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  最近こんな本を読んでます。_2006年版
 

最近はブログの方が頻繁に更新しています。こちらのページよりどうぞ。
「お散歩日記」は
こちらです。 ● ●


 

蝿」ジョルジュ・ランジュラン著
早川書房異色作家短編集

早川書房の異色作家短編集というシリーズは昔から存在しているが、こちらはそれを現在新装改定版で新たに刊行しているもの。まず装丁がとても素敵。最近あちこちの書店で見かけるが、読書好き、フィクション好き、外国文学好きが思わず手にとる引力がある。手にとって見ればそのカバーの紙質や両手で抱えたときの収まり具合がまたこよなく良い。装丁に配慮した分文庫本よりはおおぶりだけど、それでもまだ気軽にバックに入れて持ち歩ける軽さがいい。

しかも、手にとってみればそれは「蝿」、あの「ザ・フライ」や「蝿男の恐怖」の原作だというではないか。時代を隔てた2本の名作映画にネタ本があることを私は知らなかったが、思わず手にとったからにはもう買わずにはいられない。(でも、その日は荷物が多くなるのがいやだったので、結局その場では買わずに数日後amazonで買いました。吉祥寺ロンロンの本屋さん、ごめんなさい!)

本書はその「蝿」(La Mouche)をはじめに、10の短編が収められている。ジョルジュ・ランジュランという人はイギリス人だが子供の頃からイギリスとフランスを行ったり来たりの生活で、著作活動もフランスを舞台にしていた、とのことである。早川書房というと英語文学の発信者、というイメージがあるけれど、この短編集も原作はフランス語で書かれたものなのかもしれない。少なくとも個々のタイトルはフランス語だし、舞台もパリやその他のフランスの地方都市である。

「蝿」は映画でしかその存在を知らなかったけれど、変身譚好きの私にしてみれば、中島敦の「山月記」やカフカの「変身」と並ぶ、孤高の悲劇的傑作だと思っている。本作では「蝿」の要素ばかりか、飼い猫のダンディローまで合い挽き肉にされてしまうところが、ちょっとtoo muchだったけれど。

この作品集の魅力のひとつはその献辞である。全ての作品がなんらかの形で誰かに捧げられている。たとえば、「蝿」は「ある日、ながながと私に突然変異の話をしてくれたジャン・ロスタン氏に」捧げられている。(ジャン・ロスタン氏は著作を多く持つ生物学者らしい。)そのほかルルドの巡礼をモチーフに運命を皮肉に描いた「奇跡」はこの聖地を見つけた張本人聖女ベルナデット自身にささげられていたり(「ベルナデットに、すでにご存知のこの話を。」)、動物園の虎に催眠術をかけようとして失敗し、自らがその牙の犠牲になるダルボン氏のユーモラスな悲劇を描いた小品は「大女を愛する世の小男全てに」捧げられていたり、といった具合だ。

そのほか、左利きの視点からも大変興味深い「他人の手」は右手が本人と関係なく勝手に意志を持って悪事を働くコワイ話であるが、この献辞は「わたしが左手で文字を書くたびに、指を強くたたいてくれた、小学校の先生への思い出に − 恨むのではなく。」である。メタフィクション的にちょっとしたトリックを持って展開する「安楽椅子探偵」が捧げられているのは「なんとも坐りごごちのよい肘掛椅子を発明してくれた、名もしれぬ人に。」であり、ジプシーの老婆と悪魔の契約を結んだためによみがえりを体験し身を滅ぼす男を描いた「悪魔巡り」は「わが友、悪魔に。」捧げられている。「彼方のどこにもいない女」はジャン・コクトーに捧げられているが、たしかにオルフェっぽい内容。

作品集の最後を飾る「考えるロボット」はチェスをする謎のロボットをめぐるある種の冒険活劇で、主人公が真夜中の墓地に入り込むシーンから始まる。優秀な弁護士だった友人ロベールの突然の死、残された美しい婚約者ペニー、からっぽの棺おけ、ロボットを操るあやしい伯爵とそのアジト的別荘、好奇心の強い男友達の登場、ちょっとしたカーチェイス、そして悪の根城を暴くまで、ダイナミックな展開があの時代の映画風。最後は主人公が美しいペニーと結婚してめでたしめでたし。エンタテイメント性がゴージャスなのできっと巻末を飾っているのだろうが、でも結局ロベールの遺体はどうなったのかな。ラストシーンがごくごく遠まわしに示唆しているように、チェスをする謎のロボットの脳みそは、盗まれたロベールの遺体から拝借されたものだったんだろうか?悪者のロボット伯爵が墓荒らしをしたんだろうか。こうしたちょっとした腑に落ちない点が残るのも、クラシックな作品ならではのご愛嬌かな。

想定されるキーワード>サイエンスフィクション、SF、蝿、変身、テレポート、左利き、右手、左手、ロボット、ジプシー、ザ・フライ、蝿男、原作、映画の原作  Aug_2006

