その淡々とした文体は、物語というよりドキュメンタリーに近いかもしれない。
原語で読んでいないのが残念だけど、文体の流れには不思議なものがある。とても平易でやわらかく、ある意味こどもがクレヨンで描いた絵のように遠近感を欠いており、全てが具象的で積み木のように並列的。じょうご、鳩、窓、などかたちあるもののことしか語られないところに、説得力がある。文体の話でいえば、会話もほとんど全てが通常の文体と渾然一体となっているところも特徴的だ。
**後日、別版をもう1冊実家で発見。全然記憶にないけど。(よくあることではあるが・・)
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■「Toquemos Madera!」Margarita Candon / Elena Bonnet
スペインに伝わる迷信を解説した1冊。昔VIPSで購入したのだが、2300ペセタが995ペセタに値下がりしていて大変お得な買い物だった。紐解くと「月」「水」「雷」「米」「カラス」などから、「借金」「しゃっくり」「舌」「耳」はたまた「びっこ」「娼婦」などまで、モノ・動物・自然現象などさまざまな項目が挙げられ、項目別にスペインの今に残る民間伝承のいったんを知ることが出来る。読破はしていないけれど、折に触れてたまたま開いたページから読んでいくとそれだけで楽しい1冊だ。
例えばにんにく。にんにくはあらゆる悪から身を守ってくれるありがたい素材。家の前につるしてお守りにしたり、子供の服にしのばせたりゆりかごに入れたりして用いた。でもにんにくの夢は幸運とは言いがたい。それは仲違いや秘密の暴露を暗示する。
ハサミ。結婚前の若い娘に、開いたハサミの先を向けるのは悪いしるし。Lagarto de jaen!(ハエンのトカゲ!)というおまじないを叫んで厄払いしないと、結婚できないかもしれない。
歯。はじめて乳歯が抜けたときは、その歯をこどもの枕の下に置いて寝るべし。そうすれば、ネズミのペレスが贈り物を持ってくる。などなど。
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■「Ese Cadaver」Rafael Torres
日本人フラメンコダンサーが、フラメンコ舞台にアレンジした曽根崎心中でフラメンコの聖地ヘレスに殴り込みをかける、というので、最近スペイン人と日本人の死生観について、飲みながら話題になったことがあった。スペインはカトリックの国だから自殺は大変いけないことのはずである。でも、東洋の美の延長として、三島由紀夫なんかも一部のインテリの間では人気があるようだし、心中の美学を受け入れる下地は十分あるだろう。
こちらの本は死体を切り口にしたブラックな短編集。爆死、病死、老衰死などさまざまな死因により、さっきまで生きてた人が死体となるその一瞬に軽いタッチで切り込む。もしかしたらスペイン人の死生観の一端を捕らえることができるかも。けれども、読後感はそんなことより、「死」はスペイン人にとっても日本人にとってと同様、どうしたって不可解なものである、ということだ。
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■「Son de mar」Manuel Vicent
Manuel Vicentは中堅どころのポピュラーな作家で、わたしは以前Cronicas
Urbanasという皮肉の効いた短編集を読んでいる。長編小説はわたしにとってはこちらがはじめて。
バカンス真っ盛りの季節、舞台はどこか地中海に浮かぶ島(おそらくメノルカ島)、ツーリストも地元の名士もみんな水着でビーチに寝そべる、そんな気だるい昼下がりにセンセーショナルな事件が起こる。海岸にタキシードを着た死体が打ち上げられた。その新品の死体が、どう見てももう何年も前に死んだとされていた、地元の教師ウリセスだったので島は大騒ぎ・・。楽しいミステリーで始まる物語が終盤はかなり定番のメロドラマに集約されてしまうのがちょっと残念ではあるが、太陽、海、島の生活でしかありえない人生や恋の喜び、それらのディテールを味わうだけでも読む価値が大いにある一冊だ。内陸のいなかから赴任した若い内気な教師ウリセスが、太陽や海の香りに目覚めていくプロセス、ウニのおいしさに目覚める瞬間、下宿屋の美しい娘マルティナと体験した島の探検の数々、後のマルティナの夫が飼うワニの存在感・・・というわくわくするような演出がいっぱい。
