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  最近こんな本を読んでます。_2005年年版
 

 

「夜を喰らう」 トニーノ・ベナキスタ著
早川書房
 
西荻窪の古本屋
タイトル、表紙の絵、そして裏表紙の「フランスの暗部を抉り出すロマン・ノワール」というコメントから想像するほどノワールな作品ではなかった。しかし、夜のパリや実在するバーが描写されているのがとても楽しい。
20代半ばの主人公のアントワーヌは住所不定のいわゆる「寄生虫」と呼ばれる存在。いわゆるチンピラでもなく、浮浪者とも少し違うが、住居を持たずしばしば野宿をして暮らす。生活の糧は、夜毎パリのあちこちで催されるセレブの集うパーティに、招待客を装って忍び込むことで得ている。相棒のベルトランとはほとんどいつもいっしょだ。ある日忍び込んだパーティでふたりは捉えられ、ある犯罪のようなものに巻き込まれる。

登場するのは路上生活者ながら「外交儀礼」の本などを読んでいる、ある意味野心家の相棒ベルトラン、死人のように青ざめた顔でいつもブラッディマリーを飲んでいる夜行性の男ジョルダン、大男の東洋人ジャン・マルク、夜の街に出没するやはり謎の初老の男エティエンヌ・・などなど。話は吸血鬼伝説におよび最後は国境を越えてUSへ、そして物語の終盤は路上生活者から足を洗ったアントワーヌがある目的を持ってタイを訪れる。そしてなかなかさわやかなエンディングを迎える・・・。 Dec_2005

「レクイエム」 アントニオ・タブッキ著
白水uブックス
 
amazon
冬の東京でこの本を紐解くという体験は良かった。窓の外は木枯らし、なのに私は7月のリスボンにいて、太陽の照りつける人気の絶えた日曜日の昼下がり、黄泉の国をさまよい、死者たちに出会う。

人気のないリスボンなのに、主人公は一日にしては多すぎるくらい、様々な人たちと出会い、対話する。方向音痴なタクシーの運転手、手相を見るジプシーのおばあさん、フェイジョアーダを食べる年取った墓守、すでに死んでいる冗談好きな友人タデウシュ、今や自分より若い、若き日の父、クロスワードパズルに興じる、誰も乗っていない列車の車掌、ハリーズ・バーで鳴らしていた過去にこだわる美術館のバーテンダー、「聖アントニウスの誘惑」を模写する画家、などなど。はっきり死者である人もいれば、どちら側に属するのか分からない人も多い。

友人タデウシュ(彼はそのエキゾチックな名前が示唆する通り、どこか東欧の国からの亡命者である)が最期に残したメッセージ「なにもかも帯状疱疹のせいだ」が、ひとつのナゾかけとして物語の冒頭に提示される。実際主人公は、黄泉の国をさすらうこの「特別な一日」に至るずっと前から、友人の遺したこの言葉が気になってしかたがなかった。
物語の終盤、「聖アントニウスの誘惑」を模写する画家から、「聖アントニウスの炎」とは「帯状疱疹」のことだ、と聞かされて主人公の鼓動は思わず高まる。画家からその病気が中世どれだけ恐れられていたかを聞き出すが、結局友人の遺言との接点は謎のままである。結局はタデウシュ本人が語った通り、それは冗談好きな彼の生涯最後の冗談だったのかもしれないのだ。

この物語にはポルトガルへの旅の憧れを抱かずにはいられないくらい、たくさんの料理と飲み物が登場する。ご丁寧に最後の数ページを割いて、登場した料理を全て解説しているくらいだ。わたしは実際にこれまでポルトガルを数回訪れていて、その料理の素晴らしさはよく知っているつもりでいたけど、驚愕の料理らしい「サラブーリョ」をはじめとして、未体験の料理ばかりがまだまだ多い。死んだ友と食するサラブーリョといい、墓守がせっせと食するフェイジョアーダといい、死と食がこんなに近いものならば、黄泉の国もまんざら捨てたものではないのかしら。 Dec_2005

「悲しき酒場の唄」 カーソン・マッカラーズ著
白水uブックス
 
amazon
もうひとつのアメリカであるディープサウス、または深南部への強い憧れから行き着いた一冊。カーソン・マッカラーズという作家はこれまで全く知らなかったけれど、ネットを見ているとそれなりにファンのいる作家のようだ。それに作品の多くが映画化されている。作品が多いわりにはその多くがすでに品切れまたは絶版となっており(よくあることで・・)、この短編集もamazonのユーズドマーケットで買ったもの。

収められている作品は、「悲しき酒場の唄」「騎手」「家庭の事情」「木石雲」の4作品。
どの作品もが(少なくとも「騎手」を除いては)「愛」をテーマにしているが、ここで語られる愛は徹頭徹尾、難しく厳しく、やるせなく残酷な愛である。

出てくる人物は誰もがいびつでこっけいであり、大真面目な反面失笑を誘う。「悲しき酒場の唄」は奇怪な三角関係の物語で、それぞれの愛の根拠は全く不明だ。例えば、主人公のアメリアはなぜ、せむしで小人の上に天使のような性格の持ち主と言うわけにもいかないいとこのライマンを愛するに至ったか。美男子だけど育ちが悪かったために悪魔のような札付きの悪者に育ってしまったマーヴィン・メイシーは、町の年頃の娘たちをたぶらかし、なぐさみものにしながらも、なぜその真摯にして報われぬ愛を、男のように大きくて、頭はいいが金持ちでケチのアメリアに捧げたのか。そして、せむし男のライマンは、アメリアの愛をほしいままにしながらも、どうしてマーヴィンに心を奪われてしまったのか。不器用と呼ぶにはあまりにコトバの足りない怪奇な愛の三重奏が、さびれて時間の止まったようなアメリカのいなか町で悲劇に集約していく。 Nov_2005

「逆さまゲーム」 アントニオ・タブッキ著・須賀敦子訳
白水uブックス
 
amazon
タブッキは旅の作家。そして、イタリア人でありながら、イタリアよりポルトガルについてよく書き、そしてポルトガルの詩人フェルナンド・ペレイラを生涯のテーマとしている人。わたしはタブッキといえば昔「インド夜想曲」を読んだだけだったけど、これをきっかけにいろいろ読んでみたい。
本書は「逆さま」をテーマにした短編集と聞いて、ミステリーによくあるあざやかなどんでん返し、またはフリオ・コルタサルのような(またはエッシャーの絵のような)実存的だったり異次元的だったりする展開を想像したけれど、そこはタブッキ、「逆さま」の解釈がかなり違う。
「逆さま」をモチーフとしたこれらの短編小説群は、
時代も、しばしば舞台も判然としない。謎めいた符号やとるに足らない出来事が不思議な手さばきでちりばめられ、物語は宙ぶらりんのまま、ふっと終わってしまう。舞台はリスボンだったり、モザンビークだったり、アルゼンチンのどこかだったり、ローマだったり。
例えば巻頭の「逆さまゲーム」。主人公の男性が知り合いの女性の訃報を受け取るところで物語は始まる。その日、たぶんイタリア人である彼は、マドリッドにいて、ベラスケスの「ラス・メニーナス(侍女たち)」を見ていたところだった。
・・・という風に出だしから「逆さま」のナゾが紛々。知らせを聞いて彼はポルトガルに向かう。イベリアの荒野を国境に向かって進む列車の中で、スペイン人の青年と交わしたかみ合わない会話や、翌日リスボンで出会う、喪に服した女性の夫とのやりとり、フェルナンド・ペレイラ(タブッキの人生のテーマらしい)の発禁本をめぐって、女性が主人公にしかけたらしきゲーム・・・。そして、死んだ女性の残した不思議なメッセージ。物語は鏡から鏡へと読者を誘い入れ、そして終わる。