 

「反復」ロブ=グリエ著
白水社

「覗く人」のあやしい魅力に引き込まれて、引き続いてロブ=グリエの第2弾。1922年生まれのロブ=グリエが2001年なんと79歳の時にものした作品で、「覗く人」からは50年ほどの歳月が流れている。その年月を思えば帯に謳われた「永遠の前衛」をあながちおろそかにはできないのだ。

訳者の方も「パルプフィクションばりのB級映画」と比している通り、終戦直後のベルリン、いきなり目撃される暗殺、そのあとやたらと起こる殺人事件やどんでん返し、国境を越えて暗躍する特殊工作員、少女売春を営む娼婦の館、生意気で美しい少女の娼婦、廃墟、運河、麻薬・・などなどノワールなモチーフがいっぱいなので、いわゆるエンタテイメント度数は増えているかもしれない。しかし、「覗く人」で私を一気に引き込んだロブ=グリエ節(いわゆるエンタメとは遠い)の方もここではさらに全面展開されており、その全面展開ぶり、遠慮のなさ、豪華絢爛ぶりから言ってかえって逆にエンタテイメント性を獲得している、と言ってもいいかもしれない。

例えばオープニング、「私」はいきなり(第1パラグラフから)私の「そっくりさん」あるいは「旅人」と出会う。その出会いはドストエフスキーや芥川龍之介の作品における分身との出会いのような劇的さはもはや全くなく、のっけからいわばパルプフィクションな乗りである。なので最初の段落を読んだときからわたしは状況を察して諦める。「どうやら今度は主人公が誰であるかも難問であるらしい。」(「覗く人」では一応主人公は終始一貫してマチアスだったと思われるので。)私の危惧はその通りであり、最後まで徹頭徹尾、主人公が誰であるかはナゾである。

「反復」においては、自己や事象、場所や時間が反射反復しまくって、訳注(ちょっと多すぎる気もした)を参照すると作者の過去の作品、あるときは作者の実人生とも思う存分反復している。登場するのはもはや人物ですらなく、反復、拡散する名前の数々・・アンリ・ロバン、ボリス・ヴァロン、アシェール、旅人、ヴァール、フランク・マチューまたはマチュー・フランクなどなど主人公は一人称、三人称を変幻自在に行き交う。ちょうど「覗く人」において、ジャン・ロバンという名の村人は実はジャン・ロバンではなかったのと同じように。

「覗く人」ではロブ=グリエは少女フェチなのでは、という疑いが頭をもたげる程度だったが、「反復」においてはそのロリータぶりも全面展開であった。

何年か前にCatch me if you canという魅力的なタイトルのハリウッド映画があったが、こんな軽やかなタイトルでこの作品を(忠実に!)映画化してみるのも良いかも。最後にあとがきから拾った、作者自身による魅力的な証言をひとつ。

「人間は世界を見つめるが、世界は人間に視線を返しはしない。」 

想定されるキーワード>ヌーヴォーロマン、ロブ・グリエ、フィルム・ノワール、スパイ、特殊工作員、ベルリン、廃墟、少女売春、分身、双子、ベルリン、少女フェチ、SM、キルケゴール、ロリータ  Aug_2006

 

「覗くひと」ロブ=グリエ著
講談社文庫

ロブ=グリエといえば、文学史ジャンル的にいうとヌーボーロマンの代表作家。そして、「去年マリエンバートで」の原作者。わたしとしては初めて読むジャンルである。

一言で言って全体がとてつもなく変なのだが、とっても面白かった!主人公はマチアス。30代くらいであろうか。時計の行商人である。話は生まれ故郷のさびれた島に船で到着するところから始まる。島民に時計を売りさばき、その日のうちに島を出る算段であったが、あれこれあって帰りの船に乗りそびれ数日滞在することになる。

線や幾何学模様をめぐる強迫的な描写、繰り返し立ち現れる複数の少女のイメージ(ヴィオレットって誰?)、8の字への執着、紐の収集癖、コピーのように同じ形をした島の貧しい民家、タバコの吸殻と思って走り寄るとそれはいつも白い小石で、ジャン・ロバンという名の男は実はジャン・ロバンではなく・・。

マチアスが到着したその日、島では少女が崖から海に落ちて死ぬという事故が起こる。美しい少女で、まだ子供ながらもすでに親の手には負えず小悪魔とも呼ばれているくらい、先の思いやられる子供だったらしいことが島民たちの会話からうかがい知れる。そして、どうもそれは事故ではなく、マチアスが行商中に彼女を手にかけ崖から突き落としたらしい、ということが読者には薄々わかってくる。全てが判然とせず、もしかしたら全てはマチアスの妄想かも知れないのだけど。

