「誇り高き西部劇」
発行・新書館刊
著者・逢坂剛、川本三郎
丸山 哲也
最近、映画館で「・・・のプログラムください」と言うと、売店のおねいさんに「パンフレットですか?」と聞き直されることが
ある。
そうか、プログラムという言葉は、もう通用しないんだなあ、と、その度に思う。
私は昔から、プログラム派だった。周囲にチラシのコレクターは多くいたけれど、どうも私はチラシにあまり価値を見出せ
なかったのだ。
何よりもプログラムには、史料的価値があった。ページを開けば、そこには解説やシノプシスがあり、著名な批評家による細部の
説明や歴史的背景の含蓄があった。これは私にとって、まさにもう一つの映画、すなわち「読む映画」であったのだ。
残念ながら、最近のプログラムは駄目なものが多い。ろくに読むところのない、下手糞な写真集みたいなのは論外。そこそこ文章
が載ってはいても、愚にもつかないメイキングや「映画ライター」とか称する人々のお遊び文がほとんど。おまけにデータに誤りが
多く、誤植も目立つ。
サイズが統一されていないのも困る。やたらデカいのや小さいのなど、てんでバラバラにされては、保存に困るではないか。
いや、話がすっかり逸れてしまった。
本書の著者である逢坂氏も川本氏も、筋金入りの「プログラム派」らしい。
お二人の対談を読んでいると、少年時代、映画がハネた後、目を輝かせてプログラムに見入っていたであろう姿が想像されて、
微笑ましくなる。今時のマニアやオタクなどとは違う。ああいう手合いは映画を自己満足の道具にしているだけだ。知識の豊富さや
批評家の真似事みたいな物言いを誇るばかりで「楽しむ」ことを知らないいびつな輩には、純粋に映画の世界に「遊ぶ」ことなど
できはしまい。
それにしてもこの対談、逢坂氏と川本氏の資質の違いが如実に表れていて、面白い。
逢坂氏が西部劇というジャンルや西部開拓時代の歴史に詳しいのに対し、どうしても女優の方に話が走ってしまう川本氏の、微妙な
姿勢の相違が、なぜか「活劇というものの愉しみ」という点で一致してしまうあたり、読んでいて実に愉快である。
「西部劇映画のプログラム」という、一見閉じた世界の中で、これだけ拡がりのある会話を成立させられるお二人には、本当に驚嘆
させられる。
映画好きの鑑とは、こういう人達のことを言うのだろう。