冒頭に引用されているのはロートレアモン。
「ものごとの、なんのことはない裏側」 Nov_2005

「The Curious Incident of the Dog in the Night-time」
Mark Haddon
著 
amazon
昨年パリ、シェイクスピア・アンド・カンパニーにてこのペーパーバックを目にして以来ずっと気になっていたのだが、とうとう買ってしまった。今年のパリではフランス語訳も目にした。アマゾンで見たところ、日本語訳も出ているらしい。(でも、書店では見かけないなあー。)
さて、本書は自閉症と思われる15歳の少年クリストファーが一人称でつづった物語。夜中に家の近所で犬のウェリントンが殺されているのを目撃することからこの愛すべき物語は始まる。
前半は、あやうく犯人の濡れ衣を着せられそうになったクリストファーが展開する探偵物語が進行し、後半はロンドンまでの冒険物語が語られる。普通のこどものように自立した生活は出来ず、感情表現や人の感情を読みとるのがニガテな反面、数学がずば抜けて得意なクリストファー。この自伝的物語についても各章に素数を振る、など随所に楽しいしかけがいっぱい。何事もロジカルにしか解釈できない彼の頭の中は、英語だとかえって非常に納得が行く展開なのだが、果たして日本語に訳されたとき、どのようになるのだろう。
クリストファーもクリストファーのご両親も大変だけどがんばってね、と心も温まる作品でした。 Oct_2005

「ペルセポリスII マルジ、故郷に帰る」
マルジャン・サトラピ著 バジリコ株式会社 

中野
先月パリのfnacに行ったときバンドデシネのコーナーもしっかりチェックしたが、このペルセポリスは全部で4冊の構成になっていて、堂々と目立つ場所に置かれていた。フランスでも売れているのかな。
1冊目の「イランの少女マルジ」を読んだあと、迷うことなくこの続編を買ったけど、こちらも大変面白かった。
14歳で親元を離れてオーストリアに留学したマルジは、友人や恋人を得て時にはドラッグに溺れそうになったり移民としてのアイデンティティの危機に遭遇しながらも西洋社会に適応していくが、失恋がきっかけでぼろぼろになってテヘランに帰郷。ヨーロッパから帰郷すると抑圧的な社会にあらためて驚き、権力側とたびたび小さなトラブルを起こしながらもなんとか再び適応して美術大学へ。結婚、離婚を経て再び親や祖母と別れてパリに旅立つまでが描かれている。
裕福で自由な思想を持つ両親に甘やかされて育ったマルジは、おしゃれもパーティも大好きな奔放な女の子。その一方で、自我が強く、向上心があって、社会の矛盾に屈しない彼女
が、ナンセンスなまでに保守的、反動的なイスラム社会で成長していく様子は、日本の多くの女の子にツメの垢を煎じて飲ませたい気分。(わたしも含めて反省することしきり。)そう、もっと勉強しなければ。平和ボケは本当に怖いです。 Oct_2005

「シンプル・プラン」
スコット・スミス著 扶桑社ミステリー 

amazon
夏休み!となると機内で過ごす長い時間をどうやりくりするかがいつも課題となる。たいていは読書の時間となるので、どの本を持ち込むかは大問題。特にミステリーはふさわしいお供となる。近頃はあまりミステリーを読まなくなったけど、そういうわけで、夏休みとミステリーはいつもセットでやってくる。
夏休みの読書計画なので、ミステリーを選ぶときはおのずとうきうきする。今回はネットでの人々のコメントを参照して、行きと帰りの2冊を選んだ。1冊目は「死のようにロマンティック」。タイトルも大変良い。叙述の技巧が優れたミステリーとのことらしい。そして、もう1冊はこの「シンプルプラン」。
映画の方はたしか予告を見た段階でパスしたけれど、原作には以前から興味があった。作者は若干27歳。この作品で華々しいデビューを飾ったそうだ。
これは長い冬は陰鬱な雪に閉ざされるオハイオ州北部の、凡庸で退屈な片田舎繰り広げられる、凡庸で退屈な人々の人間劇である。アメリカ合衆国をよく知らないわたしにとって、ニューヨークでもニューオルリンズでも、西海岸でもシカゴでもテキサスでもない、もうひとつの憂鬱なアメリカがここにある。偶然大金を見つけたことから、連鎖が連鎖を呼んで人生を踏み外してしまう怖いお話で、話は小気味よく展開するのであっという間に読み終わってしまう。特に中盤に至るまでの展開にはよどみがないが、後半はちょっと予想とは違っていた。わたしはさらに怖い展開を予想していたのだが・・。
仲良し3人の運命の歯車が狂う、という設定は、映画“シャロウ・ザ・グレイブ”(トレインスポッティングで大ブレイクしたダニー・ボイル監督とユアン・マクレガーコンビの、大ブレイク前夜の作品です。)を彷彿とさせる内容でもある。雪に閉ざされた憂鬱なアメリカを舞台に、凡庸な人々がめぐらす悪巧みの空回りぶりを描いた点では、コーエン兄弟の“ファーゴ”にも似ている。いずれもとても面白い映画です。 Sep_2005

「死のようにロマンティック」
サイモン・ブレット著 ハヤカワ・ミステリ 

amazon
美人の独身教師マデレーンの恋と、彼女をひそかに恋する青年の三角関係を描いたミステリー。舞台はイギリス、ブライトン近くの小さな町。ネットで複数の人たちが「必読!」と絶賛していたので、是が非でも機上のおともとしたくなった。残念ながら本書はすでに品切れ(または絶版)だったので、amazonのユーズドマーケットで購入。提供者は複数いたので、すぐに購入できた。
これがまた大変面白かった。ネットではアガサ・クリスティーの「アークロイド殺人事件」のタイプとして取りざたされていたので、ある程度は技巧の裏を読むこともできてしまったのだけど、でも、2重3重のトリックが仕掛けてあるので、それでも十分に楽しむことができた。
トリックがエンタテイニングなだけではなくて、全体にそこはかとないユーモアが漂っているのが良い。殺人事件を経て結末まで至ると、くすりと笑ってしまうような作品に仕上がっている。「シンプル・プラン」が普通の人間のこわさを描いた作品である一方、こちらは普通の人たちのグロテスクなおかしさを描いた作品と言えるのでは。

昔(10年から15年くらい前かな)は周囲にミステリー好きが少なくなかったので、主に借りてずいぶん読んだ。アガサ・クリスティ、パトリシア・ハイスミス、ルース・レンデルなどなどをはじめとして、あの頃流行ったパトリシア・コーンウェルやジョン・グリシャムなどなども。すっかりミステリー離れが進んでいたけど、このへんでちょっと巻き返そうかな。 Sep_2005

 