マチアスはその日のうちにさっさと島を後にするはずだったが、いろいろとあって船に乗り遅れてしまう。数日滞在することになってしまい、彼の犯行を見ていたらしい少年と出会う羽目にも合う。このくだりがまた大変おかしい。マチアスは少年の寡黙なひとことや薄ら笑いに徹底的に追い詰められる。

結局は何事もなかったように到着したのと全く同じ光景の中で、島を去っていくマチアスがいて、フィクションは唐突に幕を閉じる。うまく言えないのだが、この世界観はかなり好きである。さっそく次のロブ=グリエとして「迷路のなかで」を注文してみた。ロブ=グリエは数学者なんだそうである。数学者が表現を試みるとこうなるのかもしれない。 

想定されるキーワード>ヌーヴォーロマン、奇妙、ロブ・グリエ、サスペンス、孤島、フランス、行商人、少女フェチ、ロリータ、マリエンバート  Jun_2006

 

「北京の秋」ボリス・ヴィアン著
大昔スペインで

若い頃に読んだ「墓に唾をかけろ」「日々の泡」(「うたかたの日々」とも)に続く久々にして3作目のボリス・ヴィアン体験。この小説はもちろん北京とも秋とも関係はなく、なぜ北京なのか秋なのかと聞くだけヤボである。

いつも通りに通勤するつもりだったアマディス・ドゥドゥ(主人公だと思ったけど、読み進むうちに準主役程度の位置づけであることがわかる)が、なぜか様々な困難にぶち当たっていくらどうがんばっても決してバスに乗ることが出来ない狂騒的でスラップスティックな出だしは快調で、意味不明ながらも苦もなく先を読み進められる。けれど、その意味不明であることは、その後ずっと続いて最後の1ページまで引きずられながら、結局意味不明なのであった。

舞台はエクソポタミアという名前の砂漠。イタリア人が経営する1件のホテルと考古学者のテントのほかに何も存在しないこの地に、鉄道を建設すべく派遣された人々の物語。登場人物は若い技師のアンジェル、その友人のアナ、アナの恋人でアンジェルが横恋慕の思いを募らせるロシェル、考古学者のアタナゴラス、司祭(たしか名前はプチジャン)、医者で飛行機狂のマスカマンガスなどなど。

椅子が病気になったり、アマディス・ドゥドゥの持つ受話器が身をよじったり、ふとしたシーンが不可思議ながらもボリス・ヴィアンの代表作「日々の泡」を思い起こさせる。で、いったいこの物語の全てはなんだったの?・・というそもそもの疑問については、一陣の突風に遭ったあとのように結局よく分からないのでした。 

想定されるキーワード>ボリス・ヴィアン、砂漠、フランス、横恋慕、恋患い、奇妙、三角関係、北京、秋、意味不明   Jun_2006

 

「蜘蛛の微笑」ティエリー・ジョンケ著
早川書房
amazon

GWにスペインに旅たつに際してフライトのおともに選んだのがこの本。ティエリー・ジョンケは現在フランスで活躍中の作家で、実際に起こった事件などを題材にしたハードボイルドテーストの作品が人気を呼んでいるとのこと。気が付くと最近、フランス系の読書が多いな。

解説文を読む限りではR指定ばりのかなりのエログロものかと思われる。実際、amazonで購入したあと、しばらくはそういう傾向の小説のおススメが嵐のように続いてちょっとおかしかったのであった。しかし、読んでみると以外に軽いというか胃もたれを起こすようなねばりはなく、時としてコメディタッチでさえあり、そしてかなり面白いのであった。

この作品は一見関係がないかに見える3つの物語が同時進行し、終盤でいっきに集約していくところに面白さがある。ひとつ目の物語の主人公は外科医のリシャール。そしてその美しい愛人であるエヴ。このふたりの関係はかなり倒錯的であり、それがこの作品をエログロと思わせるゆえんである。ふたつ目の主役はヴァンサン。彼は夜の森にバイクを走らせているところを見知らぬ男に襲われ、地下室に囚われの身となる。思えばこの設定もかなり倒錯じみている。そして、もうひとりの主人公はアレックス。彼は田舎出のさえない若者で、パリで用心棒をしていたまではいいのだが、銀行強盗を試みて失敗する。金を奪ったのはいいが警官を殺してしまい、身元も割れてしまって、指名手配の身となり不自由な逃亡生活を強いられている。

彼らの暗い欲望、復讐心が物語を進めるカギとなるのだが、彼らにはそれぞれうっかり知らないことがあり、その思惑違いが終盤の皮肉な悲劇(といってもクスっと笑ってしまうような悲劇でもあるのだが)をもたらすことになる。そのボタンの掛け違いの演出は端正で古典的とすら言えるのでは。

最後のセリフを語るエヴはさぞかし美しかったのでは、と思われる。クールで分かりにくく美しいフランス映画として、誰かこの作品を映画化してくれないかしら。 

想定されるキーワード>蜘蛛、犯罪、ノワール、ブラックユーモア、トラベスティ、フランス、外科医、復讐  May_2006

 

