「黒部の太陽 ミフネと裕次郎」
出版社・新潮社
著者・熊井啓
定価・1600円+税
丸山 哲也
今から二年前、石原裕次郎の十七回忌ということで、「黒部の太陽」の特別上映が行われた。と言っても、リバイバルではない。
抽選で選ばれた人達だけが観られる、文字どおりの「特別上映」である。もちろん私も応募したが、見事にハズレ。ただもう、歯噛み
して悔しがるしかなかった。
・・・が、今となっては「観られなくてよかった」と思う。なぜなら、この時上映されたのが、何と、上映時間二時間十数分の
短縮版だったからだ。「黒部の太陽」のオリジナルは三時間十五分だから、約一時間もの尺がカットされたことになる。
客をナメてんのか、と思う。こんなふざけたマネをして、何が「特別上映」だ。「この映画は大画面で観るもの。だからDVD化も
テレビ放映もしない。裕次郎もそれを望んでいる」だと? だったらなぜこの作品を、上映を待ち望んでいる多くの観客に、完全な形
で見せようとしないのか? ソフト化の意志がないのなら、それはそれでいい。だったら勿体ぶらずに劇場公開して、観客の目に触れ
させるべきだろう。裕次郎が本当に望んでいるのはそのことではないだろうか。
「黒部の太陽」の監督にして本書の著者である熊井啓がこの本を著した理由も、そこにあったらしい。「石原氏の十七回忌の募集で
わかったとおり、全国の多くの映画ファンが「黒部の太陽」を観ることを熱望しているのである。私は三時間十五分の完全版の再上映
を強く望むものである。この本を上梓した最大の理由は、この点に尽きる」という、あとがきの一節に、そのことがはっきりと表れて
いる。
肝心の本編を観ることができない我々若い(?)ファンにとって、本書はまさに旱天の慈雨というべきだろう。製作当事者で
なければ知り得ない舞台裏や、出演者でありプロデューサーでもあった二人の俳優、三船敏郎と石原裕次郎の「カツドウ屋」の顔を
垣間みることができたという一点だけでも、価千金の重みがある。
この記録の中で気になったのは、石原プロモーション専務にして「黒部の太陽」の実質的なプロデューサー、中井景氏の存在だ。
日活と東宝というメジャー会社からの攻撃の矢面に立たされた上にマスコミのターゲットにされながら、前代未聞の超大作を作り上げ
ことに大きく貢献したこの人物は、本書の「影の主役」ではないかと思う。彼がその後、どういう道を辿ったのか、ちょっと知りたい
気がする。
もう一つ、本書の中に奇妙なエピソードがある。「黒部」映画化が五社協定という大きな壁にぶち当たり、頓挫しそうになった昭和
四十二年・六月十五日のこと。熊井監督を自宅に呼んだ裕次郎が、こんなことを言った。
「・・・俺は悔しくて、しょうがないんだ。兄貴に頼み事をしてしまった。こんなことは生まれて初めてだ」
「兄貴」とは、もちろん、あの石原慎太郎である。これはいったい、どういうことだろう? 頼み事とはもちろん、「黒部」映画化
を何とか軌道に乗せられないかということだったのだろうが、それにしても「悔しくてしょうがない」とは、尋常ではない。弟が兄に
頼み事をするのは世間的には珍しいことではないのに、いったい何が「悔しい」のか? 選挙のたびに「裕次郎の兄」を標榜し、
石原裕次郎という名前を頼みにする慎太郎と、「生まれて初めて兄に頼み事をした」と、目を潤ませて熊井に語った裕次郎の関係は、
本当のところはどうだったのだろう。本書の中ではほんの十行足らずでしか触れられていない小さなエピソードだが、何だか妙に
ひっかかるものがある。
本書を読んで感じたことはただ一つ。「黒部の太陽」を観たい!何とかして観たい!という渇望である。映画ファンなら誰でも、
「死ぬまでに観たいこの一本」というのがあるはずだが、「黒部」はまさしく、私にとってその「一本」である。本書には井手雅人
による脚本が完全採録されているが、これを読んでもなお、乾きは癒されない。
「黒部の太陽 ミフネと裕次郎」は、一本の映画を作るために様々な形で襲い来る「破砕帯」を突破していく人々を活写した
すこぶる面白い一冊であるが、同時に、観ることのかなわない作品への想いを無性にかきたてる、罪作りな一面も持っている。
「記録」としても「読み物」としても一級品の、映画ファン必読の書と言えよう。