「ペルセポリス1−イランの少女マルジ」
マルジャン・サトラピ著 basilico 

中野の本屋
イランの少女の話、ということでちょっとだけ興味を持ち、本書を手にとった。ページを繰ってみると絵が大変良いので思わず購入することになった。イランの話だから、というのは第二の動機である。
ナイキのシューズやマイケル・ジャクソンが好きなちょっと気が強い普通のお転婆娘マルジの日常を、最初はわりとくつろいで読んでいたけど、後半は恐ろしい戦争の現実が少女の日常を加速度的に侵食する。そうだ、これはもしかしたら、グラフィックノベル版、現代版、イスラム版の「アンネの日記」なのだ。
はずかしながらわたしはイランと他のイスラム諸国の文化的な違いがよく分からなかったが、それは「イスラム」と「アラブ」が頭の中でごっちゃになっていたからなのだった。イランは歴史上ペルシャと呼ばれていた国で(そういえば、昔世界史で習ったが)、もともとはゾロアスター教徒の国、ある時点でイスラム教に改宗した経緯を持つ。
わたしは80年代の終わりにスペインに住んで、そこでたくさんの亡命イラン人の人々と出会った。特に友人になった人はいなかったけれど、友達の友達、くらいの間柄でいっしょにお酒を飲んだりバルでしゃべったりした。深刻な話をしたことはなかったけれど、背後に革命や家族離散などのストーリーを抱えていることはなんとなく話の端々に出てきたり、察せられたりした。当時イランは遠い国だったが、その後日本に帰ってみると、東京はなぜか突然イラン人であふれていた。偽造テレカを売るイラン人、大久保でコロンビア人娼婦と組んで商売するイラン人、上野公園でたむろするイラン人・・・。亡命と偽造テレカはにわかには結びつかなかった。どちらも極端にして真実なイランの姿だったに違いないが、少女マルジを通して語られるイランの人々はこれまでなかったような共感と同情(という表現が適切か・・)をわたしに抱かせた。
物語の最後にマルジは親元を離れ、単身オーストリアに送られる。ラストまで読んだわたしは続編を買わずにはいられなかった。今続編を読んでいます。

先日立ち読みしたNEWSWEEKにマルジャン・サトラピがとりあげられていた。実物の彼女はいかにも中東の大変な美人であった。 aug_2005

「A Moveable Feast」
アーネスト・ヘミングウェイ著 


ヘミングウェイが最初の奥さんハドリーと過ごしたパリでの日々を、数十年後に回想して書かれた作品。邦訳は「移動祝祭日」。原題をそのまま訳しているわけだけど、日本語にすると余計幸福感があって良い気がする。

当時のパリには英語圏の文化人がこぞって訪れており、住んだり長期滞在したりしていた。この本にはエズラ・パウンドとか、シルヴィア・ビーチ、ゲルトルード・スタイン、ジェームス・ジョイス、そしてスコット・フィッツジェラルドやその妻のゼルダなど今や教科書に登場するような偉人(?)たちが綺羅星のように次々と登場する。
描かれているのは一言で言えば、貧しかったが幸せだった日々、である。当時のパリに暮らすことの魅力が随所に満ち溢れている。カフェで過ごす時間、湯水のように消化されるワインとビール、散歩、窓から見えるスレートの屋根、そして寒さやお金の心配、時には食事を抜かなければならないひもじさなど、である。特になんのドラマもストーリーもなくその日々がつづられていくのだが、終盤に登場するスコット・フィッツジェラルドはやはり、というべきかかなり強烈な個性を放って、読者を楽しませてくれる。(はっきり言って本物のスコット・フィッツジェラルドはかなりうっとうしい、問題のある性格の持ち主だったようだ。)
スコット・フィッツジェラルドとふたりでリヨンに出かける話は、突然とぼけたロードムービーのような様相を呈して読者を楽しませる。フィッツジェラルドがリヨンに置いてきてしまった車をとりに行くのでつきあわないか、と話を持ちかけたのが始まりだ。
行きは列車で、帰りは車で、という計画で、もちろん交通費はフィッツジェラルド持ち、という話だった。が、彼は約束の日時にリヨン行きの列車が停車するホームに現れず、ヘミングウェイはしかたなく動き出した列車に飛び乗る。リヨンまでのチケット代を払い、リヨンでのホテル代も払って、ハドリーとのスペイン行きのために貯めていたはずのお金を使ってしまう。夜になっても連れは現れず、道端で火を食べる芸を見せていた大道芸人と食事をする。フィッツジェラルドは翌日姿を現して、ふたりの更なる珍道中が始まる・・・。今のわたしにとってはどれもこれもありえないようなのんきな話の数々。若くて時間があるって本当にいいなあ、と思う。パリでの浮き草のような生活が原因で、その後ハドリーとは離婚することになるそうだが。 
フィッツジェラルドとのエピソードは「A Matter of Mesurement」と題された章でもさらに展開される。これは訳すとすれば「サイズの問題」。なんのサイズの話なのかはご想像にお任せします。aug_2005

「スペインのBARが分かる本」
川口剛著 BULKCO 

amazon
わたしの周囲ではこの本がちょっとしたブームなのだ。
まず、Webプロデューサーの若者でスペインはしろうと、とはいっても最近スペイン南部を車でまわり、すっかりファンになってしまった、という人(男)が大絶賛で薦めてくれた。それはぜひとも読まなければ、と思っていたところその2日後に、某スペイン大手ワインメーカーの日本総代理店(=ひとり)を営むスペインのプロである友人からも、ふとこの本を見せられた。ますます食指が動き、こうなったらさっそく読まなければ、ということでamazonに注文。
この本は大変真面目にして肩の凝らないスペインのバルガイドブック。バルについてまとめた本ってそういえばこれまでなかったな。その意味で大変目のつけどころが良い。しかも、目のつけどころが良いだけに終わっていない。この本の面白さはつぶさな調査と分析力にある。
筆者はバル調査の地にグラナダを選ぶ。その理由。「一つは約30万人の人口を持つグラナダという街が、大都市特有の治安の悪さを有するほどには大きすぎず」なおかつ「その一方で都市独特の猥雑性が失われるほどに小さすぎず」しかもひとりの調査にはちょうど良い面積であると考えたからだそうである。全くその通り。しかも、最もわたしが膝頭を打った箇所は「都市の猥雑性」という表現である。あー、がぜん、突然、わたしも1ヶ月くらいグラナダに住んでみたくなった!
バルの立地の分類や、タパスの調査も面白いが、ハイライトはバルに集うおやじ達の行動調査。なんといってもバルの妙はハシゴの妙に尽きる、のではあるが、だからといってあろうことか、ある特定のバルを出た客が次にどこへ行くか、なんとひとりずつ追跡調査を行い、行動分布図を作成したのである。(よく野生動物の調査なんかで行われるように。)その根性には恐れ入ります。発想の面白さを確信していたからこそやり遂げることが可能だったのだろう。
前書きを読めば著者の川口さんは都市学やコミュニティ論を勉強していた人らしい。なるほどね!これまでスペインに長期滞在する日本人といえば、画家とかフラメンコダンサー、ギタリスト、またはテキヤさん(?)などある意味視点が似てそうな人種が多かったのだが、コミュニティ論がバルと出会うとこんなに面白いことになるのである。
かく言うわたしも毎年マドリッドに行く目的は、バルで無駄な時間を過ごすため、と言っても過言ではないくらい。 Aug_2005