「蟻」 ベルナール・ウェルベル著
角川文庫
渋谷のブック1stにて

今フランス人の若い子の間ではどんな作家が支持されているか知りたくて、フランス語の先生(とても若い。20代前半)に聞いたところ、教えてもらったのがベルナール・ウェルベル。彼によると2作目以降は大したことはないけれど、この第1作は名作とされている、とか。わたしにとっては全く聞いたことのないタイトルだったけど、渋谷のブックファーストですぐに見つかったので、日本でも結構売れ筋の作品なのかも。

本書を開くとまず「アリにまつわる用語解説」のページがあり、のっけからミクロの蟻ワールドぐっと引き込まれる。
「番兵アリ」「傭兵アリ」などの解説のほか、「アリの寿命」(「女王アリは平均15年、無性アリの働きアリや兵隊アリは普通3年である。」→ふーん)、「視覚」(「アリは網の目を通してものを見ている。有性アリは色彩を感知できるが、全ての色調は紫外線寄りにずれている。」→そうなんだ。)、「アリ度数」(「温度対応時間と時系列的時間の組み合わせ。」→なんのこっちゃ、と思うが、アリの時間感知が温度に依存すること
については、作品内にも出てくる。)「雨」(「アリにとっては致死になる現象」→なるほど。)、「十二進法」(「アリの計算法。アリは12本の爪を持っているので、12を基本とする。」→本当かな。)「人間」(「近代の伝説に登場する巨人。危険。」)・・などなど。

わたしの思索生活にアリが登場したのは、たぶん数十年ぶりのことだろう。だけど、思えば子供の頃、わたしアリに心奪われ魅了されていた。たぶん、子供はみんなそうなんだと思う。アリの巣をみつけては、お話に聞いた、または夢に見た赤い扉がそこにあることを本気で期待して、その扉が開いてアリの王国に招かれるところを想像した。なぜかわたしはアリのニオイも記憶している。それはとても特徴的な、他の何のニオイとも似ていないものである。蟻酸というもののニオイなんだろうか。子供のころはよくアリをつまんで観察したものだけど、そのときに本当にニオイまで嗅いだのかなあ。それとも想像の産物なんだろうか。

ヒトはアリの存在を知ってはいるが(そして、ヒトの子はかなり興味津々にアリと日々接しているが)、アリの方ではヒトの存在を認知しているのだろうか。ヒトの大きさは視野には収まり難いものだと思うけれど、それは嵐のような現象として、ニオイか何かによって認識されているものなのかもしれない。これは同じ地球上の生物でありながら、違う次元を生きるがごとく接点がないはずのヒトとアリが遭遇する物語である。ヒトの代表は元・錠前屋で今は失業しているジョナサンとその家族。ジョナサンにはアリを研究していた亡くなった伯父がいた。物語が展開されるにつれて生前彼が試みていたことがアリとのコンタクトであったことが分かる。フェロモンによる“言語”をひとつひとつアルファベットに変換する装置を開発して、リヴィングストンという名のロボットアリを、アリの世界に送り込んで・・。

考えてみればフランスはファーブルを生んだ国。この作者はもともと科学ジャーナリストで、アリオタクだったらしい。作品の中で彼は語る。宇宙人が地球の知的生物とコンタクトをとるとき、ヒトとアリ、どちらを選ぶだろう。彼による回答はもちろんアリの方である。

最後に「感情」について抜粋。
人間の場合、恐怖に見舞われたとき、幸福なとき、怒っているとき、内分泌腺は彼らの体だけに影響をおよぼすホルモンを分泌する。そのホルモンは密閉された身体の中だけで回転する。心臓の鼓動は速くなり、汗をかき、顔をしかめたり、泣いたり、叫んだりする。他の人はそれを傍観するか、脳が同情しろと命令したら、同情するかもしれない。
アリの場合、恐怖に見舞われたとき、幸福なとき、怒ったとき、アリのホルモンは体内を動きまわり、そのあと外に出ていって、他のアリの体内に入っていく。フェロモンのおかげで、数百万の仲間が同時に叫んだり泣いたりする。(・・・)

なんと興味深いことではありませんか。 

想定されるキーワード>アリ、蟻、ミクロ、サイエンスフィクション、地下組織、ファーブル、世界観、複眼  May_2006

 

「Quartier Perdu」 Modiano著
Parisで87年に!

