量子電磁力学(QED)
量子電磁力学(QED)とは、電磁場と荷電粒子の相互作用を巨視的に扱う古典電磁気学をミクロの空間でも取り扱うことができるように量子化し、かつ特殊相対論の要請も満たすようにしたものです。そして、朝永、シュヴィンガー、ファイマン、ダイソンたちによる繰り込み理論によってそれまで致命的欠陥といわれてきた発散の困難を回避する方法が発見され、摂動論による精密な計算が可能になったことにより、量子電磁力学は一応完成したと言えます。現在、この理論は原子系を記述する理論として最も精密なものであり、原子核や素粒子の内部などの微小な領域にも適応されています。しかし、現在のQEDが究極的な理論ではなく、今後、実験の精度をどんどん上げていった時ある段階で実験からのずれが検出される可能性は否定できません。QEDが現在の量子化された場の理論の原型であることを考えると、それが実験とどこまで一致するのか、つまり、それがどこまで信頼できるのかをテストすることは素粒子物理学の最も基本的な課題の一つであると言えます。そして近年では、実験技術の目覚しい進歩と理論の精密化により、数百ppmの精度で理論をテストできるようになってきています。
歴史的背景
繰り込み理論以前には、自由なあるいは束縛された電子の状態を記述するのにはディラック方程式が用いられていました。この方程式によって計算された水素原子のエネルギー準位の微細構造は当時の実験結果と実験誤差の範囲でよく一致していました。また、ディラック方程式による2S-2P準位は縮退していることや、g因子(磁気回転比)が2に等しいことが当時の実験とよく一致していました。しかし、第二時世界大戦中に急激に進歩したマイクロ波技術が戦後これらの結果の再検討に応用されると共に、ディラック方程式に補正を要することが必要であることがわかってきました。ラムとラザフォードはマイクロ波を使った実験により水素原子の2S準位が2P準位より約1000MHz高い位置にあることを明らかにしました。そして、ベーテはこの現象(ラムシフト)が電子のまわりの電磁場の反作用によるもので電子の質量の繰り込みという概念を用いることによって理解できることを指摘しました。また、KuschとFoleyは電子g因子を直接測定し、それがディラック理論の値2より0.1%大きいことと明らかにし、このずれも繰り込み理論によって計算できることがシュヴィンガーによって示されました。
繰り込み理論
QEDの理論により、電子、陽電子系と光子の関連する様々な物理量や現象の確率が計算されましたが、その中に本来有限であるべき物理量に無限大の答えがでてくる場合が多く存在しました。
QED効果の主なものは、電子の自己エネルギーと真空偏極ですが、前者は電子が自分自身の作り出した場と相互作用することにより、電子の自己エネルギー(電荷と質量)が無限大になってしまいます。そして、後者は真空中で光子が電子-陽電子の生成消滅を繰り返すことによって、電磁場の基底状態が0ではなく、その中を電子が動くと揺らぎを受けてエネルギーを得ることになり、これも発散してしまいます。
また、これ以外にも電子の異常磁気モーメントの効果もあり、電子は磁場の影響を受けることによって、光子を放射し、その反作用を受けるます。そしてこの過程においても発散してしまいます。
図1:電子の自己エネルギー
図2:真空偏極
図3:異常磁気モーメント
そして、繰り込み理論は、これらの困難を避ける為に考えられました。それは、我々が観測する電子の本当の質量と電荷をm、e、裸の質量と電荷をm0、e0として
m = m0+ δm、e = e0 + δe
と表し、観測点を変えることによって、δm → ∞、δe → ∞ の発散とm0、e0の発散が相殺して有限の値を得るというものです。
しかし、"∞ - ∞ = 有限" という考え方にも、根強い反対があり、繰り込みなしで発散を除去するには革命的な変革が必要であると考えられています。
QEDの精密検証
QEDの限界を実験的に調べるには原理的にはQEDで計算可能などんな過程を使ってもいいわけですが、電磁相互作用を通してのみ相互作用する純粋なレプトン系が用いられることになります。特に電子とその反粒子である陽電子が電磁相互作用により束縛されているポジトロニウム(Ps)は他に類を見ない非常にきれいな系である為(電子と陽電子の質量が等しく、理論計算は非常に複雑)、この種の精密測定にふさわしいと考えられています。
Psの内、スピン3重項状態のオルソポジトロニウム(o-Ps)は、142ns程度と比較的寿命が長い為、寿命の精密測定が行いやすいのですが、過去20年来にわたる測定では、一貫して理論値よりも短く測定されてきました。そして、この差は1400ppm程度であり、統計誤差の範囲を遥かに超えるもので有意義な差と言わざるを得ませんでした。
実際にはPsを作る為には物質が必要不可欠であり、また実験層の壁にPsが衝突してピックオフ消滅を起こし、寿命が短くなるという問題があり、過去の測定ではこれに対する補正として、媒質の密度を変化させたり、実験層の表面積等を変化させて測定し、それらの効果がゼロになる極限に外挿して寿命測定を行っていました。しかし、このようにPsと物質との衝突の頻度を下げることにより、Psが熱化する前に消滅する確率が増え、その外挿そのものがPsの寿命が短い方にすれる可能性があることが、Changらによって指摘されました。そして、東京大学素粒子物理国際研究センター(ICEPP)では、ピックオフ消滅(2光子消滅)のγ線は511keVで単色であるのに対し、自己消滅(3光子消滅)のγ線は連続スペクトルであることから、その区別が容易であることに着目し、新しい実験を行いました。
そして、ICEPPによる実験ではo-Psの寿命は142.05nsで誤差は190ppmと報告されており、理論値142.046nsと非常に高い精度で一致しています。
また、最近ではPsの寿命測定として、TACやCFDDの代わりにデジタルオシロスコープを用いた測定も行われており時間分解能も上がってきています。その為、この方法を利用することによって更に高い精度でQEDの検証ができる可能性があるのではないかと考えられます。
現在ではQEDが波綻する気配はなく、応用の面からすれば心強い限りですが、他方その限界を探る為のテストにおいては、これは更に精度を1桁程度上げる必要があることを意味しています。
また、QEDからのずれが今後も見つからなかったとしても、必ずしもQEDが正しいというわけではありません。それは、これらがいずれも粒子間の運動量のやり取りが大きい領域でQEDが破れていたとしてもこれらのテストにはかからないかも知れないからです。このような場合は、高エネルギー反応において検証されることになります。