「ねじの回転」
ヘンリー・ジェイムス著 岩波文庫 

amazon
昔から興味はありながら未読のままだった誰でもタイトルは知っている名作「ねじの回転」をとうとう読んでしまった。「デイジー・ミラー」の方はまだ読んでいない。
たしかに舞台や設定はあまりにも定番である。数年前に見た「アザース」のお屋敷がそのまま目に浮かぶが(子供もふたり登場するし)、映画の方でゴシックホラーの原点にオマージュを捧げているからなのだろう。あんまり怖くはなかったし、ちょっとへんな展開でもあったけれど、最初に主人公の家庭教師が屋敷の外で幽霊に出くわす場面だけは奇妙で怖かった。彼女は一瞬、そこに屋敷の主人(彼女の雇用主にして、セクシーな中年男性。彼女はひそかに憧れている。しかし、そこにいるはずのない人物である)である男性が立っている、と思う。しかし、次の瞬間目を凝らすと、それは全く違う見知らぬ男だったというのだ。実はこの幽霊は彼女が家庭教師として屋敷に住み込む前に死んでしまった、元・下男であることがまもなく判明する。そしてその後は、元・家庭教師でやっぱり既に死んでいる女性の幽霊とともに、全編にわたってほぼ出ずっぱりに登場する。あんまり頻繁に登場するので、読者も主人公と同様、その存在に慣れてしまって恐怖心を抱かなくなる。
訳者の解説を読むと、この作品には解釈が複数存在し、ナゾが多いために現代に至るまで論議を呼んでいるそうである。わたしは古典的なホラー小説として素直に読んだけれど、幽霊の顔が憧れの屋敷の主人公に見えたあたりから、フロイト的な解釈が適応されて、全ての話を若い女家庭教師の妄想とする解釈も成り立つそうである。たしかにこのシーンだけは、なんだか強烈なインパクトがあります。
怖くなかった、と言ったけど、夜中にひとりで思い出したりしたらやっぱり怖いかも。
 July_2005

「さくらんぼの性は」
ジャネット・ウィンターソン著 白水社Uブックス 

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タイトルがあまり琴線に触れないのでノーマークだったが、近頃のネットでの評判を読んでいるとどうも面白そうなので読んでみよう、ということになった。で、序文でいきなりホピ族の話などが出てくるものだから、一気に気に入ってしまった。ホピ族というインディアンの言語は非常に高度な言語であるにも関わらず、時制を持たない、というのである。時制を持たない頭の中というのはいったいどんなことになっているのだろう。
宣伝文句には「時空を超えた冒険の旅」とある。ちまたによくある「時空を超える冒険小説」は時空の超え方に姑息なつじつま合わせがあって、ちっとも「超える」感覚を得られないことが多いのだが、この作品はもっとずっとおおらかにボーダーレスである。
時代は主に17世紀。主人公は象より重たい大女。鉄砲の弾が当たっても死なないし、オレンジを一度に12個ほおばることも出来る。ピューリタンを憎み、残虐な殺人もいとわないピカレスクな女だが、一方ではヒロイックな一面も持っている。川で拾った息子ジョーダンは船乗りに。幼いときに見世物小屋で母といっしょにバナナを見た日、その向こうに遠い南国の島を見て、やがては七つの海をわたる冒険に出る。世界中のあらゆる場所を訪れたあと、イギリスに最初のパイナップルを持ち帰り、王様に献上することになる。彼と航海をともにする王様の庭師トレードスキャントや、ジョーダンの心を奪う美しい踊り子フォーチュナータなどの登場人物のほか、まるでこの物語の底に眠れる龍のように黒くとぐろを巻いているテムズ川の存在がある。暗くよどんで疫病の温床ともなったテムズ川。海に通じ、世界に通じ、何もない空間に通じているテムズ川。
 July_2005

「Jポップとは何か」
烏賀陽弘道著 

新宿紀ノ国屋本店でようやく見つけた
著者は元朝日新聞の記者で、ながらくアエラの記者をしていた人らしい。著者のセミナーに参加してみることになったので、(マーケティングセミナーなので、半分仕事)その前に急いで読んだ。仕事で読む本はカテゴリをばっちり分けているのだが(なので、このサイトにはあまり記録していない)、この本はジャーナリストのアプローチを知る上でも、ジャーナリズムとマーケティングの関係を考える意味でも面白かったので、ここに載せておこう。
ヘビメタやパンク、グランジなどのムーブメントと違って、Jポップの場合は「初めに名前ありき」だった。という滑り出しからしてなかなか面白い。それは1988年に始まった。1988年に何が起こったか、というとJ-WAVEが開局したんである。そしてそこにははっきり誰と特定できる数人の仕掛け人がいて、その名を誕生させるに至るのである。仕掛けた本人たちもその後時代の大波に飲み込まれ、偶然と必然が絡み合って生まれたトレンドは巨大化し、やがて収束していく・・・。
1988年という年はわたしにとっても思い出深い。わたしは87年からマドリッドに住んでいて、88年に東京に戻ってきたが、そのときたった1年で起こった変化に大変驚いたものである。他にもいろいろあったけど、3つだけ挙げるとすれば、HANAKOが創刊されていたこと、東京ドームが出来ていたこと(屋根のある野球場だなんて!)、そしてJ-WAVEという画期的なFM局の開局だった。 July_2005

「汽車旅行」
大城のぼる画 小学館 

朝日新聞の書評を見て、amazonで購入
最近新聞は全然読まなくなってしまったが、日曜日の朝日新聞の書評だけはかなり忘れずにチェックする。このまんがは昭和16年に発行されたものの復刻版。お父さんに連れられて東京駅を出発する男の子は、ちょうどわたしの両親と同じくらいの年代だ。絵が上品で趣きがあるのが気に入った。当時のことば使いや親子の間の慎み、車内の様子も興味シンシン。
途中で乗り合わせた漫画家の男性(作者自身かも)がフィルム漫画の作り方を伝授してくれたり、お父さんが通り過ぎる地名に合わせて羽衣物語や豊臣秀吉の逸話を語って聞かせてくれたり、と上質な教育漫画の体裁である。親子の会話から、この旅は京都でお母さんや妹と落ち合うためで、帰りは家族4人で東京に戻ってくるのだ、ということは分かるのだけれど、作品は汽車が名古屋に到着したところで、ふっとなぜか突然終わってしまう。当時の社会事情から、途中で紙がなくなってしまったためかも、という類推を何かで読んだが、雨月物語のラストのようでちょっとだけ怖い。June_2005

「うつくしい子ども」
石田衣良著 文春文庫

目黒のきんかどうに石田衣良コーナーがあって
わたしは永遠の青春物語好きで、思春期のざわざわする胸騒ぎを描いたものが好きなので、石田衣良は以前から勝手に期待して、一度読んでみたいと思っていた作家だった。特に池袋というキーワードの周辺に引かれるものがあった。(現実の池袋は全然好きではないけれど。)
この作品は酒鬼薔薇少年事件がモチーフになっている、という予備知識はあったので、犯罪を犯した少年が主人公なのかと予想していたが、そうではなかった。犯罪を犯した弟を持つジャガという少年が、世間(学校を含めた)の向かい風に負けることなく、まっすぐ育っていくけなげな話でした。しかし、主人公をはじめ、その仲間のこども達がいいこ過ぎるところがあまり現実的には感じられなかったし、ジャガのカウンターエゴのような存在として登場する、美しく罪深い少年も、今ひとつ魅力を発してはいなかった。つくば学園都市がモデルなのかな、という人工的なニュータウンが舞台なのだが、登場人物も区画整理されて、陰影や傷がないような印象だった。良心的な小説だとは思うけれど、大感動というわけにはいかなかった。デビュー作の「池袋ウエストゲートパーク」はどうなんだろうか。June_2005