この本を買ったのはなんと87年、今からなーんと約20年も前のことになる。そのころわたしはスペインに住んでいてたまにパリに出かけることがあった。この本を買ったときは父親とパリで落ち合うことになっていて、2日間ほど早めに到着していた。所在なくぶらぶらうろついているときに本屋で見かけてつい買ったものだ。当時、Modianoという作家については何も知らず、(その後もかなり長いあいだ知ることはなく)、ただただこのタイトル(「失われた街」または「消えた町」)に引かれて買ったのだった。本を買ったあと、あちこちをうろついていたら、この表紙の建造物そのものに行き当たって、大変驚いたことを覚えている。その頃数十ページを読んだ形跡はあるが、その後わたしの人生は忙しくなり、フランス語からも遠ざかり、この本の存在も長らく忘れられていた。
再び見つけたのは一昨年の暮れのこと。すでにモディアノという作家の存在といくつかの作品を知った後の再会だった。

モディアノ中毒というコトバがあるらしいが、いくつかのモディアノ作品を読んだ後、このQuartier Perduを読んで、そろそろわたしも中毒症状が現れて来たような気がする。

主人公のアンブローズ・ギーズは中年の、すでに成功を手にした作家である。イギリスに住み、長らくイギリス人として通ってきたが、実はかつてジャン・デッケルという名を持っていたフランス人である。その彼が、20年ぶりに仕事でパリを訪れる。季節は7月。観光客であふれかえるパリなのに、なぜか町はどこに行っても静かで、あたかも黄泉の国のようである。そして、耐え難いほどの蒸し暑さ。

そこで彼は20年前に捨ててきたさまざまな記憶と出会って行く。多くの人々はすでに死んでいる。弁護士のルクロワ、映画監督のメイヨー、美しい未亡人のカルメン(金持ちの未亡人だが、実はすでに財産が破綻している)、彼女の執事役で元馬の調教師であるユレル・・。

圧巻なのは夜のパリを疾走するカーチェースのシーン。死んだはずのメイヨーが実は生きていて、夜毎車を走らせている、という古い友人(この友人も生きた人間なのかどうかが不明)のあやしげな話に誘われて、ふたりの乗った車は幽霊の運転する車を追いかける。音の消えたパリの夜を、はてしなく疾走するふたりは、結局幽霊の正体を見極めることはできない。それどころか、この古い友人も、翌日には跡形もなく主人公の前から姿を消してしまう。

それから、カルメン、ユレルとともに、カルメンの夫が残した郊外の乗馬場を訪れるシーン。この馬場はすでに久しく閉鎖されており、人間の丈ほどの草がおいしげっている。廃屋には不思議な美しさが漂い、カルメンもユレルもとっくに過去の人のようだ。そして、そのカルメンに、絶望的な恋心を抱く若い主人公のジャン。

記憶の断片はかみ合わず、パズルは決して完成しないかと思いながら読み進んで行くと、しかし物語は終盤急速な展開を見せる。上流階級のおとな達が繰り広げる夜毎の乱痴気騒ぎの中で、主人公はある日若い娘と出会う。そして、まもなく事件が起きる。ジャンが名前を捨て、過去を捨て、別人になりきって海を渡るきっかけとなる事件だった・・。

物語は終始、まるで夢の中のように音の消えたパリの夜(または昼)の中で展開するが、終盤舞台はパリの郊外に移る。読者は夢遊病者のような感覚から、このときだけ抜け出すことになる。それはSaint Maur des Fossesという名前の場所だ。小鳥が鳴き、日差しが優しく、川で泳ぐことも出来る村のようだ。モディアノの本を読むといつもフランスの地理に疎いことが悔やまれる。今度パリに行ったら是非訪れてみよう。 

想定されるキーワード>パリ、モディアノ、モディアノ中毒、夢遊病、記憶喪失、デジャブ、白昼夢、記憶、喪失  Apr_2006

 

「El Tren(汽車)」」 ジョルジュ・シムノン著
マドリッド・バラハス空港で数年前

これはスペイン語の翻訳版だが、邦訳が出ているのかどうかは不明。(一応、直訳「汽車」をamazonで検索してみたが、ヒットしなかった。)

本作はある日突然訪れた人生の断絶についての物語だ。絶倫男だったことで有名なシムノンだが、ここでは戦争によって瀬戸際に立たされた男女の出会いから別れまでが大変官能的に描かれる。主人公のMarcelはFumayという(ベルギー国境に近い港町と思われる)町でラジオ工場を営む30代の家族持ち。迫り来るドイツ軍から逃れるために、4歳の娘と身重の妻を連れて疎開の旅に出る。なんとか列車に乗ることは出来るが、妊娠中の妻と娘とは別の車両に乗せられてしまう。Marcelはそこで、黒い服の若い女アナと知り合うことになる。

疎開列車が出発し行く先の定かでない旅が始まったとたんに、これまで営々黙々と築いてきた人生が、突然遠い他人事のように感じられる。別の車両に乗っている妻子のことが心配ではあるが、同時に顔の記憶もおぼろげで、非常に遠い記憶のようにも思われる・・。

シムノンの文体はスペイン語で読んでも簡潔にして、省略気味。そこに東ヨーロッパの暗い影が差した本作は、緊張感と官能が強く感じられて誠に魅力的だ。今やめずらしくはない設定だけど(「ラスト・タンゴ・イン・パリ」や「愛の嵐」「朗読者」などがおのずと例に挙げられるだろう)、そこはシムノン、上質で独自の読書体験が保証できます。 