ワニについてちょっと補足すると、物語の後半、夫(町の名士で金持ち!)がワニを飼い始める。妻の浮気を知りながらブキミに沈黙しひたすらワニにエサをやる夫の後姿と、どんどん成長して今や水槽に入らず庭のプールに放たれたワニの姿が効果的な小道具として描かれているのだ。ちょうどわたしはこのとき「ワニと龍」という本を読んでいて、ここでも「つながった」喜びをちょっと感じていたのでした。
「つながる」でさらに脱線すると、この本をBarcelonaで買ったときわたしはキンジー・ミルホーンシリーズ(これでも1コーナー作らなくちゃ)の「裁きのJ」を読んでいた。とっくの昔に海で遭難したはずの男が実は生きていてメキシコで目撃される、という定番でありながらわくわくする物語の始まりが「Son de Mar」と同じ。
さて、Son de Mar、全編イタリア映画を見ているような気がしないでもないけれど。少なくとも大変映画的、と思ったら出版後さっそく映画化された。日本でも「マルティナは海」というタイトルで公開されたが、こちらは見ていない。映画は見なくてもいいか、という感じ。
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■「Ceremonias」Julio Cortazar
かなり年期の入った一冊。Atochaに住んでいた当時(10年以上前!)読んだものを、最近部分的に読み直した。短編集で、もともとはFinal
del FuegoとLas Armas Secretasという2つの作品集をひとつにまとめたものだそうだ。フリオ・コルタサルについては、実は代表作の「石蹴り遊び」を読んでいないので、えらそうなことは言えない。それにかなり多作なので、いろいろな作品があるのかもしれない。けれど、表紙のエッシャー風な絵が物語るように、この人の作品は常に上りの階段を上りつくとさっきより下がっていたり、右に行ったつもりが左に移動していたり、外側へ飛び出したつもりが時空がクラインの壷のようにひるがえって内側にとらわれてしまったり、というような騙し絵に迷い込んだような不思議さと自己の解体を体験させられるものである。無国籍的で、超時代的。もしかしたら、スペイン語で読む必要はなく、日本語訳でも英語訳でも、きっと中国語訳だって、そのままいけそうな作品群です。
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■「La Oveja Negra y Demas Fabulas」Augusto Monterroso
アウグスト・モンテロッソはグアテマラに生まれ、メキシコに移り住んだ作家だそうだ。ぼんやりと名前を聞いた覚えはあるけれど、あまり知らない。これは、ビアス風に風刺が効いた、イソップ風動物寓話。非常に短いテキストばかりなので、わりと気軽に読める。内容はというと、「何も書かない作家」について思いをめぐらし、最後まで「なにも書かない作家」として終わった瞑想家の猿の話とか、何も映すもののない夜におびえ、ノイローゼになった鏡の話とか、グレゴリー・ザムザになった夢を見たゴキブリがいて、その夢の中でグレゴリー・ザムザがゴキブリになった夢を見ていて、その夢の中でそのゴキブリがグレゴリー・ザムザになった夢を見ていて・・といった話とか、という感じ。
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■「Nada」Carmen Laforet
最近Carmen Laforetの「Nada」を読み返した。スペイン語を習っていた当時、しばしば先生から推薦本として紹介されたいわゆる「青春の名作」で、なのでわたしもずっと昔、マドリッドのアトーチャに住んでいた当時、一度読んでいる。
終戦直後のバルセロナを舞台に、おかしな家族を中心とした個性的な人々、貧乏と憧れ、そして特に当時のバルセロナの町の様子が、裏通りの隅々まで手にとるように描かれていて2度読んでもものすごく面白い。物語の導入部、主人公の「わたし」がいなかの町から出てきて、バルセロナに到着する夜の描写からして素晴らしい。たまたま本棚の奥にこのペーパーバックを発見したのだが、その場にしゃがみこんで最初の数ページを読んだら、引き込まれて止まらなくなってしまった。
町の描写とともに素晴らしいのが人物描写。まともな人物はほとんどひとりも登場しないが、どの登場人物も、まるで一時期のピカソの絵に見られるように、デフォルメされ毒々しい個性を放って、おかしいながらも非常に魅力的。こんなに面白い作品を残しているのに、Carmern
Laforetという人にはどうもほかの作品はないのが残念。
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