ダーク・シティ Dark City 〜飛翔するイメージ

監督:アレックス・プロヤス

出演:キーファー・サザーランド/ジェニファー・コネリー

1998年作品

 この映画、この文章を書いている時点ではまだ未公開なのですが、運良く試写会の抽選に当たったのでいそいそと新橋ヤクルトホールまで出かけて見てきました(^_^)。何といっても、あの「クロウ〜飛翔伝説」を作ったアレックス・プロヤス監督の待ちに待った第2作ですから、期待も高まろうというものです。会場でもらった映画のチラシには、「異端のヴィジュアリスト アレックス・プロヤス監督最新作」と煽り文句が書いてあって、結構笑えました(笑)異端のヴィジュアリスト、ってねぇ・・・(^_^;

 チラシの前面にデカデカと踊っている「闇の都市にうごめく<謎>の複合体」という文字。この作品は、まさにその宣伝コピー通り、謎に満ち満ちた場面からスタートします。薄暗いホテルの一室で独り目覚めた男。彼は一切の記憶を失っていた。部屋の中には惨たらしく惨殺された娼婦の死体が...。自分は誰なのか?何故ここにいるのか?これからどこに行こうとしているのか?そして、自分は本当に殺人者なのか?逃げる者、追う者、彼らをじっと観察する者。錯綜するストーリーの中、世界観そのものをも揺るがす衝撃の真実が迫ってくる...

 という、いわば「謎解きもの」のストーリーですが、謎を解く鍵は、実は映画の冒頭でナレーションされちゃってるんですよね。しかも、初盤から謎に直接関わるシーンが細切れながらも挿入され、重要なキャラクターが重要なことをベラベラくっちゃべっています。それでは謎解きものとしては興ざめなのでは?と思いますが、興ざめどころかそれをひとつの演出手法としてしまうプロヤス監督はさすが。謎をはらんでいる現状の世界観と、結論として提示される世界観があまりにかけ離れているために、鍵となるシーンをいくら登場させようとも観客はそれと謎を結びつけることができず、かえって物語を錯綜させる格好の材料となっているのです。ちょうど、ありふれた日常生活の中に悪夢的情景がフラッシュバックのように蘇ってくる、そんな感覚です。しかも、「クロウ〜飛翔伝説」で見せた鮮烈な映像センスの冴えは今回も健在。暗くどんよりとしながらも暖かい生活感のある「ダーク・シティ」と、一切がモノトーンと緑の光で支配された「異邦人の世界」とが微妙な対比を見せながら次々と場面転換し、まさに目眩く疾走感でストーリーが展開します。

 謎の「解答」そのものは、正直言ってSFの世界ではかなり使い古されたものです。使い古されたものではありますが、プロヤス監督の映像センスをもって目の前に映像として示されると、改めて「おおっ」と衝撃を受けるものがありましたねぇ(^_^)。解答の提示は言葉ではなく映像、それもたった1カットの映像なのですが、そのたった1カットでこれまでの世界観をガラガラと崩壊させ、同時に物語のスケール(そして観客の視界)を一気に宇宙的規模に拡大する、まさに映画でなければできない華麗なる荒技です。ここまで綺麗に技を決められると、ひっかけられたこっちもひっかけられ甲斐があるというもの(笑)。その1カットに感動しながら、なんだかP.K.ディックの短編小説を思い出した次第です。

 自分がこれまで「真実」だと思っていたものが本当は虚構に過ぎないのかもしれない...いや、そもそも「真実」って何なんだ?そんなある種哲学的な命題に、プロヤス監督が出した彼なりの結論が、この作品なのでは?そんな気がしました。ディック以来、数多くの作家達が答えを求めてきた命題ですが、プロヤス監督の提示した答えは切なくもちょっと暖かい、いかにも彼らしい回答です。自分が今いる世界が限られた虚構でも構わない、その中で精一杯生きながら、生き甲斐を探していくのは自分自身の力なのだから...そんなメッセージが込められた作品とも言えるでしょう。これって、現実世界に生きる私たちにも当てはまるメッセージですよね(^_^)。

以下は、守永直幹さんによる異なる視点での「ダーク・シティ」解題です。非常に刺激的な解釈で、哲学好きなぜひーにはすごく勉強になりました(^_^)是非読んでね。(守永さん、メールの転載をご快諾いただきまことにありがとうございます。)

 あの映画のテーマは「記憶と生命のかかわり」という点にあります。
 異星人は、同じ記憶を共有している一種の群体的な生命体です。本来は形態を持たないエネルギー生命体なのでしょうが、地上で活動するために死体のなかに入り込んで、それを動かしている。むしろ、その記憶とエネルギーの単一性ゆえに滅びに瀕しているらしい。かれらが人類に目をつけたのは、自分たちとは異なり、集合記憶が存在せず、意識が多様で、一人ひとりが別々の記憶と人格を持っていたからです。その多様性が人類の生命力の秘密ではないかと彼らは考え、その秘密を説き明かそうとして、夜な夜な記憶の入れ換え実験をくりかえすわけです。異星人はまさに生命と記憶の神秘に立ち向かおうとしていた。かれらはいわば起源を求める哲学者の隠喩なのです。
 これにたいして、ダークシティを破壊し、陽光の下で妻と再会した主人公は、自分の来歴を何ひとつ明かそうとはしない。説明しようとはしない。たんに自分の名前が「ジョン・マードック」だと名乗っただけで、そのあと一緒に岬に向かおうとするのです。人間に必要なことは自分の来歴や記憶の真実性や正統性を証明することではなく、今この時の輝きと行為を自分の名において大きく肯定することである。いわば「能動的忘却」(ニーチェ)を肯定すること。もはや私たちの現実はヴァーチャル・リアリティによって、すっかり侵犯されているわけですが、だからといって、リアリティの真正な起源を探ったとしても何も見つけることはできない。そうしたやりかたは「探す場所を間違えていた」のです。人間は記憶によって生きるのではない。今この時の不確かな現実を愛や行為によって肯定することで生きるのだ。私たちを本当に活かすのは単一化された記憶と行為ではない。そうした記憶と行為を共有する集団とは実は死と暗黒の共同体でしかない。そうではなく、単一化に抵抗する行為とそこに現出する多様な個体性によって、ひいてはそれらが取り結ぶ関係性によってこそ、私たちは活きるのだ。それこそがこの映画の根底にある思想です。だから、冒頭の種明かしはどうでもいいことです。プロヤス監督としては、より深いテーマをアピールするために、早めに種明かしをしておきたかったのでしょう。

 それにしても、プロヤス監督の才能は恐るべきものがあります。『クロウ』は単にスタイリッシュな映像の集積でしかありませんでしたが、『ダークシティ』で化けましたね。この映画には真の思想があります。『トゥルーマン・ストーリー』のようなハリウッド的な「私探し」映画よりも遥かに深いものを持っています。ここのところ私はベルクソン哲学における記憶の問題というやつを研究しているので、すっかり感心させられてしまいました。

 『ダークシティ』は本当に優れた映画で、私の解釈はありうべき解釈のうちの一つでしかありません。プロヤス監督は、一観客でしかない私などよりもはるかに多くのことを考え、多くの人と語り合い、多くの試行錯誤を繰り返しつつ、あの映画を撮ったに違いありません。あの映画には確かに思想がありますが、このとき「思想」という意味は、たんなる図式的な思想や哲学の枠組みからはみ出すような過剰な何かがそこにある、という意味です。時間があれば、もっと厳密な分析を試みてみたいものです。

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