巻頭言 2009年7月号
”私たちは神の乞食(こじき)です”
- 聖アウグスチヌス-
主任神父 和田
幹男
神は聖なるものだと言いました。神が聖なるものであるなら、それに応じてわたしたちの生活も聖なるものでなければなりません。
パウロも言います。「これが神の御旨です、それはあなたたちの聖性です」(1テサ4の3)と。そのためにまず祈らなければならないでしょう。 祈りとは神との「我と汝」、「わたしとあなた」の語らいと言えましょう(M・ブーバー)。この祈りは、深い沈黙の中で行われます。
神は沈黙の友なのです(G.クルトワ)。沈黙の中でこそ、わたしたちはその語りかける神の声を聞くことができます。それは物理的な音声ではあ りませんが、全身全霊をもってその語りかけを受けとめます。そのためには世の喧噪(けんそう)を避けて、静かなところに逃げ込む必要があります。
フーガ・エ・ムンド(世からの逃避)といいます。初期の修道者たちの一つの精神です。彼らは信徒でした。それは各家庭の自室でもいいし、戸外の 自然の中でもいい。勿論、教会の聖堂もそのためにあります。特に小聖堂はそのために整えられています。今日も一人、また一人と祈る人が来ていました。
どのように祈ればいいのでしょうか。主の祈りや天使祝詞、栄光唱など暗記している祈りを唱えてもいい。ロザリオの祈りを唱えてもいい。昔からある 公教会祈祷文、あるいは最近の祈りの本でもいい。祈りの道に進歩すれば、個人的に瞑想的な祈りもできるようになるでしょう。
初歩のうちは既成の祈りの助けを受ければいい。また疲れて集中力に欠けるときにも、同じです。 ただし、祈りとは願い事だけはありません。たしかに、わたしたちも願い事をします。それは正しい。聖アウグスティヌスは言いました。「わたしたちは神の乞食です」(mendici
Dei sumus)と。ですから、何でも願ってもいいのです。しかし、わたしたちの祈りは、ほかの宗教のように、願い事に終始しません。わたしたちは神がわたしに何を願っておられるのか、にも耳を傾けます。ここがほかの宗教の祈りと異なるところです。神はわたしたちに嫌なこと、辛いことをお望みになるかもわかりません。ゲツセマネのイエスのように、父である神の御旨こそ優先します。
またわたしたちは神を賛美します。神に感謝します。罪の赦しを願います。主を味わって美味しいと味覚で感じるほどまで、祈りをとおして神に親しみたいものです。
Gustate et videte quoniam suavis est Dominus. (Ps.XXXIII,9,Vulgata) 主はなんと美味しいことか、味わって見なさい。(詩編33の9、ラテン語訳)
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