「Tokyo」
Mo Hayder著 

amazonの新刊案内にすすめられるがままに「買い」!
でもいったいいつ読むの?と思っていたけれど、宣伝文句にあった「Real Page Turner」の通り、読み始めたらかなりのスピードで読みふけってしまった。ある意味「オデッサ・ファイル」の極東バージョン。またある意味Lost in Translationなどのような昨今のTOKYO=不思議ワールドの系列を組む東京を舞台にしたAlice in Wonder World版。物語はまず本郷、東京大学の赤門前、(それも喫茶「バンビ」)といういういきなりスペシフィックな東京の舞台を選ぶ。主人公はグレイ。ある強迫観念にとらわれたかなり変わった女の子。そしてもうひとりの主人公は現在東京大学である研究にいそしむチョンミンという中国人の老学者。彼は南京大虐殺の生き証人。そして、物語は(もちろん)一気にあのいまわしい歴史の汚点の時代へ。

これを読んでいたときちょうど中国の反日運動が激化していたので(今も問題はひきずったままだが)、戦後は終わっていない、ということを思い出していたときでもあり、読書はタイムリーでもあった。作者のMo HayderはすでにBirdmanなどのヒット作を持つ売れっ子作家のイギリス人女性で、東京に住んでホステスをしていた経験があるとのこと。グレイが住むまちが高田馬場だったり、増上寺のお地蔵さんが繰り返し描かれたりしているディテイルが楽しい。

グレイが彼女の大きなバックパックの中にlonely planetを持ち歩いていたかどうかの記述はなかったけれど、わたしがこの本に手を出す心理の裏にはlonely planetを本棚に常備してたまにページを繰る心理と同じものがある。

lonely planet 

主な登場人物:Shujin(Chonmingの妻)、Jason(グレイのボーイフレンド)、Fuyuki(ヤクザの組長)、The Nurse(Ogawaという名のFuyukiの看護婦)などなど。

*学んだ言葉:Placebo Effect Placeboは偽薬の意味で、心理的な効果で偽薬が治療に役立つことをこのように呼ぶらしい。ロックバンドのPlaceboの名前はそういう意味だったのかー。 June_2005

「ハード・タイム」
サラ・パレツキー著 

神楽坂の本屋
しばらくぶりのV・I・ウォーショースキーシリーズだった。わたしが最初の作品に出会ったとき、ヴィクはわたしよりちょっと年上だった。それからいつの間にかわたしの方で彼女の年齢を超えてしまったり、また追いついたりしていたが、(キンジー・ミルホーンの方はだいぶ年下になってしまった。)久しぶりに再開したヴィクはなんと再びわたしとぴったり同い年になっていた。前作で40歳を迎えてから、かなり長いこと次回作が出なかったので、40歳を機にもうシリーズもおしまいなのかと残念に思っていたところだった。なので、この再開はとてもうれしい。

毎回これでもかという危機一髪を果敢に乗り越えるハードボイルドの女V・Iだが、今回はタイトル「ハード・タイム」が示すとおり、シリーズの中でも抜きん出た窮地に立たされることになる。なんといっても濡れ衣を着せられて逮捕され、刑務所に送り込まれてしまうのだもの。時として年齢による体力の衰えを嘆きながらも、しかし彼女はまだまだめっぽう強い。コントレーラスさんもロティもマリ・ライアスンも相変わらず健在で何より。今回は中南米の政治迫害を取材する正義の味方のルポ・ライター、モレルも登場し、孤軍奮闘のヴィクを支え続ける。しかし、最後まで彼のファーストネームは明かされないままだ。早速このあと「ブラック・リスト」という作品が続くようなので(モレルの名前CLのナゾも解けるだろうか?)、楽しみにしよう。  Apr_2005

「岸辺のふたり」(Father and Daughter)
マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット監督作品 

amazon
ネットで偶然知ってジャケット買いしたアニメ作品。2001年にアカデミー短編アニメ賞をとっているが、当時は知らなかった。イギリスとオランダの合作とのことである。内容については予備知識なし。

絵が美しい。影絵のようなタッチで、微妙な色彩が効いている。人生は短い、ということ、人は一生、しこりのようなものを胸に残して、納得がいかないままに老年を迎え、そして死んでいくんだな、ということを大変短い時間に深々と感じさせる作品。そして良い死に方についても。涙。   Apr_2005

「ALIA'S MISSION - Saving the Books of Iraq」
Mark Alan Stamaty著 

まだ桜の咲いていなかった国立にて(銀杏書房)
イラクであった本当の話。こちらはいわゆるグラフィックノベルのスタイルだけど、銀杏書房には同じAliaを主人公にした絵本もディスプレイされていた。Aliaはバスラの図書館長を務めている女性で、昨年の米国軍の侵略時、3万冊もの蔵書を戦火から救ったのだそうだ。

この話を読んでいて思い出したのは、今をさること20数年前。イラン革命だったかイラン・イラク戦争だったかそのトピックは忘れてしまったが、当時のイランといえば、今のイラク以上に遠い存在で(世界が今より広かったので)、イスラム教徒はファナティックなわけの分からない存在、という印象があった。そんなとき、あるニュース番組の映像は、爆撃に遭い、人々が非難したあとの廃墟と化した集落を捉えていた。家具や日用品が無残に散乱する中に、数冊の本が打ち捨てられている。そして、その表紙は間違いなくドストエフスキーの肖像だった。おそらくカメラマンもそれに気づいた上での構図だったのだと思う。無言の映像はそれゆえ一層衝撃的だった。その当時狂信的な群集としか思えなかった民の中に、ドストエフスキーを読んでいる人がいる。その人の置かれた状況は、苦痛はいったいどんなものだろう、と非常な感動を受けたものだった。

一方では中東のこの地域は文化の発祥の地であり、文字の生まれた地域でもある、とあと書きは述べている。パピルスのようなものに書き付けられた文書の多くはすでに紛失しているが、粘土の類に焼き付けられた文書があって、それは2000年以上の歳月ののちに最近発見されたのだそうだ。  Apr_2005

「その名にちなんで」
ジュンパ・ラヒリ著 新潮社

たしか会社の向かいのLIBROで
この作品のことは翻訳が出る前からネットで読んで知っていて、大変興味を持っていた。The Namesakeというタイトルにも大変引かれるものがあり(その頃は勘違いでFor the Namesakeだと思っていたが)、ぜひ原書で読もうと思っていたけど、翻訳を本屋で見かけて衝動買い。日本語のタイトルもいいと思う。
たかが名前、されど名前。名前はその人の人生なんだな、としみじみ思うこちらの長編小説は、前作「停電の夜に」という短編集でO・ヘンリー賞やらピューリッツァ賞などを制覇して話題になった若いインド系アメリカ人作家の2作目だ。
エンジニアとして米国に移住したインド人の父親がゴーゴリの愛読者で、それにいくつかのハプニングも重なったためにゴーゴリなどという奇妙な名前をつけられてしまうインド系2世の青年の半世紀である。
そのような筋書きなので、ところどころでゴーゴリについて語られ、作家ゴーゴリの生き様(作品にたがわずかなりどぎつい)についても語られるが、作品のトーンはゴーゴリのそれとは違って大変淡々としている。ゴーゴリは、研究のために米国に渡った父親とその美しい(しかしインド女性らしく保守的な)母親の元に生まれてかなりめぐまれた子供時代を送る、普通の男の子である。が、思春期を迎える頃から自分の名前を重荷に感じ始め、大学に入学するときに変名の手続きをとり「ニキル」となる。その後の彼はずっとニキルとして、いくつかの恋を経験し、父親の死に遭遇し、結婚し、離婚も経験する。2世として生まれたものの常として、2つの異なる文化の不協和音やごた混ぜも背負う。そうしたことが全て飾りのない抑制された文体で語られていくのだけれど、読者はその基調にどこか人の名前の聖性のようなものを感じ続けることになる。