想定されるキーワード>ジョルジュ・シムノン、第2次大戦、ドイツ侵攻、ユダヤ人、逃避行、東ヨーロッパ、恋、謎の女  Mar_2006

 

「白菜のなぞ」 板倉聖宣著
仮説社
 

amazonですら販売されていないマイナーな本。装丁はダサいけれど、バカにしてはいけません。なかなかどうして知的好奇心を刺激する良書なのだ。教育的見地から書かれたものなので、たまにそれが鼻についたりもするけれど、テーマの面白さの前にそのことはさして気にならない。理科も社会科もこんな風に授業を展開したら、日本にも優秀な学者の卵が増えるだろうに、と思われる。

さて、内容だが、命題は「白菜の謎」である。いかにもニッポンの野菜然とした白菜が、史実を紐解くと実は1875年に中国から日本にはじめて導入されたものであることを知ったときに、著者の知的な仮説の旅が始まる。

出発点の仮説は3つ。

仮説その1 昔の(1875年以前の)日本人は白菜という野菜の存在自体を知らなかった。
仮説その2 知ってはいたが、昔の日本人は白菜が好みではなかった。
仮説その3 白菜を導入したい意向はあったがいろいろな障害があって出来なかった。

今や鍋や中華、クリーム和えなどでも大活躍のあの白菜が日本に根付くまでの農家の知恵と試行錯誤が薄皮をはぐように明らかになるミステリーである。

その証明のプロセスでは、桜島大根はなぜ桜島カブとは呼ばれないのか、ということや、聖護院カブと聖護院大根の歴史的立場の違い、白アリは「アリ」と呼ばれるがむしろゴキブリの仲間であるのと同じ理由で、砂糖大根は大根と呼ばれながらもむしろフダンソウの仲間であることなどがつまびらかになっていって大変楽しい。

そういえば江戸時代や明治時代の日本人はキャベツを知っていたのだろうか、トマトはいつごろから食べていたのかな、玉ネギは、ジャガイモは?と次々疑問も沸いてくる。  Mar_2006

 

「ぼくらはみんなハゲている」 藤田慎一著
太田出版
 
amazon
副題の「マイ・ライフ・アズ・ア・ハゲ」も併せてタイトルが秀逸!どうして出会ったかは忘れてしまったが、知ったとたんにamazonに注文していた。タイトルの威力である。しかし、注文後の数日は、amazonからやたら育毛や増毛の本をススメられて思わず笑ってしまったものだった。

この本に引かれたのは、とはいえ、タイトルだけではなかった。アデランスやアートネーチャーのCMをいやというほど目にして育ちながら、マーケティングを生業とする人間として、これはすごい商売だと思ってかねがね感心していたからだ。それはもはやニーズに応えるビジネスではない、まさにニーズを創出する(しかもかなり強引に)模範例だと。

筆者の藤田さんの本業はTVディレクター。ハゲをテーマとした深夜のドキュメンタリー番組でディレクターに抜擢される。理由はただひとつ、「ハゲだから」。ちょっとは抵抗したものの結局は番組制作を任されて、5つの鉄則を設ける。

1-ハゲの治し方的ハウツーはやらない。
2-ハゲ関連の企業とは一切タイアップしない。
3-ハゲを笑う番組は作らない。
4-被害者面しない。暗くしない。
5-スタッフはハゲにしか頼まない。

で、放映された番組は好評だったらしいが、テレビでは描き切れなかった部分をさらにつっこんで出来上がったのが本書である。

この本を読むまで、この業界が「養毛・育毛」「カツラ」「増毛」「発毛」といったジャンルに分かれることも特に意識していなかったが、なるほど。「植毛」にも自毛の植毛の他に「人工毛植毛」というメソッドがあり(日本はこの分野の技術で世界をリードして来たそうだ)人工の毛を頭皮に埋め込むことが引き起こし得る悲惨な結果については想像に難くない。実際に悲惨な体験をした人もこの本に登場する。
女性はもちろんのことと思うが、男性の髪の悩みの歴史も古く、チョンマゲの時代からカツラは存在した、という史実にはちょっと笑える。しかし、男性の髪の悩みがケタ違いに膨張したのは、なんといっても1970年代以降、アデランス、アートネーチャー(そして後にはリーブ21)の成長に起因するに違いないのだ。ハゲの悩みは古今東西に共通のことには違いないが、現代の日本ほどそれが顕著な国はほかにないのではないか。

