「女が映画を作るとき」
発行・平凡社新書
著者・浜野佐知
定価・本体740円
桑島まさき
以前、東京国際女性映画祭の記者会見で映画監督、浜野佐知さんを見た時、<男の世界>である映画製作の現場でピンク映画を3百本
以上撮り続けてきた女性監督の心意気を見た気がした。さぞかし、歯をくいしばって数々のセクハラに耐え(本書でも述べてある)、
ガマンし、チャンスを逃さず業界で生きてきたのだろう、としみじみと感じた。その気負いと誇りと苦労を強さに変えた人でしか出せ
ない奇妙な味わいが浜野さんには確かにあった。実のところ、筆者はそれまで浜野さんのピンク映画は一本も観ていなかったし、
「第七官界彷徨−尾崎翠を探して」(98年)も「百合祭」(01年)も観ていなかった。浜野佐知情報皆無のままナマの浜野さんを目の
前にしたのにだ。
その会見で浜野さんは、撮り終えたばかりの「百合祭」について、「女の性を知らずに神秘化したがる男の監督たちへの挑戦状でも
あった」と述べた。それを聞いた途端、筆者は心の中で、待ってました!と叫んでいた。巷に溢れる性を商品化した映画やビデオの中
の女たちは何故、こんなに苦痛な顔をしているのだろうか。イヤならしなければいいじゃないか、と観るたびに居心地の悪さを感じて
いたのだ。これが男が女に抱く幻想だとしたら、「男=単純」以外の言葉は見出せない。女は(男もそうだが)恋をするにも、
セックスをするにも、そこに意志が存在する。なのにこの描かれ方はなんだろう…? もっと「視覚よりも心に届く性の描かれ方」は
ないだろうか、と思っていた。
とりわけ、「高齢者の性」の問題だ。老齢になっても性欲盛んで若い女に子どもを産ませる男は沢山いるのに、一方で「高齢女性」の
性の問題はあたかも不浄なものとされてきたのではないか。口にするだけでも倫理がないかのように。つまり、それは女は
オバアチャンになったら静かに死ぬのを待つだけでよし、と言っているようで悲しい。人生80年の時代にこの倫理的差別はどうした
ことだろう。そう思っていたところに、浜野さんの「百合祭」を知った。
結果として、「『女たちが声にだして自分の性を語り始めている』という確かな実感が生まれた」と語る浜野さんの功績は、実に
大きい。
浜野さんの活動は、最初「女のくせにポルノ映画を撮っている」という一部のフェミニストの誤解や反発をかい、やがて「女の視点で
本当の女の性を描いて欲しい」というフェミニストたちの応援を集めるに至り、女達の手による映画祭や女性センターなどで上映され
徐々に共感を集めていった。数えきれないほどのピンク映画を30年にわたって撮っていながら、日本の女性映画監督で一番多く撮って
いるのは田中絹代(最多本数6本)、と存在を否定された浜野さんは、ここにきてようやく監督として認知され大輪の花を咲かせた。
その道のりは、映画監督になり夢を成就させたものの(ピンク映画の)、自身が表現したいものと出会えず苦悶していた日々との格闘
の歩みでもある。
「アカデミズムや女性学との出会いは、私の意識を大きく変えた。それまでの私は、ただガムシャラに映画を撮り続けてきただけ
だったが、自分の問題として『この世界で、女が映画を作ること』に向き合ったのだ」と述べる浜野さん。読んでいる途中で思ったの
だが、著者は、文才もあるようだ。その上、事実の重みが文章に深みをもたせズシリと胸に迫ってくる。
シネコンで上映されないので知る人ぞ知る存在の女性映画監督たち。日本には、すぐれた映画作家が沢山いることを、著者は「挑戦」
によって認識させた。次回作が楽しみだ!