「成瀬巳喜男の世界へ」
発行・筑摩書房
編集者・蓮賞重彦、山根貞男
定価・2,800円 + 税
松村清志
誕生百年を迎えた名匠、成瀬巳喜男の作品世界を多角的に論じた力作論考、身近に仕事をともにしたスタッフ、キャストの
インタビュー、成瀬に親愛を感じてきた映画監督たちのエッセイを収録して、初心者から映画通まで様々な楽しみ方、活用の出来る
1冊である。
個人的に最もワクワクする思いで読んだのは大久保清朗(おおくぼ・きよあき)による「ニューヨークのキミコ」という文であった。
成瀬の戦前の代表作といわれる「妻よ薔薇のやうに」(35)は何と「キミコ」と改題されて1937年にニューヨークで劇場公開されていた
のである。その時に酷評を書いたのが後にジョン・フォード映画の脚本家となるフランク・S・ニュージェントであり、積極的に評価
した評を書いたマーク・ヴァン・ドーレンというのはロバート・レッドフォード監督「クイズ・ショウ」(95)でポール・
スコフィールドが演じたレイフ・ファインズの父、その人であったのだ。成瀬とジョン・フォードが時空を超えて出会っていたという
事件≠ノは頭がクラクラしてしまうが、それだけではなく日本ではベストワンの名作となった作品が何故ニューヨークでは酷評惨敗
してしまったかについて、当時のアメリカのアジア観への考察をとても興味深く読んだ。
藤井仁子(ふじい・じんし)による「女の中にいる他人」(66)をめぐる考察も、女性映画の名匠によるサスペンス映画を「異色作」と
いうレッテルを貼ることなくきっちりと論じつつ、ヒッチコック「めまい」(58)にまで出会わせてしまうという、めまいのするような
サスペンスたっぷりの文として一気に読まされた。
などと、ひとつひとつの文に言及していけばきりがなくなってしまうが、上記の2人に加うるに常石文子(つねいし・ふみこ)も
合わせた70年代生まれの若き映画研究者による文は、どれも成瀬を現在に向けて解放しようという気迫に満ちたすぐれたものである。
むろん、本書の編者でもある蓮賞重彦、山根貞男という両大御所による論考が熟談・再読に値する力のこもったものである事は言う
までもあるまい。
スタッフ・キャストへのインタビューは現場の声を判りやすく伝えており、成瀬初心者はまずここから読んでみればよいだろう。
成瀬に親愛を感じてきた映画監督によるエッセイもどれもすぐれたものだが、中でも僕は楊徳昌(エドワード・ヤン)のそれに最も
魅力を感じた。同じ台湾の巨匠でありながら小津びいきのホウ・シャオシェンの近年の不振立を思うと、小津の偉大さは映画監督を
萎縮させ、成瀬の偉大さは映画監督を育てるような所が、あるいはあるのかも知れないなどと考えてしまうのは大偏見か?
などとエラそうに書いてきたが僕は成瀬作品を未だに9本しか観ていないし、先頃の新文芸座での特集上映にも行けずじまいだった。
それでも、「稲妻」「山の昔」を息をのむように時の感動は生々しく身体に刻まれているし、「浮雲」「乱れ雲」の演出の冴えにも
感嘆したものだ。
本書を手引きとして成瀬巳喜男を僕もこれから発見していかねばなるまい。