それにしてもハゲ(または自称ハゲ)の人々が抱き得る悩みの深さがココまで、とは想像していなかった。もちろん、一方ではそれを克服しているさわやかな男性も世の中にはたくさんいるけれど。男性のコンプレックスはひょっとしたら女のそれよりはるかに深いものかもしれない。女の人生においての方がクリアしていなければならない外見に関するバロメーターが多くてそれだけコンプレックスのネタは多いはずだけど、きっと女は心理的にも経済的にもここまで自分を追い詰めない。あくまで自分を基準に置いた一般的に、の話ですけど。

この本ではまず実際にカツラや植毛などなんらかの手段を講じているハゲ(自称含む)の人々をひとりひとり丁寧にインタビュー。ハゲたらスキンヘッドにすればいいじゃん、と気軽に考えていた私だが、そうも言っていられないいろんな考え方が環境を持った人々がいることを知る。アートネーチャーを相手にたったひとりで訴訟を起こしたあげくに敗訴して、それでもカツラをかぶり続ける人や、カツラのカミングアウトをした人やこれからする人で結成されたクラブも登場する。ハゲでももててナンパ塾を経営する人なんかも出てくるが、おしなべて悩みは悲痛なくらい深刻だ。

第2章では藤田さん自らが大手業者の無料ヘアチェックやコンサルティングを体験。最後にアデランス、アートネーチャーの2大大手をはじめ、その前身となったカツラメーカーや後発でありながら急成長を続けているリーブ21などの企業のルーツが語られる。(その成長は日本の高度成長やテレビの発展とともにあったんですね。)ゆえにこれらの企業とマスメディアがどんなに強い絆で結ばれているかということも。

わたしは男ではないのでことの深刻さがよく分かっていないのかもしれないけれど(とはいえ、最近とみに脱毛の悩みが加速中なので、決して対岸の火事ではない!女のハゲは男のそれよりよっぽど深刻です)、日本ほど「あるがまま」でいてはいけない国は少ないのでは、と思う。実際、わたしがよく知る国であるスペインを皮切りに、欧米のほかの国々ではハゲていることが時にはジョーダンのタネにこそなれ、そこまでマイナス要素になったりはしていない。日本は女性を見る目も断然厳しい。あるべき暗黙の理想像があって、皆がそれに近づこうとする。そして、その努力を怠る人には辛い仕打ちが待っている。そういう厳しい国なんです、日本って。(USもデブには厳しいらしいけど。)

それにしてもこの本は持ち歩いたり、地下鉄の中で読んだりすることがやっぱりちょっとはばかれるのであった。地下鉄の中で読むときは、そのスジの人が近くにいたりしないか、なぜかそっと周囲の人々のヘアチェックをしてから広げる始末。非常にいい本だけど、人に薦めるときは「なぜならば」をちゃんと説明しないと誤解されるかも、と思います。  Feb_2006

 

「八月の光」 フォークナー著
新潮文庫
 
amazon
アメリカ南部、ディープサウスというコンセプトには昔から引かれている。いつかフォークナーも読んでみなければ、とかねがね思っていた。「八月の光」というのは美しいタイトル。夏のまばゆい光のもとにいなかの群像が描かれる。まずはアラバマの田舎娘リーナ・グローヴ。この作品の中で唯一「八月の光」が似合う人物。恋人の子供を身ごもったリーナは、自分の元を去り、音沙汰のない彼の消息を追って、ミシシッピ州のジェファソンという架空の町までやってきたのだった。そして、彼女をとりまくのは、製版工場で働く地味な青年バイロン。彼は臨月娘の素直でまっすぐな健康美に恋をして、リーナの恋人探しと出産の助けとなる。それから、バイロンが師と仰ぐハイタワー。彼はもともとはジェファソンの牧師だったが、非常に残酷な人生の仕打ちのおかげで世間的には抹殺されてしまい、余生を黙々と生きている。そしてもちろん逃げる恋人ルーカス・バーチ。彼はブラウンと偽名を使って、バイロンと同じ工場で働き、密造酒の販売にも手を染めている。
もうひとりの主人公はジョー・クリスマス。彼は孤児として、後には養子として育ち、いくつかの殺人を犯して最後は殺される。彼の人生に往来するのは、孤児院の栄養士(いやな女)、厳格で敬虔なで人間味を欠いた養父と卑屈でみじめな養母、最初の恋人になる食堂の女給仕、南部に住まいながら奴隷解放の思想を持つ独身女のバーデン(のちにクリスマスに殺される)、娘の過ちを隠し彼を孤児院に預けた実の祖父母、そして、密造酒販売の手下ブラウンなど。

この物語では実にたくさんの人物が交錯するけれど、ふたりの主人公ともいうべきリーナとクリスマス(ふたりともある意味放浪者)は最後まで出会わない。ふたりをつなぐ唯一の存在がブラウンという偽名を使う、頭の悪い色男のルーカス・バーチだ。徹底的に世界を敵に回したクリスマスが無残な死を遂げた頃、健康な赤ちゃんを出産したリーナは生活の場を求めて旅立つ。彼女を恋慕うバイロンを引き連れて。 Jan_2006