有色の若い女性作家があちこちで大活躍している。ジュンパ・ラヒリ(インド系)が「停電の夜に」で米国の文学シーンに花々しくデビューしたのと同じころ、UKではゼイディー・スミス(ジャマイカ系)が「ホワイト・ティース」をひっさげて世界の文学愛好家にアピールした。(「ホワイト・ティース」最高!)ジュンパ・ラヒリは2作目で地位を不動のものにしたようだけど、ゼイディーの2作目はどうだったんだろうか?(「代書屋」とかなんとかいうタイトルだったように思う。)私も一見して興味を持てそうな感じではなかったのでそのまま遠ざかってしまったが、世間的にもあまり評価はされていないように思う。   

*学んだ言葉:ABCD=American-born Confused Deshi(アメリカ生まれの困惑したインド系)ABC(=American-born Chineseがベースになっているのかも) Mar_2005

 

「外套・鼻」
ゴーゴリ」著 平井堅訳 岩波文庫

2005年冬中野でコーヒーを飲むのに、お供の本がなかったので購入
後でしばらく前にも同じ本を買っていたことに気がつきました。しかたない。
わたしの人生は第3次ロシア文学ブームを迎えている。1回目はまだ小学生の頃。学校の図書室でドストエフスキーの「貧しき人々」や「白夜」とともにすでに「外套・鼻」のセットは読んでいた。このようなロシア文学に親しんでいたために、当時すでにサモワールや、お茶(紅茶)にジャムを入れること、奇妙なロシア語の呼称のルールなどもなんとなく知っていた。そして当時すでにわたしの好きな文学のジャンルだった。
2番目のブームは20代。たぶん大学を卒業する頃から20代後半にかけて、社会不適応でやたらと難しい本を読んでいたころ。学生時代に読み始めて残酷なシーンで一度頓挫した「罪と罰」への再挑戦を皮切りに、熱に浮かされたようにドストエフスキーを読みまくった。(ドストエフスキーを読むのに、熱に浮かされないわけにはどうしてもいかないのだった。)今まともな社会人となった私には、もうしばらくあのような読書体験はできないだろう。
その後のロシア文学との再会はまずはノルシュテインを通して。ノルシュテインとの出会いも20代のころにさかのぼるけど、「外套」をベースにした作品は知らなかった。(今もまだ見ていない。)その作品のことを聞いたときに、遠い昔の感動だけが残っている作品をもう一度読んでみたいと思った。で、文庫本を買ったけれど買ったことさえすぐ忘れてしまっていた。次にきっかけとなったのは、ジュンパ・ラヒリの「その名にちなんで」だった。

一言で言ってこんなに斬新でおかしなストーリーが19世紀すでに名作として認められたことが不思議である。わたしは特に「外套」の大ファンで、よく考えてみるとそのグロテスクなユーモアと悲哀は、この前読んだ「仕立て屋の恋」にも引きつがれている。わたしの好みのジャンルなんだろうか。  Mar_2005


「仕立て屋の恋」
ジョルジュ・シムノン著 高橋啓訳 早川書房

2003年5月中野で購入
期待通りの非常な面白さだった。言わずと知れたパトリス・ルコント監督の映画「仕立て屋の恋」の原作だ。上映当時、映画にも大変感動したけれど(私の好みから言うと「髪結いの亭主」以上に好きだった)、同時に原作がジョルジュ・シムノンであると知ってそれ以来大変興味を持っていた。映画を見てからかれこれ10年ほどの月日を経て読むつもりになったのも、フランス語を勉強するようになったことがひとつのキッカケである。
原作も映画に劣らない傑作だった。シムノンの作品だというのに、映画が公開されるまでは翻訳は出ていなかったようなのが、驚きだ。原作は映画とはだいぶ趣きが違う、第一に準主役の女性アリスの描き方が違う、というのは何かで読んで知っていたが、原作では主人公のイール氏は仕立て屋ですらない。(父親は仕立て屋だったが。)
原題は「イール氏の婚約」または「ムッシュ・イールの婚約」と訳すべきなのだが(もしかしたら映画の原題もそうなのかしら?しかし、映画の中のイール氏は確かにミシンを踏んでいた。その姿勢と足踏みがイール氏の几帳面な性格をよく表現しているのであった。)本が映画と合わせてリリースされた事情により、タイトルも映画の邦題に合わせた、ということだ。
映画の方はブラームスのテーマ音楽が非常によく似合う、孤独でせつなくも美しい作品だったけれど、原作の方は悲しくも同時に、グロテスクでこっけいである。メグレシリーズでおなじみのクールで抑制の効いた文体はここでも健在だけれど、それでもまるでドストエフスキーのアンチヒーローものと重なってくるほど(「分身」「永遠の良夫」その他)、イール氏の孤独な人生、恋と絶望は狂気じみた非現実的な悪夢として表現される。

この作品にはわたしがわくわくする要素がたくさん詰まっている。

まず覗きのテーマ。そして窓。
映画で言っても「裏窓」やキシェロフスキの作品などたくさんの前例があるけれど、わたしは窓から覗き見える光景から発展していくストーリーの展開というものがいたく好きである。それはきっとヨーロッパの古い町並みとその中での生活に対する憧れ(「裏窓」はアメリカだけど)、覗き見というちょっとした罪悪感、窓の外にいる者の孤独感、などによるのかもしれない。一方、半地下にあるイール氏の事務所の窓から見える光景もいろんな映画で見た記憶と重なる。見上げた窓から見える靴の行き交う光景は、やっぱりとてもヨーロッパ的である。

部屋の周囲に立ち込める雑音。
イール氏の静かな生活をふちどり、さらにその孤独を演出する周囲の音が繰り返し描写される。食器のぶつかる音、赤ん坊の泣き声、ぼそぼそとくぐもる話し声。子供が練習するバイオリンの音。夜周囲が寝静まった頃に響く高速道路を通る車の音、今日が日曜日であることを告げるラジオの音声、など。

アリスのかじるオレンジ。
映画は映像の芸術なので、それはアリスの足元をころころと転がり落ちる複数のオレンジの鮮やかな色彩として表現されていた。映画「仕立て屋の恋」の中でも大変好きなシーンだが、原作ではそれはオレンジの香りとして表現されているのであった。日曜日になるとアリスは恋人エミールに連れられてルールも分からないサッカーの試合を見物に行く。そこで彼女がかじるオレンジの香りが周囲に広がり、イール氏の鼻腔も刺激する。

