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   2009/11/23更新

主の目に貴重なのは
その敬虔な信徒たちの死

Preciosa in conspectu Domini mors sanctorum ejus.

---詩篇 116-15---

主任司祭 和田 幹男

  11月は、1日の諸聖人の祭日、2日の死者の日で始まります。すでにこの世の人生をまっとうした人々に思いを馳せて祈る2日間です。お墓参りをして、親しかった親族や友人のことを思い出して祈ります。ローマでは、この頃墓地は菊の花でいっぱい。菊は日本では皇室の象徴ですが、向こうでは死者にささげる花。いずれにしても、菊の花は厳かで美しい。他者の死を思うこの時節に、自分自身の死をじっくり考えることも 疎かにしたくありません。紅葉して葉を落とす木々も死の瞑想に誘うかのようです。人間は自分の死を考えるのを本能的に避けようとするのでしょう。「人間は死者を埋葬することに比べて、死の考えを葬りさることには無頓着」(ポシュエ)。{わたしたちはみな、見るのを避けるために何かを目の前において、無警戒にも破局の中をつき走る・・・人は死を癒すことも出来ないで、幸福であろうとして、あえて死を考えないようにする」(パスカル)。
  自分の死を頭の中から吹き払おうとするのが、一般的傾向と言えましょう。「わたしたちは、いつか死ぬという事実を容易に納得できるのに、あまりにも死を考えることが少ない。死を考えたとしても、曖昧な未来のこととして、自分とは関わりのないことと考える」(シュプリエ)。しかし主イエスは言われる。「わたしは盗人のようにあなたのもとに来る」(黙3-3 )。「見よ、わたしは盗人のように来る。・・・目覚めている人は幸い」(黙16-15)。わたしたちは、自分の死を直視しよう。 命の根源である神を信仰するわたしたちにとって、死は恐ろしいものではないはず。死んで復活された神の子イエスを信仰するわたしたちにとって、死は無に戻ることではないはず。{キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることになる」(ロマ6-8)。これが洗礼の意味です。この信仰をもって、死を直視しよう。洗礼を受けたわたしたちは、聖霊を受け、聖霊によって、すでに今キリストの不死の命に生かされている。わたしたちは肉体の死を越えて生きるものなのです。この信仰をもって、神の御旨に従って正しく聖なる生活を貫いていくことが出来れば、その死は主の目に貴重なものだと、詩篇はいう。

  Catholic Minoh Church