「逃げ道」 フランソワーズ・サガン著
新潮文庫
 
外苑前LIBRO
原題のLes Faux Fuyantsも邦訳の「逃げ道」も、どちらも期待をくすぐられるとても素敵なタイトル。これはサガン晩年の作品で、こんなに最近出版されたサガンの作品があったとは、つい先ごろまで知らなかった。訳者ももはや朝吹登水子さんではない。
時は1940年、パリ近郊の農村。登場人物はそれぞれ個性も欲望もバラバラな上流階級の男女4人。ドイツ軍の爆撃にあって高級車もその運転手も失った彼らが、若い農夫と出会うことから物語は始まる。化学反応というものは、特殊な状況下で、出会うべくもないはずの要素が出会ってしまうことで引き起こされるものだからだ。

サガンの筆は相変わらず小気味良い皮肉が利いていて、どの登場人物にも容赦はしない。そこには農村=善、という図式も存在しないが、わがままで自己中心的な彼らが泣いたりわめいたり煩悩にとらわれたり策略をめぐらしたりしながらも、ひととき共有する農村の美しい一瞬の永遠が心から心地よい愛すべき作品。
若いジゴロのブリュノーは最後まで救いのない人格だし、若く美しいが優柔不断で自我の薄いリュースは、たくましい農夫のモーリスとたちまちあり得ないはずの恋に落ちながらも、それによって人生の蜜を掬い取った様子でもない。一方、50代の外交官ロイや、60代の裕福で高飛車なディアンヌは、農村にあってさらに個性に輝きを増して行く。そこがいかにもおとなの文化が闊歩するフランスらしい。 Jan_2006

   

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■かえる読書
■■かえるキッチン

 

 

■■ついつい買ってしまった本、現在読書が進行中の本、つまみ食いしている本・・。

ブラザーズ・クエイというアニメーション作家(兄弟二人組)の「ストリート・オブ・クロコダイル」という作品に感動したのはもう数十年前。しかし、このような原作本があったとは!原作は「大鰐通り」と訳されている。「溺れる狂人」ことポーランドの悲劇の作家の「全作品」が収められているそう。

ロバート・A・ハインラインのThe Door into Summer(夏への扉)はサイエンスフィクションの古典的名作。でもSF文学というよりは、夏文学(物語は冬の叙述から始まるが)、または猫文学(猫好き文学かも)として、砂浜のおともに選んだ。ペーパーバックにまみれた砂を払い落としながら読書するのって最高。でも、すぐに寝ちゃうんですけど。

ダ・ヴィンチの表紙といいタイトルといいストレートにウケを狙った装いはあんまり気に入らないけど、「左利き」は私の生涯のテーマでもあるのだ。最新の情報に触れるために、読んでみよう。

実はルース・レンデル(またはバーバラ・ヴァイン)が結構好き。久々のルース・レンデルに出会ったのはシンガポールの空港で。余っていた小銭をちょっきり使い果たしてこの本を買いました。

多数決の結果に常に疑問を抱いて生きてきた私としては大変興味あり!原題は「Wisdom of Crowds」、邦訳の「みんなの意見は案外正しい」の方がずっと買いたくなるタイトルでは?Web2.0ブームのキーワード「集合知」つながりで出会った本。

こういう本があるとついうれしくなって。「尺」「坪」「里」などについて解説された本。挿絵もぜいたく。

いやーん、こんな本を買ってしまった。(この人のBlogはたまに読んでいるが。)何も買わなくても、と思っていたが、渋谷のブックファーストのランキングで1位だったのでつい・・。

ブームから遅れること数年。フレンチのヒトから見たエル・ブジを知りたくて。

パリ以外のフランスもそろそろ知りたい。

そういえばファーブルもフランス人。

またしてもタブッキ

 

再読希望!

本棚も人生ももう一度読みたい本で満ちている。「ドン・キホーテ」「薔薇の名前」「やし酒飲み」などなどなど。

あな楽し哉、博物学

ロバや野うさぎを素朴なフランス語で描写したルナールの「博物誌」も博物学なら、マルコ・ポーロの「東方見聞録」も博物学の産物なのだ。

装丁買い!

美しい装丁の魅力には抗いがたい。ちょっと抗ってはみるけれど、無駄な抵抗である。かくして、今日も衝動買いはとまらない・・・。

ヨーロッパはまだまだおくが深い

遅刻のイェッタトーレってなに?ドイツ人の夏休みが2ヶ月もあるって知ってた?などなど。まだまだ追加していきます・・・。

わたしの好きな本屋さん

南阿佐ヶ谷の書原、国立・銀杏書房、京都・三月書房、バルセロナのあの本屋、マドリッドのこの本屋・・。

怖い本

江戸川乱歩、エドガー・アラン・ポー、夢野久作、ラブクラフトから「ぼっけえきょうてえ」やドストエフスキー、カフカまで。