パリのスレートの屋根。
警察、アパートの住民やそのほかの野次馬たちから逃れようとイール氏が行き着いたのはアパートの屋根の上だった。パリのスレートの屋根は、まだ下から見上げた経験しかないけれど、その白っぽいグレーの連なりが大変映像的で美しい。それが追い詰められたイール氏の最後の居場所になったことが鮮烈である。屋根といえば、マドリッドの古い建物の、オレンジ色のかわらの連なりも大変美しい。わたしが以前住んでいたアパートは、お風呂の窓から周囲の建物のオレンジ色の連なりが幾重にも波打っていて、それは大変美しい光景だった。

物語の冒頭イール氏がなぜ頬に怪我をしていたかは結局謎のままである。イール氏の死後、検事に届くはずの告発の手紙がどのような騒ぎを起こすことになるか、真犯人はつかまるのか、または告発は全く無視されてしまうことになるのかも分からず終いである。せめて、気の毒な犠牲者イール氏の冤罪を望むけど。 Feb_2005

「八月の日曜日」
モディアノ著 堀江敏幸訳 水声社

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何作目かのモディアノ。舞台がパリでなく、ニースであるのも特筆するべきなのかも。こちらも大変不思議な登場人物たちが現れ、時として時間軸を無視して登場し、そして最終的に主人公が彼らから置き去りにされる意味で大変モディアノ的である。
ずっと昔、それがモディアノの原作と知ることもなく、パトリス・ルコントの映画「イヴォンヌの香り」を見た時、その独特の置き去り感覚に奇妙に魅了されたものだけれど(そして従来のルコントファンにそれをどう説明したらいいかわからなかったけれど)、「八月の日曜日」はまるでその原作ではないかというくらい、避暑地の倦怠感と不思議な既視感に満ちていて、それがあの映画に重なっているのだ。そして南十字星のダイヤモンドを胸に飾ったシルヴィアは、過去のニール夫妻の騙った詐欺師(?)の夫妻はどこへ行ってしまったのだろうか。
Feb_2005


「聖耳」
古井由吉著 講談社

amazon内をサーフィンしていて衝動買い
古井由吉は私にとってはじめての作家ではない。「杳子」をかえるさんに薦められて読んだことがあるのでそれ以来のことである。それ以来さらに識字率が落ちたのかなんだか分からないけれど、昨今の出版物の傾向とは裏腹に、なんとルビをふって欲しい単語の多かったことか。
これは病院小説である。マルテの手記も魔の山も風立ちぬもそうなのかは知れないけれど、現在の病院の立場がそうなのに比例して、大変現代的な病院小説である。40代の私は「選ばれてあることの恍惚と不安」だけが文学ではないことにようやく気がつきつつあるが、もう少し先にある老境の文学がここに存在することにようやく気がつきつつあるのであった。(それにしても、読めない漢字が多いことに恥じ入るのであった。)
ひとつ挙げるとすれば、それはやはり「犬の道」である。10階より高いところに居る患者が、そこから犬を放つ。関東平野のまっ平らなところを生きてきたはずの記憶のトポロジーを、その微妙な坂道の
角度まで犬は辿っていく。
夜道をひたひたと小走りに行く。都電もとうに絶えた通りをあちらへこちらへ戻り・・犬には全体が見えない。ただ夜がある。ただせわしない歩みがある・・。三叉路、水溜り、電気屋、時計屋、床屋、瀬戸物屋・・ひたすら暗い夜道である。見たことすらない道筋を自分も知っていると直感するのはなぜだろう。 Jan_2005

「廃墟に咲く花」
パトリック・モディアノ著 パロル舎

amazon
わたしのモディアノブーム第1弾。amazonでモディアノをあれこれ検索してみて、思ったより日本語訳が多く出ていることに驚いた。ま、品切れになっているものも少なくないが。フランス語の原著も含め何冊か注文して一番最初に届けられたのがこちらだった。

モディアノの作品はどれもとても似ているのかもしれないが、こちらも大変モディアノらしい始まり方。そして、最後まで大変モディアノらしい。(というより、モディアノ初体験なので、想像していた通り、というのが正しい。)物語(と呼べるような筋書きはほとんどないが)は「僕」が一人称で語るもので、彼によるパリの通りの彷徨から始まる。彼は1930年代に起きた不可思議な事件について思いをめぐらしている。なんの悩みもなかったはずの美しく若い裕福なカップルが心中を企て、当時の三面記事を賑わしたのだ。思索は時系列を自由に行き来して、彼の人生の過去立ち現れては消えていった人物たちと、その事件が微妙にニアミスを起こす。事件は解決の糸口に近づくように思われるが、結局推理は宙ぶらりんになり、何も解決されない。作品に登場する怪しげな登場人物はあとを絶たない。「僕」が若い頃大学で知り合った聴講生の自称フィリップ・ド・パチェーコもそう。彼も「僕」にスーツケースを託したまま忽然と姿を消すが、彼がかたっていたのは別の人物の名前であったことがわかってくる。彼の作品の中に「パリの尋ね人」といういかにも魅力的なタイトルのものがあるが(品切れ)、彼の作品はこの1作を見ただけでも尋ね人だらけだ。いかにもミステリーらしい仕掛けに満ちているが、問題は最後まで解決しないので、いわゆるミステリー小説を期待して読み始めた読者は鼻を明かされるだろう。わたしの少ないモディアノ体験の中でも、徹底して語られるのは置き去りについて、だと思っているけれど、置き去りにされるのは主人公だけではない。読者もその不思議な空気の中で煙にまかれて置き去りにされるのだ。

古本屋の知り合いが住んでいたパリ郊外の「おおかみ島」は是非訪れてみたい。こんなにモディアノを読むならば、パリの通りの名前が検索できる地図を買わなければ。  Jan_2005

「郊外へ」
堀江敏幸著 白水社(Uブックス)

クリスマスイブの夜、青山ブックセンターを引き継いだ新宿南口のブックファーストで
数年前に「熊の敷石」を読んで以来ずっと気になってきた堀江敏幸。世間的にも芥川賞や三島由紀夫賞をとってメジャー路線でも認められた作家だけれど、最近フランス語をやるようになってさらに多く見かけるようになった名前である。このエッセイ集は彼がフランスに留学していた頃月刊誌「ふらんす」に連載していたものだそうだ。同じようにマドリッドでぶらぶらしていた私にも、同じことが出来たはずなのになあ、といまさら思ってもいる。表紙は松本竣介。美しい新書版だ。

フランス語やフランス文化への憧れは中学生のときサガンに親しんで以来私の中で脈々と続いているものだけど、最近フランス語の勉強を再開して、その興味がパリに集中していることにふと気がついた。パリには何度も行っているけど、おのぼりさんの私には郊外という視点はなかった。しかし、18区とか20区とか、比較的周辺に広がる地域にはもともと大変引かれるものがある。マグレブやアフリカ、東ヨーロッパなど、パリのコスモポリタンな文化を担っている移民たちの多く住む地域で、おいしいエスニック料理の店も集中している。パリの街を歩いているとブラックアフリカが見え隠れしてとても楽しいが、今回フランス語を再開して、パリからマグレブが見えてくることをつくづく再認識した。スペインにはモロッコ人が多く住むし、地理的にも非常に近い。また歴史上アラブの文化が深く浸透していて、それは生活習慣や言葉にも切り離せずに影を落としているばかりか、人種的にも混血している。にも関わらず(またはだからこそ、かもしれないけれど)、肯定的なマグレブ文化というものが見られない。たとえばフレンチレストランではごく普通にクスクスを食べるのに、スペインでクスクスが見られるようになったのはごく最近で、それは日本同様、フレンチの影響に違いないと思う。パリではライという音楽のジャンルがポップスの1分野として普通に浸透しているそうだけど、スペインでライなんて聞いたことがない。・・というようなマグレブの見え方の違いが私には大変面白い。
とはいってもパリにも人種差別は存在する。それを象徴する郊外での事件についてもこの本では言及している。パリ周辺の地域に聳え立つ醜い高層住宅を見上げても、そのことは容易に想像がつく。

手元に地図を置いて参照しながら読みたい内容だったけれど、地図を持ち合わせないので全て想像しながら読んだ。それに、この本のおかげでモディアノとの再開も果たした。モディアノはこれからしばらく私の本棚を賑わすに違いない期待の大きな作家である。そして、また早くパリに行きたい。  Jan_2005

「Quartier perdu」
Modiano

Parisで87年に!
この本をいつ買ったかよく覚えている。87年、スペインに住んでいた当時何度かパリに出かけたが、当時パリで買ったものだ。そのときは父親とパリで会う目的だったが早めにひとりで出かけて、2日間ほどをひとりで過ごした。当時はフランス語も今より読めて、ジャン・ジュネやレイモン・クノーなどなど、好きな作家の本を買うことはあったけれど、Modianoという作家については何も知らず、ただただこのタイトルに引かれて買ったのだった。本を買ったあと、あちこちをうろついていたら、この表紙の建造物そのものに行き当たって、大変驚いたことを覚えている。もしかしたら、パリでは有名な建造物なのかもしれないけれど。

読了はせずにそのあと10年以上忘れていたが、このほどわたしは堀江敏幸の「郊外へ」で、モディアノという作家についていまさらながら知ることになったのだった。ネットで調べてみたら、「モディアノ中毒」という言葉も存在するくらい、愛好者のいる作家なんだそうだ。現在も50代ほどの年齢で、現役で作品を発表し続けている。Quartier Perdu以降の作品も数多くある。その作風やテーマは一貫していて、作品は大学の教材などにも使われている。パトリス・ルコントの映画「イヴォンヌの香り」の原作者なんだそうである、云々。

そんなわけでamazonでModiano作品を大量購入してしまった。今すぐ読むのは無理かもしれないが、フランス語の本も買えるものは少し含めた。残念ながら高い評価を得ていながら絶版になっている作品がここでも見受けられたが、それらの作品については今度パリに行ったときに現地で探そう。

すでに一生かかっても読みきれないくらい本を買ってしまっているのに、新たな作家に出会うとこの上なくうれしい。モディアノに期待大!の年末である。

   

■最近こんな本読んでます。2004年以前のアーカイブはこちら>>>>>>>


■かえる読書
■■かえるキッチン

 

 

■■ついつい買ってしまった本、現在読書が進行中の本、つまみ食いしている本・・。

その冒頭だけがあまりにも有名な「アデン アラビア」・・・僕は二十歳だった。それが人の一生で一番美しい年齢だとは誰にも言わせない。・・・

岡本一平。本人ひとりですでにスゴイ人だが、そればかりか岡本太郎の父にして、岡本かの子の夫であった人。岡本かの子といえば、以前瀬戸内寂聴の「かの子繚乱」でその摩訶不思議にしてこゆーい存在にどっぷりつきあった体験あり。

流行よりは遅れて購入。友人にすすめられて。作品を読んでいない作家が多いのが残念。「9」は「Nine Stories」へのオマージュかな。

ずっと気になっていたが、ついに買ってしまった。フランス語ビギナーのわたしは、この単語auparavantに初めて出会ったときがきっとこの本を買ってしまうときだろうと思っていた。そして、出会ってしまったので。

ネットワークを科学する試み。そのテーマは人々、うわさ話、流行、友人関係から、病気や金融危機に至るまで!

Sixpense House。日本語版が「古書の聖地」なんてつまらないタイトルをつけるものだから、思わず英語版を買った。でも良かった。表紙もこんなにかわいい。

イサベル・アジェンデが故郷チリを語るノンフィクション。早く読みたい!

デヴィッド・ロッジを友人にすすめられて。

タスマニアのアンチヒーローな画家をモデルとした小説らしい。何より「タスマニア」というエキゾチシズムに引かれて。南阿佐ヶ谷書原にて。

品切れと聞いて余計欲しくなっていたのだが、このたび阿佐ヶ谷の古本屋さん銀星舎で発見。

ついでに銀星舎で衝動買い。

この美しい本の存在は昔から知っていたが自らを抑制して買わずに済ませていたのだった。でも、とうとう買ってしまった!持っているだけで幸せ。

2週間に1つずつ世界から言語が消滅している、という現実。言語が消えるということは世界を見る視点が1つ消える、ということだ。

リトアニア出身で日本では無名の作家W・ゴンブローヴィッチ(生誕百年)の「不服従の手引き」。訳分からないながらも荒唐無稽で枝葉末節まで豊かな読書体験の予感。こんな本を買ってしまうのも、南阿佐ヶ谷書原だからこそ。

こちらもモディアノ。品切れということだったので、数ヶ月前にamazonのマーケットプレイスにリクエストを出していたら、このたび出品者があり、手に入れることができた。第2次戦争時の尋ね人広告をめぐるノンフィクションであり、ノンフィクションなだけにさらにモディアノ的である。

先日の日曜日雨の中かさも持たずに荻窪界隈をふたりでお散歩。駅前の古本屋岩森書店(だっけ?)に立ち寄って上下巻を衝動買いした。絶版本ではないので、新刊を買っても良かったはずなのに・・。

同じく岩森書店(だっけ?)に立ち寄って衝動買いした一冊。

そのうちに多くを語ろうと思っている、わたしの気になる作家Bryce Echenique(Peruのみならずラ米文学の代表的作家)の代表作のひとつ。訳すならば「4月に僕を待たないで」(?)

美しい表紙についつい衝動買い。
こちらもモディアノ。ゴンクール賞をとった作品だそうなので、代表作のひとつと言えるかも。フランス語で。
 

再読希望!

本棚も人生ももう一度読みたい本で満ちている。「ドン・キホーテ」「薔薇の名前」「やし酒飲み」などなどなど。

あな楽し哉、博物学

ロバや野うさぎを素朴なフランス語で描写したルナールの「博物誌」も博物学なら、マルコ・ポーロの「東方見聞録」も博物学の産物なのだ。

装丁買い!

美しい装丁の魅力には抗いがたい。ちょっと抗ってはみるけれど、無駄な抵抗である。かくして、今日も衝動買いはとまらない・・・。

ヨーロッパはまだまだおくが深い

遅刻のイェッタトーレってなに?ドイツ人の夏休みが2ヶ月もあるって知ってた?などなど。まだまだ追加していきます・・・。

わたしの好きな本屋さん

南阿佐ヶ谷の書原、国立・銀杏書房、京都・三月書房、バルセロナのあの本屋、マドリッドのこの本屋・・。

怖い本

江戸川乱歩、エドガー・アラン・ポー、夢野久作、ラブクラフトから「ぼっけえきょうてえ」やドストエフスキー、カフカまで。